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18 黒い獣③

  ――動かない。


 それが、最初に分かったことだった。


 凛は、床に伏したまま、息を吸おうとして――喉を鳴らした。

 胸が、うまく膨らまない。

 吸えないわけじゃない。ただ、身体がそれを拒んでいる。


 遅れて、痛みが来た。


 背中。

 腰。

 肩から腕にかけて。


 どこが、とは言えない。

 全身が、鈍く焼けているみたいだった。


 指先を動かそうとして、失敗する。

 脚は、感覚が遠い。


 ――直撃、だった。


 あの一撃を、まともに受けた。

 覚えているのは、それだけだ。


 視界が、ぼやけたまま定まらない。

 それでも、意識は途切れていない。


 凛は、必死に瞬きをした。


 見えた。


 天井だったはずの場所。

 歪んだまま、沈み込んだ空間。

 床に散らばる紙片と、裂けた写真。


 そして――


 黒い影。


 まだ、いる。


 動いていないだけだ。


 前傾姿勢の巨体が、少し離れた場所で、こちらを“見下ろして”いる。

 攻撃の構えはない。

 けれど、力を抜いているようにも見えなかった。


 ただ、待っている。


 凛は、喉を鳴らした。


「……っ」


 声にならない。


 胸の奥に、圧が残っている。

 近づくだけで流れ込んできたはずの憎悪は、今も消えていない。


 ただ――

 押し潰してこない。


 まるで、こちらがどう動くかを、

 確かめているみたいに。


 首元が、じくりと痛んだ。


 整合タグが、熱を失った金属みたいに重い。

 触れていないのに、存在だけがはっきり分かる。


 凛は、唇を噛んだ。


 ――終わってない。


 それだけは、はっきりしている。


 視界の端で、鎖が揺れた。


 軋む音。


 吊るされたままの影が、微かに動く。


 凛は、歯を食いしばる。


 動かなきゃいけない。

 分かっている。


 でも、身体が言うことを聞かない。


 黒い影は、なおも動かない。


 沈黙が、続く。


 次に崩れるのが、どちらなのか――

 それを、見極める時間みたいに。



 ふと気がつく。


――おかしい。


 凛は、はっきりとそう思った。


 痛みがある。

 重い。

 動かない。


 それなのに――


 全部、把握できている。


 指がどこまで動かないのか。

 脚がどこで止まっているのか。

 背中に走っている鈍痛が、どの範囲に広がっているのか。


 まるで、壊れた身体を外側から眺めているみたいだった。


 凛は、息を吸う。


 浅い。

 でも、吸える。


 吐く。

 苦しい。

 でも、できる。


 ――動けない、はずだ。


 そう判断しているのは、

 “今までの感覚”のほうだ。


 凛は、ゆっくりと意識を切り替える。


 身体を、見る。

 痛みを、測る。

 動かない理由を、一つずつ確認していく。


 折れていない。

 千切れていない。

 意識も、途切れていない。


 ただ――

 凛の認識だけが、ずれている。


 本来なら、もう倒れているはずだ。

 身体は動かず、意識だって保てない。


 それなのに。


 痛みはある。

 重さもある。

 でも、認識だけが、そこにいない。


 凛は、はっきりと理解した。


 自分の身体は、確かに倒れている。

 けれど――

 自分の認識だけが、その位置に存在していない。


 凛は、喉を鳴らした。


 首元の整合タグが、じくりと脈打つ。


 痛みが、少しだけ遠のいた。


 代わりに、違和感がはっきりする。


 ――ズレてる。


 凛は、床に触れている手のひらを見た。


 感触が、遅れてくる。

 触れた“あと”に、触ったことになる。


 それなら――


 凛は、力を入れようとするのをやめた。


 代わりに、動いたことにする。


 意識だけを、前に出す。


 次の瞬間。


 指が、わずかに動いた。


「……」


 凛は、目を見開く。


 痛みは、ある。

 重さも、消えていない。


 それでも、確かに。


 動いた。


 凛は、もう一度だけ、同じことをする。


 身体を動かす前に、

 動いた“結果”を先に認識する。


 肘が、床から離れた。


 軋む音。

 骨じゃない。空間のほうが、鳴った。


 黒い影が、ぴくりと動く。


 ――見られてる。


 凛は、歯を食いしばった。


 怖い。

 でも、分かった。


 これだ。


 今まで、無意識に起きていた“ズレ”。

 それを、今は――


 意識して、踏み越えている。


 凛は、ゆっくりと身体を起こした。


 ふらつく。

 視界が揺れる。


 それでも、立っている。


 黒い影は、なおも動かない。


 けれど、その輪郭を走る文字が、ざわりと逆立った。


 凛は、息を整える。


 まだ、勝てない。

 それは、分かっている。


 でも――


 動ける。


 それだけで、十分だった。


 凛は、もう一歩、前に出た。













 踏み出した瞬間。


 凛は、はっきりと理解した。


 今まで、自分は何を振り回して戦っていたのか。

 なぜ当たると削れ、

 なぜ形が崩れ、

 なぜ長くは保たなかったのか。


 全部。


 曖昧だった理由が、消えた。


 文字は、ただの塊じゃない。

 感情でも、記録でもない。


 “意味になりきれなかったもの”。


 そして――

 矛盾として存在するそれを、今ならはっきりと知覚できる。


 凛の視界が、変わる。


 床に散った文字が、

 宙に漂う断片が、

 黒い影の輪郭を走る列が――


 それぞれ、違う“歪み”として見える。


 滞っている場所。

 絡み合っている場所。

 どこかに、無理やり結びつけられている流れ。


 凛は、視線を上げた。


 鎖。

 吊るされた存在。

 そこから、この空間全体へ伸びている、歪なつながり。


 ――あそこだ。


 直感じゃない。

 理解だ。


 この場に溜まった矛盾は、

 すべて、あの一点を起点に循環している。


 なら。


 切るべきなのは、

 壊すことでも、押し返すことでもない。


 繋がりそのもの。


 凛は、手を伸ばす。


 力を込めない。

 集めようともしない。


 ただ、形を選ぶ。


 宙にあった文字が、応じる。

 今までより、静かに。

 今までより、迷いなく。


 凛の前で、文字が集まり、並び、重なっていく。


 一直線にはならない。

 刃は、途中からゆるやかに弧を描き、先端に向かって鋭さを増していく。


 柄となる部分は細く、長い。

 握れば、振り抜くためだけに存在していると分かる形だ。


 刃と柄は、直角では繋がらない。

 あえて角度をずらし、

 振り回したときに“引っかけて、引き剥がす”軌道を描く。


 それは、剣じゃない。

 斧でも、槍でもない。


 鎌だった。


 刈り取るための形。

 押し返すためでも、叩き割るためでもない。


 繋がっているものを、断ち切るための武器。


 凛は、はっきりと理解した。


 この鎌は、

 敵を倒すために選んだものじゃない。


 先生と、この歪んだ領域を切り離すために選んだ形だ。


 息を吸う。


 首元が、強く熱を帯びる。

 整合タグが、警告みたいに脈打つ。


 それでも、視線は逸らさない。






 静かだった。


 あれほど歪んでいた空間が、嘘みたいに息を潜めている。


 凛は、鎌を構えたまま動かなかった。

 構えを解く、という発想が頭に浮かばない。


 黒い影は、正面にいる。


 巨体は微動だにせず、

 ただ――見下ろしている。


 敵意がないわけじゃない。

 むしろ逆だ。


 空気に混じる感情が、濃くなっている。

 怒りでも、殺意でもない。


 重たい感情の塊。


 近づくだけで、胸の奥がざらつく。

 他人の憎しみが、呼吸の隙間に入り込んでくる。


 凛は、喉を鳴らした。


 身体は、正直だった。


 腕は痺れている。

 脚は震え、地面に踏みしめる感覚が曖昧だ。


 本来なら、もう立っていられない。

 さっきの衝撃で、意識を失っていてもおかしくない。


 それでも。


 自分は、ここに立っている。


 倒れていない理由が、はっきり分かる。


 身体が動いているわけじゃない。

 ――認識だけが、ここに留まっている。


 世界が定める位置より、

 ほんの少し前に。


 凛は、ゆっくりと呼吸した。


 息を吸うたび、

 首元の整合タグが、熱を返してくる。


 警告でも、制止でもない。


 「まだ、ズレている」


 そう告げられているみたいだった。


 凛は、鎌を握り直す。


 刃の曲線が、視界の端で淡く揺れる。

 文字の集合体は、不安定なのに――崩れない。


 分かる。


 今の自分は、

 この場に溜まった矛盾と、同じ位相に立っている。


 だから見える。

 だから、触れられる。


 黒い影が、一歩踏み出した。


 床が、きしむ。


 吊るされた存在が、かすかに揺れる。

 鎖が鳴り、その音が、領域全体に染み渡る。


 凛の背中を、冷たいものが走った。


 ――来る。


 理屈じゃない。

 感覚が、そう告げている。


 凛は、鎌を構えたまま、目を逸らさない。


 







 白い廊下に、ログが重なる。


《PARADOX DRIVE:ACTIVE》

《ACTIVATION MODE:SPONTANEOUS》

《EDITORIAL MEDIUM:NONE》


 管理者は、静かに視線を上げた。


「……確認」


《WORLD INTERPRETATION:OVERRIDDEN》

《SOURCE:SUBJECT RIN-SHINONOME》

《METHOD:COGNITIVE INTERFERENCE》


 一拍。


 続くログが、淡々と事実を示す。


《EDITOR ACTIVITY:NONE》

《NOTE STATUS:UNCHANGED》


 管理者の表情は変わらない。

 だが、沈黙の質だけがわずかに変わった。


「編集媒体なしで……」


 それ以上、言葉を続ける必要はなかった。


《PARADOX DRIVE:CONFIRMED》

《SCOPE:LOCAL REALITY》

《DEPTH:EDITOR-LEVEL》


 本来ならば――

 編集者にしか成立しない干渉。


 世界の意味に触れ、

 解釈の向きを変え、

 成立条件を書き換える行為。


 それを、RIN-SHINONOMEは単独で行っている。


《INTERFERER ACTION:INDEPENDENT》

《SUPPORT SYSTEM:NONE》


 管理者は、黒いケースに視線を落としたまま、静かに告げた。


「……順調です」


 感情の起伏はない。

 ただ、そこには結果を受け取った者の静かな肯定があった。


《FIELD RESPONSE:ADAPTIVE》

《PARADOX FLOW:RE-ROUTING》


「編集者は存在し」

「読み手は、完成されつつある」


 淡々と、確認するように。


《TRINITY STATUS:PARTIAL》

《EDITOR:CONFIRMED》

《READER:IN PROGRESS》

《INTERFERER:ACTIVE》


「この段階で、解釈に踏み込めるのなら」


《PREDICTION:INTERPRETATION CASCADE》

《RISK:ACCEPTABLE》


「どこまで届くか……見てみましょう」


 管理者は、結論を下す。


「介入は行いません」


《INTERVENTION:WITHHELD》

《REASON:OBSERVATION》


「自力で辿り着いたものです」


 白い廊下の奥で、

 黒いケースは沈黙したまま。


 まるで次の結果を、

 心待ちにしているかのように。






 次の瞬間。


 黒い獣が、動いた。


 今までとは違う。

 溜めも、様子見もない。


 ただ――

 踏み込む。


 床が沈み、

 空間そのものが押し潰される。


 凛は跳んだ。

 反射に近い動きだった。


 鎌が、横薙ぎに振り抜かれる。

 確かな手応え。


 黒い輪郭が、はっきりと裂けた。


 ――切れた。


 そう思った、次の瞬間。


 裂けた部分に、

 床に散っていた文字が吸い寄せられる。


 壁に残った紙片が、

 宙に漂っていた断片が、

 まるで“呼ばれた”みたいに集まっていく。


 裂け目が、塞がる。


 いや――

 塞がるどころか、

 さっきよりも厚みを増している。


「……っ」


 凛は歯を食いしばる。


 もう一度、踏み込む。

 今度は、深く。


 刃が、胴を抉る。

 黒い塊が、崩れ落ちる。


 だが。


 崩れたはずの場所に、

 今度は背後から黒が流れ込む。


 床が、砕ける。

 壁が、削れる。


 壊れた“跡”が、

 そのまま、獣の体へと組み込まれていく。


 ――壊すほど、補われる。


 凛は、息を吐いた。


 狙いは合っている。

 当ててもいる。


 それでも――

 減らない。


 削っても、

 断ち切っても、

 周囲に残っている限り、終わらない。


 黒い獣は、低く身を沈める。


 唸り声はない。

 ただ、重たい圧だけが広がる。


 次の一撃。


 腕が振り下ろされる。


 凛は受け流そうとして――

 間に合わなかった。


 衝撃が、全身を叩く。


 地面が抉れ、

 凛の身体が弾き飛ばされる。


 床を転がりながら、

 凛は、はっきりと理解していた。


 ――このやり方じゃ、終わらない。


 切っても、

 壊しても、

 ここに残っている限り、何度でも立ち上がる。


 キリがない。


 黒い獣は、倒れない。


 ただ、

 更新され続けている。


 刃を振るう。


 黒を断つ。


 確かな手応えがあった。


 けれど――。


 切り裂かれたはずの輪郭が、

 すぐに別の黒で埋まっていく。


 背後。

 床。

 宙を舞っていた紙切れ。


 そこに残っていた“痕”が、

 吸い寄せられるように集まり、

 再び、獣の体を形作る。


「……っ」


 凛は歯を食いしばった。


 狙いは外していない。

 当てている。

 確実に、削いでいる。


 それでも。


 終わらない。


 獣が、低く唸る。

 周囲を見る。


 壁に残る文字の跡。

 床に落ちた紙片。

 宙に漂う、意味を持ちきれなかった断片。


 それらすべてが、

 獣の“材料”になっている。


 断ち切ろうとするたび、

 別の場所から、黒が集まる。


 獣は倒れていない。

 崩れてもいない。


 凛は、刃を握り直した。


 このままでは――

 削り合いになる。


 体力が尽きるのが先か。

 感覚が鈍るのが先か。


 どちらにしても、

 勝ち目は薄い。


 獣が、再び踏み込む。


 地面が抉れ、

 衝撃が走る。

 次が来る。


 そう思った瞬間――

 



「なあ!」


 場違いなほど明るい声が、背後から響いた。


 凛が一瞬、振り返る。


 見覚えのある少年が、

 息を切らしながら立っている。


 佐倉悠斗。


「めっちゃデカくない?

 これ!」


 冗談みたいな声。


 けれど、視線は黒い獣から逸れていない。


「下がって!」


 凛が叫ぶ。


「いや無理!

 今、完全にイベントだし!」


 悠斗は笑いながら、ノートを開いた。


 震える手。

 それでも、目は妙に楽しそうだ。


「さっきから思ってたんだけどさ」


 黒い獣が、踏み込む。

 床が抉れ、空間が歪む。


 凛が前に出ようとして――間に合わない。


 その瞬間。


 ノートに、文字が走った。


 追加された一文が、

 この場所に、すっと馴染んでいく。


 凛は、はっきりと感じた。


 黒い獣の動きが、

 一瞬だけ、引っかかった。


 止まったわけじゃない。

 弱まったわけでもない。


 ただ、

 向きが、ずれた。


「……何をしたの……?」


 凛が息を切らして問う。


 悠斗は顔を上げる。


「ん?」


 軽い。


「“読むほどに、世界へ繋がっていく”ってさ」


 ノートの一行を指でなぞる。


「……前に、俺が書いたんだよ」


 凛の胸の奥が、ひやりと冷えた。


 理解が、追いつかない。


 でも――

 起きていることだけは、否定できない。


 この場に溜まっていた“何か”が、

 わずかに、外へ引かれ始めている。


 黒い獣は悲鳴を上げない。


 ただ、

 形を保つのが、少しだけ苦しそうだった。


 凛は、悠斗から視線を外せなくなっていた。


 ――分かって、やっている。


 そうとしか、思えなかった。


 偶然にしては、言葉の選び方が正確すぎる。

 反射にしては、起きている変化が的確すぎる。


 この場所で、

 どこに触れれば何が動くのか。


 それを知らなければ、

 今みたいな結果は出せない。


(……この人は)


 凛の胸の奥が、静かにざわつく。


(この人は……どこまで理解しているの……?)


 答えは、出ない。


 けれど、

 そう考えずにはいられなかった。


 悠斗は、ノートを閉じて、軽く肩を回す。


「いやー、

 思ったより効いたな」


 その声音が、逆に凛を震わせた。


 余裕がある。

 焦りがない。


 ――全部、見えている。


 ――分かった上で、あえて軽く振る舞っている。


 そう、見えてしまう。


 凛は、無意識のうちに、

 彼の背中を“前に立つ存在”として認識していた。








 凛は、息を吐いた。


 胸の奥に溜まり続けていた重さが、わずかにほどける。

 完全に消えたわけじゃない。

 ただ――

 押し潰す向きが、変わった。


 黒い獣が、低く唸る。


 音じゃない。

 空間そのものが、震えている。


 凛は一歩、踏み出した。


 鎌を振る。

 刃が、黒い腕を断ち切る。


 確かな手応え。


 裂けた輪郭が、崩れ落ちる。


 ――戻らない。


 床に散らばっていた文字が、すぐには集まらなかった。

 宙に漂っていた断片が、引き寄せられきれず、滞る。


「……」


 凛は、はっきりと感じ取った。


 何かが、変わった。


 黒い獣が弱くなったわけじゃない。

 攻撃が鈍ったわけでもない。


 流れが、変えられた。


 この場所に溜まり続けていたものが、

 別の“先”を与えられた。


 次の瞬間だった。


 空気が、膨れ上がる。


 凛は反射的に身を低くした。


 ――来る。


 黒い獣の身体が、歪む。


 今まで一定だった輪郭が、

 内側から押し広げられるように波打ち始める。


 文字が、逆流した。


 床から。

 壁から。

 宙から。


 今まで“材料”として集まっていたものが、

 今度は、出口を求めて暴れ出す。


 憎悪。

 恐怖。

 後悔。


 溜まり続けていた感情が、

 一気に噴き出した。


 黒い獣が、吠える。


 悲鳴じゃない。

 怒りでもない。


 行き場を失った感情が、

 形を保てずに暴走しているだけだ。


 巨体が膨れ上がる。

 腕が太くなり、

 爪が伸び、

 背中から黒い塊が噴き出す。


 床が、耐えきれずに砕けた。


 凛は跳ぶ。


 着地した場所が、

 一拍遅れて抉れる。


 衝撃が、身体を打つ。


 痛い。

 重い。

 視界が揺れる。


 それでも、凛は踏み留まった。


 ――今だ。


 この暴走は、無差別じゃない。


 獣は、無意識に“繋がっていた場所”へ引き寄せられている。

 鎖。

 吊るされた影。

 この領域の核。


 凛は、鎌を強く握り直した。


 狙うべきものが、はっきりした。


 獣が、突進する。


 速い。

 今までとは比べものにならない。


 凛は、正面から受けない。


 横へ。

 さらに後ろへ。


 獣の腕が振り抜かれ、

 空間が裂ける。


 紙が舞い、

 文字が弾け、

 意味になれなかったものが悲鳴のように散る。


 凛は、歯を食いしばりながら走った。


 怖い。

 正直、怖い。


 でも――

 今なら分かる。


 この暴走は、

 終わりに向かっている。


 溜め込んでいたものが、

 外へ流れ出そうとしている証拠だ。


 凛は、踏み込みながら鎌を振る。


 獣の胴を削ぐ。

 肩を裂く。

 脚を刈る。


 切るたびに、

 黒い塊が、霧みたいに散っていく。


 もう、戻らない。


 補完されない。


 獣が、膝をついた。


 それでも、立ち上がろうとする。


 鎖が、鳴った。


 吊るされた影が、大きく揺れる。


 凛は、視線を逸らさない。


 最後に切るべきものは、

 もう、決まっている。


 凛は、深く息を吸った。


 首元が、焼けるように熱い。

 整合タグが、警告みたいに脈打つ。


 それでも、止まらない。


 凛は、一気に距離を詰めた。


 獣の懐へ。


 鎌を、振り抜く。


 刃は、獣ではなく――

 獣と、この場所を繋いでいた“線”を捉える。


 引き剥がす。


 絡まっていたものを、

 まとめて、断ち切る。


 鎖が、悲鳴を上げる。


 一本。

 また一本。


 張り詰めていた何かが、

 次々と切れていく。


 黒い獣が、大きく仰け反った。


 身体が、形を保てなくなる。

 黒い塊が、崩れ落ちる。


 凛は、最後にもう一度、鎌を振った。


 鎖が、断たれる。


 吊るされていた影が、落ちる。


 凛は、迷わず走った。


 受け止める。


 重い。

 確かな、人の重さ。


 その背後で。


 黒い獣が、完全に崩れた。


 砕けるのではない。

 消えるのでもない。


 この場所に留まれなくなったものが、

 行くべき先へ、流れていく。


 空間が、軋む。


 紙が、静かに落ちる。


 文字が、意味を失って散っていく。


 凛は、腕の中の重みを確かめながら、息を吐いた。


 この歪んだ場所は、もう――

 先生を、縛っていない。




 静かだった。


 あれほど騒がしかった空間が、嘘みたいに沈黙している。


 紙が、はらりと一枚、床に落ちた。

 文字はもう集まらない。

 宙に漂っていた断片も、力を失ったみたいに重くなって、次々と床へ沈んでいく。


 凛は、しばらくその場から動けなかった。


 腕の中の重みが、はっきりと現実を主張している。

 温度がある。

 呼吸がある。


 凛は、ゆっくりと息を吐いた。


 胸の奥で張り詰めていたものが、音を立てて緩む。

 同時に、空間の歪みがほどけていくのが分かる。


 壁が、元の位置に戻る。

 床の傾きが、正しくなる。

 遠くに見えていた街の輪郭が、滲むように薄れていく。


 世界が、元に戻ろうとしている。


 ――終わった。


 そう思った瞬間だった。


 力が、抜けた。


 膝が、崩れる。


「……っ」


 声が、出なかった。


 腕に力が入らない。

 支えようとした指が、感覚を失っていく。


 凛は、咄嗟に抱えていた身体を床に下ろす。

 その動作だけで、視界が大きく揺れた。


 遅れて、痛みが来る。


 背中。

 腰。

 脚。


 今まで押し殺されていた感覚が、

 一気に戻ってくる。


 ――来る。


 理解したときには、もう遅かった。


 胸の奥を、何かが掴んだ。


 呼吸が、止まる。


 喉が、ひくりと引きつる。

 息を吸おうとしても、空気が入ってこない。


「……っ、は……」


 浅く、短い呼吸。


 視界の端が、暗く滲む。


 身体が、重い。

 鉛みたいに、床へ引きずり込まれる。


 凛は、無意識に首元へ手を伸ばした。


 整合タグが、焼けるように熱い。


 さっきまでの警告とは違う。

 今度は――


 揺り戻し。


 無理やり、引き戻される感覚。


 ズレていた認識が、

 正しい位置へと、叩き戻されていく。


「……っ、く……」


 視界が、歪む。


 立っていたはずの世界が、

 一段、沈む。


 さっきまで“動けていた”はずの身体が、

 今度は、本当に動かなくなる。


 凛は、床に手をついたまま、動けなくなった。


 痛い。

 苦しい。


 でも――

 それ以上に。


 重たい。


 自分の身体が、

 自分のものじゃないみたいに遠い。


 凛は、歯を食いしばる。


 意識だけは、離さない。


 今、倒れたら――

 もう、立てない気がした。


 床に散った紙の上で、

 鎖の切れ端が、からん、と音を立てた。


 その音が、やけに大きく聞こえる。


 凛は、ゆっくりと目を閉じた。


 静寂の中で、

 遅れてやってきた反動が、容赦なく全身を締め上げていく。


 それでも。


 腕の中にあった重みは、確かにそこにあった。


 凛は、かすかに息を吐きながら、そのまま意識を手放した。

 



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