21 ピンクのガラケー
地下の白い空間から戻るとき、悠斗の口から出たのは、ため息でも反省でもなかった。
「はー、楽しかった」
自分でも軽いなと思う。
でも、そうとしか言いようがない。
階段を上がって、旧校舎の冷たい空気を抜け、外へ出る。
夕方の風はぬるくて、校庭の土の匂いがする。遠くで部活の掛け声が聞こえて、制服の袖を引っ張るみたいに現実が戻ってくる。
現校舎の一階――下駄箱の前に着くころには、さっきまでの出来事が「気のせい」に見えてきた。
白い廊下も、黒いケースも、金髪の管理者も。
全部、頭の中だけのイベントみたいで。
靴を履き替えたところで、横から声が飛んだ。
「佐倉ー! 今からゲーセン行かね?」
振り向くと、クラスメイトが二人。
片方は鞄を肩に引っかけ、もう片方はスマホを回してる。いつもの顔。いつもの温度。
「新しい音ゲー入ったんだって」
「ちょいだけ! 帰り道ついででいいから!」
悠斗は一瞬だけ迷って、すぐに笑った。
「いいよ。ちょうど暇だし」
「よっしゃ!」
「決まり!」
深刻な話は一切ない。
だから、こっちも深刻にならない。
駅前のゲーセンは、いつも通り眩しい。
扉が開いた瞬間、冷房の空気と音がぶつかってくる。機械音、歓声、BGM、硬貨が落ちる音。全部が混ざってるのに、なぜか整っている。
「佐倉、これやって! マジ難いから!」
「え、無理無理。指の数足りない」
「うそつけ!」
笑って、叩いて、負けて、また笑う。
クレーンゲームで変なぬいぐるみに挑んで、取れなくて、景品の顔だけ見て帰る。
そのくらいの時間。
外に出ると、空が少し暗くなっていた。
街灯が点き始めて、アスファルトが夕焼けの色を吸い込んでいる。
「じゃ、ここで!」
「また明日なー!」
駅前で別れた。
クラスメイトは反対側へ。悠斗は家の方向へ。
*
別れて数分。
横断歩道を渡ろうとしたとき、足元にキラッと光るものが見えた。
道路脇、植え込みの端。
落とし物にしては目立ちすぎる色。
「……ん?」
しゃがんで拾う。
ピンク色のガラケー。
全体が盛りデコで、ストーンがぎっしり。角度を変えるたびに光が散る。
ストラップはじゃらじゃら三本も付いていて、ハート、星、謎にでかいリボン。持っただけでチャームが鳴る。
「派手すぎだろ……」
開いてみる。
画面は点く。けれど、上の表示ははっきりしている。
《圏外》
アンテナは一本も立っていない。
最初から、ずっと。
その場でクラスメイトにメッセを投げようとして、やめた。
さっき別れたばっかだし、呼び戻すほどでもない。
――いや、でも落とし物は普通に困るよな。
ちょうどそのとき、背後から声がした。
「え、何それ。ガラケー?」
振り向くと、さっき別れたはずの片方が、コンビニ袋をぶら下げて立っていた。
どうやら寄り道して帰るところだったらしい。
「落ちてた」
「うわ、なっつ。てか盛り盛りじゃん」
クラスメイトは覗き込んで、すぐ言った。
「交番持ってけば? それが一番早いって」
「だよなー」
悠斗は言いながらも、ガラケーを閉じて指で撫でた。
ストーンのざらっとした感触が残る。
なぜか、すぐに交番へ行く気にならなかった。
理由は説明できない。
ただ、気持ち悪いほど「近い」と思ったのだ。
落とした人が、まだこの辺にいる。
今もどこかで探してる。
そういう根拠のない確信。
「……ちょっと探してみるわ」
「え、マジ? いや、届けた方が――」
「いや、ほら。近くにいそうじゃん。持ち主」
「根拠薄っ」
「ノリで!」
悠斗が笑うと、クラスメイトは肩をすくめた。
「まあ、佐倉がそう言うなら止めないけどさ」
「サンキュ。じゃ、また明日」
「おう。変なことに巻き込まれんなよ」
「それ言う?」
軽口を叩いて別れた。
ここまでは、ただの放課後だ。
――なのに。
一人になって歩き出すと、街がほんの少しだけ違って見えた。
*
いつも通る商店街。
シャッターを半分下ろした店。
自転車のベル。
信号待ちの人の列。
全部、見慣れてる。
でも、どこか引っかかる。
ポケットの中のガラケーが、妙に重い。
持ち主の気配が付いてくるような、変な重さ。
悠斗は、いくつかの道を曲がった。
駅前から離れすぎない程度に、ぐるっと回る。
コンビニの前、バス停、ゲームセンターの裏、路面店が並ぶ通り。
「すいませーん、これ落としました?……あ、違うっすか」
声をかけてみても、誰も心当たりがない。
当たり前だ。こんなピンクの盛りデコ、見覚えがない方が普通。
歩いているうちに、時間がじわじわずれていく感覚がした。
時計を見ると、ちゃんと進んでいる。
なのに、体感だけが薄くなる。
夕方の街なのに、空気が冷めない。
人通りがあるのに、音が遠い。
ふと、ガラケーを開く。
《圏外》
「……やっぱ圏外だな」
当たり前の確認。
なのに、落ち着かない。
電波が届かない、っていうより――
そもそも繋がる前提がないみたいな表示。
悠斗は笑って誤魔化した。
「いやいや。考えすぎ」
そう言いながらも、足が勝手に細い道へ向かっていた。
住宅街の端。
店の明かりが途切れ、街灯だけが頼りになる場所。
道幅が狭くなり、壁が近づく。
路地。
さっきまで歩いていた通りから、一本入っただけ。
それなのに、空気の匂いが変わる。
湿ったコンクリの匂い。古い水の匂い。
「……ここ、通ったことあったっけ」
知らない道じゃないはずなのに、初めて見るみたいに感じる。
悠斗はガラケーを握り直した。
ストラップがじゃらっと鳴る。
そして、その瞬間。
ガラケーが、鳴った。
「……は?」
画面を見る。
《圏外》
表示は変わっていない。
なのに、着信音が鳴り続けている。
ありえない。
圏外のはずだ。
そもそもこの機種、今の回線でまともに鳴るのか?
――いや、そういう話じゃない。
悠斗の背中がぞわっと粟立った。
「……やば」
まるで誰かに呼ばれてるみたいだった。
言葉は軽い。
でも、足元は軽くない。
着信音が鳴り響く中、路地に一歩踏み込んだ。
瞬間、世界が薄くなる。
音が減る、というより――距離が伸びる。
遠くの車の音が、急に「別の場所」の音になる。
人の声が、壁の向こう側に沈む。
自分の足音だけが、遅れて追いかけてくる。
「……何これ」
笑えない。
壁の汚れが、さっきより濃い。
影が、妙に黒い。
街灯の光が、途中で止まっている。
路地の奥に、黒いものがあった。
最初は影だと思った。
でも、影にしては立体すぎる。
人の形に近い輪郭。
肩、腕、頭。
真っ黒。
よく見ると、輪郭の周りがざわざわ動いている。
文字が、蠢いている。
何が書いてあるのかは見えない。
ただ、文字だと分かる。
「うわ……無理無理無理!」
悠斗は即座に後退した。
逃げる、という判断が先じゃない。
体が勝手に逃げる。
踵を返して走る。
背後で、複数の気配が立ち上がった。
黒い人型が増える。
文字が擦れる音が追ってくる。
「ちょ、待って待って! 俺まだ何もしてない!」
誰に言い訳してるのか分からないまま、足を回す。
路地の入口が見える。
あそこを抜ければ、明るい通りだ。
入口の光が、やけに眩しい。
――いける。
悠斗はそこに向かって力を振り絞る。
その瞬間、足元がふっと抜けた。
「っ!」
転びかける。
腕でバランスを取ろうとして、手の中のガラケーが滑った。
ピンクが弧を描く。
「……あ」
ガラケーが、路地の暗い床に落ちる。
拾う、という動作が頭をよぎる。
でも背後の気配が、もう近い。
迷ったのは一瞬だけ。
「無理!!」
悠斗は、そのまま路地を飛び出した。
次の瞬間。
空気が、戻った。
*
車の音が近い。
人の話し声が現実の距離で聞こえる。
コンビニの自動ドアの音が、やけに安心する。
悠斗は歩道の端で立ち止まり、息を吐いた。
「……助かった……」
膝に手をついて、呼吸を整える。
心臓がうるさい。
喉が痛い。
振り返る。
そこには、いつもの路地があるだけだった。
薄暗い。狭い。普通の道。
黒い人型も、文字の塊も、何もいない。
悠斗は、乾いた笑いを漏らした。
「……あー、やっちゃった」
交番に届けるどころじゃない。
持ち主を探すどころでもない。
胸の奥が、ぞわぞわして落ち着かない。
怖い。
なのに、変に熱い。
逃げられた安堵と、
何かが始まってしまった興奮が、同時に来ている。
「……これ、絶対さ」
悠斗は、路地から目を逸らせないまま呟いた。
「……イベント、始まったよな」
自分の声が、やけに軽い。
でも、その軽さが逆に本音だった。
落とし物をした、っていう程度じゃない。
もっと面倒で、もっと面白い、何か。
悠斗は、ゆっくりと背中を起こした。
路地の入口は、何事もなかった顔をしている。
――なのに。
そこだけ、薄く黒い。
影の密度が違う。
近づけばまた引きずり込まれそうな気配が、ほんの少しだけ残っている。
悠斗は一歩下がって、深呼吸した。
「……よし」
気持ちを落ち着かせるための言葉。
でも、落ち着くどころか、心臓はまだ速い。
悠斗は家へ向かって歩き出した。
足取りは、さっきまでより軽い。
怖いのに、笑いそうになる。
――明日、何が起きるんだろう。
その期待を隠しきれないまま。




