19 嵐が去って
正直に言うと。
あの場で起きていたことを、
全部ちゃんと理解できていたわけじゃない。
目の前で黒いものが暴れて、
空間が歪んで、
文字が集まっては砕けていく。
それを一つひとつ考える余裕なんてなくて、
ただ、次の瞬間を追い続けていただけだった。
気づいたら――
静かになっていた。
あれだけ音も動きもあったのに、
今は紙が床に落ちる音だけが、やけに響く。
「……?」
無意識に声が漏れて、
自分でも間の抜けた音だと思った。
視線が、自然と東雲のほうへ向く。
立ってる、と思った。
いや、そう思いたかった。
現実は、違う。
彼女はその場に崩れるように倒れていて、
動かない。
「……東雲?」
呼んだ瞬間、
胸の奥がひやっと冷えた。
「おい……東雲……!」
一歩近づく。
反応はない。
思わず膝をつく。
胸が上下しているのが見えて、
そこでようやく息を吸えた。
「……っ、は……よかった……」
声が、かすれる。
呼吸はある。
確かに、生きてる。
でも、安心なんてできない。
顔色が悪い。
肩が、わずかに強張っている。
さっきまで、あんな無茶してたんだ。
そりゃ、こうなるに決まってる。
「……何やってんだよ……ほんと……」
責めるつもりなんてない。
ただ、口から出てしまっただけだ。
「動くな……いや、動けないか……」
自分で言って、
余計に焦る。
俺は必死に周囲を見回しながら、
東雲の様子をもう一度確かめる。
さっき、自分が何をしたのか。
ノートを開いて、
言葉を足した。
それで、空気が変わった。
確かに――
変わった。
でも。
それが、どこまで影響したのか。
どこまで“やりすぎた”のか。
分からない。
分からないのに。
胸の奥が、妙にざわついている。
怖いはずなのに。
手だって、まだ震えてるのに。
(……やっぱ、すげぇな……)
そんな感想が、先に浮かんでしまう。
最悪だと思う。
今そんなこと考えてる場合じゃない。
「……いや、今それどころじゃねぇだろ……」
自分に言い聞かせるみたいに、
小さく呟く。
でも、止まらない。
目の前で世界が反応した。
自分の書いた一文に。
その感覚が、まだ、体の奥に残っている。
東雲が倒れているという現実と、
それでも消えない高揚感。
その両方を抱えたまま、
俺はその場に膝をついていた。
(……これ)
もう、後戻りできないやつだ。
そう思いながらも、
目を離せなかった。
ふと、微かな音がした。
衣擦れ。
呼吸が、少しだけ深くなる音。
俺は、はっと振り返った。
「……東雲?」
彼女の指が、ぴくりと動いた。
次に、肩が小さく上下する。
「……っ」
俺は慌ててそちらへ戻る。
東雲は、先生のすぐ隣に横たわっている。
さっきまで腕に抱えていたせいか、
二人の距離はほとんどない。
東雲の胸が上下するのと同時に、
その視界の端で、先生の肩も、同じように動いているのが見えた。
――二人とも、生きている。
それだけで、喉の奥が熱くなる。
「東雲! おい、大丈夫か!」
声が、思ったより大きくなった。
東雲は苦しそうに眉を寄せて、
ゆっくりと目を開ける。
焦点が合わないまま、視線が揺れる。
最初に捉えたのは、天井。
次に、俺。
それから――すぐ横の、先生。
東雲の喉が、小さく鳴った。
「……先生……」
俺は、すぐに頷いた。
「ここにいる。さっきまで、東雲が抱えてたろ」
東雲は、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
それから、息を吐いた。
「……よかった……」
力が抜けた声だった。
そのまま、視線がまた俺に戻る。
「……さくら……?」
掠れた声。
俺は、思わず前のめりになる。
「そうそう! 俺! 佐倉! 分かるか!」
「……うるさい……」
小さな、でもはっきりした文句。
それだけで、胸の奥が一気に軽くなった。
「よかった……ほんとに……」
東雲は、もう一度だけ先生に視線を向ける。
すぐ隣にいることを、
確かめるみたいに。
「……起きてない、よね」
「まだ。でも、呼吸は安定してる」
東雲は短く頷いた。
安心と疲労が、同時に滲む。
それでも、完全には力を抜かない。
彼女は、ゆっくりと上体を起こそうとして――
顔をしかめた。
「無理すんな!」
「……分かってる」
そう言いながらも、
視線はすでに、先生から離れていた。
空間の奥。
さっきまで、黒い獣がいた方向。
俺は、何も言わず、その動きを追った。
最初に異変に気づいたのは、音だった。
――いや、正確には音のズレだ。
紙が擦れる音が、
わずかに遅れて届く。
床を踏んだ感触が、
半拍ずれて返ってくる。
「……まずい」
東雲が、低く呟いた。
同時に、空間が震えた。
大きく揺れたわけじゃない。
けれど、確実に――縮んだ。
遠くに見えていた本棚が、
一瞬で近づく。
逆に、足元の距離感が狂う。
「な、なにこれ……!」
俺は反射的に声を上げた。
東雲は、すぐに答えた。
「……先生は、もうこの空間に縛られてない」
言い切りだった。
先生のほうを見る。
相変わらず眠ったまま。
でも――さっきまで感じていた、あの重さがない。
空間を引き留めていた“何か”が、
ごっそり抜け落ちた感覚。
次の瞬間。
天井だったはずの場所が、
ひび割れるように歪んだ。
黒い裂け目が走り、
そこから紙と文字が、滝みたいに落ちてくる。
「うわっ!」
俺はとっさに、先生のほうへ身を寄せる。
東雲も、反射的に腕を伸ばした。
「――走れる?」
「走るしかないでしょ!」
言いながら、視線を走らせる。
遠く――
歪んだ空間の向こうに、図書室の扉が見えた。
最初に入ってきた、あの場所。
今は、やけに遠い。
床が、沈む。
本棚が、崩れる。
空間そのものが、内側に畳まれていく。
先生がこの空間から切り離された以上、
ここはもう、形を保てない。
俺は、先生の体を抱え直し、
東雲は一瞬だけ迷ってから、俺の肩を支えた。
「重い!」
「文句言うな!」
走り出した瞬間、
背後で、何かが完全に崩れ落ちる音がした。
振り返る余裕はない。
足元が消え、
距離が折れ、
空間が歪む。
それでも、扉は確かにそこにある。
「――あそこ!」
東雲が叫ぶ。
扉の輪郭が、明滅する。
まるで、
「まだ繋がっている」と主張するみたいに。
俺は、最後の力を振り絞って走った。
扉は、近づくほどに形を失っていった。
木製のはずの板が、
境界だけを残して薄く滲む。
触れられるのかどうか、判断がつかない。
それでも、止まれなかった。
足元が、一瞬ぐらついた。
「……っ」
腕にかかる重みが増す。
抱えていた先生の体が、わずかにずれた。
俺は歯を食いしばり、腕に力を込める。
「落とさないで……!」
「分かってる……!」
背後で、空間が潰れる音がした。
音、というより――
厚みが消える感覚。
振り返った瞬間、そこにあったはずの床が、
折り畳まれるみたいに消えていた。
落ちる。
そう思った。
次の瞬間。
扉の輪郭が、はっきりと浮かび上がる。
輪郭だけが、異様に“強い”。
ここだけが、現実と確かに繋がっているみたいだった。
「――今!」
東雲が叫ぶ。
俺は、考えるのをやめた。
扉に、飛び込む。
――踏み抜いた。
そんな感触だった。
足裏に、確かな硬さが戻る。
同時に、音が戻ってきた。
遠くで鳴る換気扇。
誰かの足音。
本が擦れる、かすかな音。
全部、一気に押し寄せてくる。
「……っ」
耳が、痛い。
世界が、うるさい。
俺はよろめきながら立ち止まり、
その場に膝をついた。
視界が、はっきりする。
――図書室だ。
見慣れた天井。
並んだ本棚。
床に落ちた、数冊の本。
ただし。
空気だけが、異様に重い。
まるで、ついさっきまで、
今までいた場所が“別の空間”だったと主張しているみたいに。
腕の中の重みを、慎重に下ろす。
先生を、床に横たえる。
すぐ近くで、東雲も膝をついた。
「……戻った?」
俺が聞くと、
東雲は、少し遅れて頷いた。
「……たぶん」
声が、かすれている。
そのまま、前のめりに崩れそうになる。
「東雲!」
俺は慌てて、手を伸ばした。
間に合ったのかどうか、分からない。
東雲の体は、
力が抜けたみたいに、ゆっくりと倒れ込んだ。
呼吸は、している。
浅いけど、確かだ。
先生も、同じだ。
二人は、すぐ近くで横たわっている。
さっきまでの、歪んだ空間が嘘みたいに、
図書室は静かだった。
俺は、その場に座り込んだまま、
二人を交互に見た。
胸の奥が、ようやく追いついてくる。
――終わった?
いや。
終わった、とは言えない。
ただ。
今は、静かだ。
俺は、乱れた呼吸を整えながら、
床に手をついた。
その指先が、わずかに震えているのに、
今さら気づいた。
楽しさも、興奮も、まだ消えていない。
でも――
「……無茶、しすぎだろ」
誰に言うでもなく、呟く。
東雲は、答えない。
ただ、微かな呼吸音だけがいやによく聞こえた。
遠くで、足音がした。
ひとつじゃない。
複数だ。
図書室の入口側。
慌ただしいのに、どこか揃った足取り。
俺が顔を上げた瞬間、
黒いスーツの集団が視界に入った。
余計な動きがない。
周囲を見渡す視線が、やけに早い。
先頭の人物が、床と本棚、
そして倒れている二人を一瞥する。
それだけで、何かを理解したみたいだった。
「対象、確認」
低い声。
その一言で、数人が一斉に動いた。
誰かが俺の肩に手を置く。
「大丈夫。少し下がって」
有無を言わせない口調だった。
俺は反射的に従う。
別の二人が、先生の様子を確認する。
「司書、意識なし。生命反応安定」
続けて、東雲のそばにいた人物が短く告げる。
「候補生、反応あり。衰弱大」
淡々としたやり取り。
無駄がない。
「……終わった、のか?」
思わず、口をついた。
誰も答えない。
代わりに――
東雲の体が、わずかに動いた。
眉が、ほんの少しだけ寄る。
「……っ」
小さな、息の音。
俺は、無意識に一歩近づいていた。
「東雲……」
返事はない。
でも、確かに生きている。
それだけで、胸の奥が緩む。
担架が運び込まれる。
先生と東雲は、
慎重に、すぐ近くへ並べられた。
離される瞬間、
東雲の指が、かすかに動いた気がした。
俺のほうじゃない。
空を掴むみたいな、無意識の動き。
なぜか、目を逸らせなかった。
「……保護、完了」
短い声。
誰かが通信を入れ、
誰かが図書室の入口に立つ。
さっきまでの場所が、
急速に“普通”に戻っていく。
俺は、その場に立ったまま、
二人の姿を見た。
東雲凛。
それから――先生。
ついさっきまで、
確かに“おかしな場所”にいた二人。
今はただ、
静かに横たわっている。
でも。
なかったことには、ならない。
俺は、握ったままのノートを見下ろした。
まだ、何も書いていない。
なのに、指先が熱い。
笑いが、込み上げそうになる。
怖い。
それでも。
「……やっぱ、面白いな」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
遠くで、救急灯の赤色が揺れる。
それは確かに、事態の収束を示していた。
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