表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/39

22 九条ルカ

 意識が浮上したとき、まず分からなかったのは――自分がどこにいるのかだった。


 白い天井。

 規則的に点灯する照明。

 消毒薬の匂い。


 凛は、ゆっくりと瞬きをした。


「……ここ……」


 声に出してみて、喉が乾いていることに気づく。

 頭は重く、身体は鉛みたいだった。


 視界の端で、人影が動く。


「…よかった。目が覚めたのね」


 落ち着いた声。

 聞き覚えのある、職員の口調だった。


 凛は、反射的に上体を起こそうとして――肩に走った鈍痛に、小さく息を詰める。


「……っ」


「無理しないで」


 職員が一歩近づき、端末を操作する。


「大丈夫。今は横になったままでいい」


 凛は、ゆっくりと呼吸を整えた。


「……私……」


 記憶が、途切れ途切れに浮かぶ。

 黒い影。

 文字の奔流。

 空間が沈み込む感覚。


 最後に覚えているのは――

 あの衝撃だった。


「……あの後、どうなりましたか」


 掠れた声だったが、凛はきちんと敬語で尋ねた。


 職員は一拍置いてから、端末を閉じる。


「今回の異常事象は、収束してる」


 淡々とした口調。


「あなたが意識を失ったあと、

 周辺で観測されていた異常反応は急速に減衰」

「現実側への影響も、危険域を下回った」


 凛は、目を伏せたまま聞いていた。


「拘束されていた司書は保護」

「現在は別室で経過観察中」

「生命反応、安定」


 その言葉に、凛の胸の奥が、わずかに緩む。


「……よかった」


 小さく、息を吐く。


 職員は続けた。


「異常空間は、完全に消失」

「記録上も、残留現象は確認されていない」


 凛は、そこでゆっくりと顔を上げた。


「……“記録上は”、ですよね」


 職員の視線が、わずかに動く。


「鋭いわね」


 否定はしなかった。


「確かに、観測できる範囲では問題なし」

「ただ――」


 言葉を選ぶように、少し間が空く。


「あなたのバイタルに、気になる点がある」


 端末の画面が、凛の視界に入る。


「全身打撲と神経系の過負荷」

「それから……」


 一つ、項目が強調表示される。


「過剰な認識負荷」


 凛は、静かにそれを見つめた。


「……やっぱり」


 思わず、そう呟いていた。


 職員は首を傾げる。


「心当たりがある?」


「……はっきりとは」


 凛は、正直に答えた。


「でも……」

「事件の前より、感覚が……近い気がします」


 世界が、近い。

 言葉にすれば、それだけだった。


 音も、光も、人の気配も、

 全部が一段、近くにある。


 職員は、しばらく凛の表情を観察してから言った。


「しばらくは経過観察」

「現場復帰は、許可が出るまで待って」


「……はい」


 返事はした。

 けれど、胸の奥の違和感は消えない。


 事件は終わった、と説明された。

 記録も、数値も、そう示している。


 それは理解できる。


 なのに――


 凛は、シーツの上で、そっと指を握る。


 まだ、何かが残っている。


 終わった“あと”に残るはずのない感覚が、

 薄く、確かに、胸の奥に張り付いている。


 整合タグに触れる。


 冷たい。

 沈黙している。


 それが、逆に不安だった。


 凛は、天井を見つめたまま、静かに思う。


 調査を始めたわけじゃない。

 何かを探しているつもりもない。


 それでも――


 向かわなきゃいけない。


 理由は分からない。

 場所も分からない。


 ただ、

 この感覚を無視したら、

 もっと取り返しのつかないことになる。


 そんな確信だけが、先にある。


 凛は、ゆっくりと目を閉じた。


 これは、使命感でも義務でもない。


 もっと、厄介で、

 もっと、個人的なものだ。


 そして――


 この違和感が、

 次の何かへと繋がっていることを、

 凛はまだ、知らない。




 目を覚ましてから、一週間後。

 凛は、正式に任務復帰の許可を受けた。

 経過観察付きではあったが、行動制限は最低限に抑えられている。


 街に出るのは、久しぶりだった。

 夕方の空は、まだ明るい。


 駅前のロータリーは人で埋まっていて、車のライトと歩行者の流れが、互いに譲り合うようにゆっくり回っている。スピーカーから流れる案内放送は、聞き取れるのに頭に入らない。学生の笑い声、紙袋の擦れる音、遠くのブレーキ音。全部が混ざって、いつもの街を作っていた。


 凛はその雑踏を、歩幅だけで割っていく。


 調査――と言い切るほどでもない。

 けれど、ただの散歩とも違う。


 自分でも理由が説明できないまま、足がここに向いた。


 昨夜の感覚が、まだ抜けていない。

 あの空気の密度。目に見えないのに、確かに重かったもの。触れるだけで何かが変わりそうだった歪み。


 もちろん、今は何も起きていない。

 街は平穏で、誰も気づいていない顔をしている。


 凛は首元に指を添えた。


 制服の襟の内側。喉元に沿う、細い金属の輪。

 整合タグは、普段と変わらない温度だった。


 熱がない。

 痛みもない。


 それなのに、指先がそこを確かめる動きをやめられない。


 凛は小さく息を吐いて、駅前を抜けた。





 商店街へ続く道。

 人の流れが、少しだけ緩む。


 アーケードの中は外より暗く、白い照明が一定間隔で床を照らしている。惣菜屋の油の匂いが鼻の奥に残り、駄菓子屋の前で小学生が群れている。スマホを見ながら歩く学生の肩がぶつかって、軽い「すみません」が交わされる。


 日常だ。


 凛は、その“日常”の隙間に目を凝らす。


 何かを見つけたいわけじゃない。

 ただ、見逃したくない。


 商店街の端に差しかかると、通りは細くなる。喫茶店の看板が一つ、古い電柱に括りつけられている。路地に入る手前の十字路は、人の流れが途切れがちで、空気が少し軽い。


 凛は、そこで足を止めた。


 理由は、説明できない。


 けれど――


 首元が、ひり、とした。


「……っ」


 反射で喉を押さえる。


 痛い、と言うほど強くはない。

 ただ、確かに“刺さる”ような熱が一瞬だけ走った。


 整合タグ。


 普段はアクセサリーみたいに存在しているだけのものが、今だけは、そこに「ある」と主張している。


 凛は周囲を見回した。


 十字路の先に、細い路地が口を開けている。奥は暗く、昼間でも影が濃い。誰かが通り抜けた形跡はあるのに、今は人がいない。


 凛は一歩だけ、路地の方へ寄った。


 ――ひり。


 また、同じ熱。


 今度は短く、きっぱりと。


 凛は、足を止めたまま息を吸った。


 分からない。

 何が、どう、とは言えない。


 でも、ここで何かが起き始めている。


 それだけは、身体が先に知っていた。


 凛は、路地の入り口を見つめる。

 踏み込めば何かが分かるかもしれない。


 けれど、今は――。


 整合タグの熱は、すぐに引いた。

 まるで、知らせるだけ知らせて沈黙するみたいに。


 凛は喉元から手を離した。


 そして、思い直すように視線を戻す。


 ここで無理に踏み込むのは、正解じゃない気がした。

 理由は言えない。けれど、そう思った。


 凛は、路地を背にして歩き出そうとして――


「ねえ!」


 明るい声が、横から飛んできた。


 凛は反射で振り向く。


 そこに、少女がいた。


 駅前の光が届く位置。

 通りの端に立っているのに、目に入った瞬間、妙に存在がはっきりした。


 金髪。

 ただし、荒い色じゃない。光を受けてきれいに流れる、艶のある髪だった。傷んでいる感じがまるでない。


 アイメイクは濃いめ。

 まつ毛の線が強く、目元だけが少し大人びて見える。


 でも、顔つきは明るい。

 笑うと年相応の軽さがあって、そこが逆に目を引いた。


 少女は凛を見て、ぱっと笑う。


「あなた、迷子?もしかして困ってる?」


 距離が近い。

 初対面にしては、近すぎる。


 凛は一拍遅れて、言葉を返した。


「……別に」


「絶対、別にじゃないやつだって!

 ウチ、困ってる人のことほっとけない!」


「…別に、散歩してただけ」


 咄嗟に、他愛のない言い訳が口を出る。


 笑いながら、少女は凛の横に並ぶ。

 並ぶ、というより、当然のようにそこに入ってくる。


 凛は一歩、無意識に距離を取ろうとして――

 やめた。


 この子は、距離を取ったら取った分だけ詰めてくる。

 そういう種類の人間だと直感した。


「ね、どっか行くとこ?」


「……今は」


「じゃあ一緒に歩こ!」


 即決。


 凛が言葉を探している間に、少女はもう歩き始めていた。


「……あなた、誰」


 遅れて投げた問いに、少女は振り返りもせずに答える。


「九条ルカ!」


 声が弾む。


「ルカでいいよ!ウチっぽいでしょ」


 凛は、その背中を見た。


 制服のスカートの揺れ方が軽い。

 歩幅が大きく、迷いがない。


「……東雲凛」


 凛が名乗ると、ルカはぱっと振り向いた。


「凛! いいじゃん、あなたにピッタリ!」


 軽い。

 けれど、嫌じゃない。


 凛は首元を意識した。

 整合タグはもう熱を持っていない。


 沈黙している。


 それが、なぜか落ち着かない。


 ルカは、歩きながら勝手に話し始めた。


「ねえねえ、ここのクレープ屋!食べたことない、並ぼ!」


「……別にいいけど」


「やった! じゃあ寄ろ!」


 クレープ屋の前には列ができていた。

 ルカは迷いなく最後尾に並び、凛を当然のようにその隣に引っ張る。


「何が好き? チョコ? いちご?」


「……どっちでも」


「それ言う人、だいたい甘いの好きなやつ!」


 勝手に決めて笑う。


 ルカは注文のとき、店員にやたら慣れた口調で話した。

 受け取ったクレープを一口食べて、ルカは満足そうに頷いた。


「うま!これ最高!リピ確」


 凛は横目で見る。


 初対面なのに、初対面じゃないみたいに振る舞う。

 距離感がゼロで、押し付けがましくない。

 不思議なタイプだった。


 ルカの手元に、何かが揺れた。


 じゃらじゃら、と小さな音。


 凛が視線を落とす。


 携帯電話。

 今ではほとんど見かけない形。


 折りたたみ式の――ガラケー。


 色はピンク。

 しかも、ただのピンクじゃない。表面に盛り盛りのデコレーションが貼られていて、光が当たるたびに小さく反射する。


 ストラップが、異様に多い。

 じゃらじゃらとぶら下がり、歩くたびに音を立てる。


 凛は、一瞬だけ言葉を失った。


 時代錯誤、というほどの驚きじゃない。

 ただ、今この街で、その形が自然に“現役”であることが奇妙だった。


 ルカはそれに気づいた様子もなく、クレープを頬張っている。


「凛、食べるのおっそ。溶けるって」


「……別に」


「別に、って言う人、絶対気にしてる」


 ルカは笑って、凛のクレープを勝手に覗き込んだ。


 凛は口を開く。

 ガラケーについて何か言おうとして――

 やめた。


 言って何になる。

 言ったところで、意味がない気がした。


 ルカは当たり前のように持っている。

 当たり前のように使っている。


 なら、それでいい。


 凛は、そう結論づける自分に少しだけ驚いた。


 食べ終えると、ルカは次の行き先を決めるみたいに周囲を見回す。


「このあとさ、プリクラ撮ろ!」


 凛は反射で眉を動かす。


「……急に」


「急じゃないよ。会ったら撮るの、普通じゃん?」


 普通じゃない。


 そう思うのに、凛は否定の言葉が出なかった。


 ルカの勢いに押されている。

 それもある。


 でも、もう一つ。

 凛の中で、拒絶する理由が見つからない。


「……別に、いいけど」


「やった!」


 ルカは勝手に決めて、歩き出す。


 ゲームセンターは商店街の外れにあった。

 古めの看板が光っている。中から聞こえる電子音が、外まで漏れている。


 ルカは迷いなく入っていく。


 凛は、その背中を追いながら、首元を意識した。

 整合タグは沈黙している。


 さっきの熱は、もうない。


 じゃあ、さっきのは何だったのか。

 路地の入り口で感じた、あの短い痛み。


 凛は考えかけて――

 やめた。


 今は、この子に引っ張られている方が自然だった。


 プリクラ機の前は空いていた。

 ルカは即座に入って、凛の腕を引く。


「ほらほら、早く!」


「……ちょ、待って」


「待たない!」


 機械の中に押し込まれて、狭い空間に二人の匂いが混ざる。

 甘い香りと、わずかな香水。凛の制服の布の匂い。


 画面に二人の顔が映る。


 ルカは迷いなくポーズを決める。

 指でハート、片目を閉じる。頬を寄せる。


「凛も! こう!」


「……無理」


「無理じゃない! やる!」


 ルカは凛の手を掴んで勝手に形を作る。

 凛は少し気恥ずかしそうに、画面の中の自分を見た。


 笑っていない。

 けれど、硬くもない。


 横にいるルカは、楽しそうに笑っている。


 その笑い方が、やけに自然で。

 初対面なのに、初対面の空気じゃない。


 プリクラの落書き画面に移ると、ルカは一気にペンを走らせ始めた。


「盛る盛る盛る!」


「……それ、やりすぎじゃ」


「やりすぎが正解!」


 ルカは迷いなくデコを足し、文字を入れ、スタンプを貼る。


「ほら、名前入れよ。凛って」


 凛の名前が、画面に打ち込まれる。


 凛は、その文字を見て、胸の奥が小さく鳴るのを感じた。


 ただのプリクラだ。

 ただの記念。


 なのに、そこに“残る”という感覚だけが、妙に引っかかる。


 凛は、ふと首元を意識した。

 整合タグは沈黙している。


 だから、気のせいだ。

 そう思おうとして――できない。


 ルカはプリントを受け取ると、満足そうに頷いた。


「最高。凛、普通に映えじゃん」


「……普通に、って何」


「褒めてる」


 ルカは笑って、プリクラを半分に切る。


「はい、凛の分」


 凛は受け取った。


 紙の触感。

 薄い熱。


 手のひらに、確かに“残った”もの。


 ルカは次の話題に移るみたいに歩き出す。


「んー楽しかった!じゃ、帰ろっか!」


 凛は小さく息を吐いた。


 この子は、本当に勝手だ。

 勝手なのに、嫌じゃない。


 それが、一番おかしい。


 歩きながら、ルカのガラケーが揺れる。

 じゃらじゃらと鳴るストラップの音。


 凛はそれを見て、何かを言いたくなる。

 でも、言わない。


 違和感は、言葉にした途端に重くなる。

 今は、重くしたくなかった。


 夕方の街は、相変わらず日常だった。

 人が行き交い、店が閉まり始め、街灯が点き始める。


 その中で、ルカだけが妙に目立つ。


 金髪が光を拾う。

 笑い声が人混みに混ざっても、消えない。


 凛は、横を歩きながら思う。


 ――何なんだろ。


 言葉にできないままの疑問。

 けれど、怖さはない。


 むしろ、安心に近い何かがある。


 それが、さらに不思議だった。


 駅前に戻ると、ルカは足を止めた。


「じゃ、ここで!」


 あっさりした声。


「……うん」


「凛、またね!」


 ルカは手を振る。


 凛は一拍遅れて、手を上げた。


「……また」


 ルカはくるりと背を向け、人の流れに紛れていく。


 凛はその背中を見送って――

 気づいたら、胸の奥が静かに空いていた。


 さっきまで隣にいたのに、いなくなるのが早すぎる。

 存在の切れ方が、妙に鋭い。

 ただ、胸の奥に残った“ひっかかり”だけを抱えたまま、駅へ向かった。


 歩きながら、ふと背後を見る。


 人混みの向こうに、ルカの姿はもうない。


 けれど、じゃらじゃらと鳴るストラップの音だけが、まだ耳の奥に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ