17 黒い獣②
しばらくの静寂の後。
溶け合った黒が、その形を変え始めた。
人の輪郭を保っていたものが、前へ倒れる。
胴が太くなり、四肢が伸びる。
床に触れた瞬間、重みが伝わった。
ズン、と。
図書室全体が、わずかに沈む。
凛は、その場に立ったまま、息を呑んだ。
さっきまでとは、違う。
数が減ったわけじゃない。
質が、変わった。
集まったものが、ひとつの塊として“定着”し始めている。
黒が、前傾姿勢を取る。
獣に近い輪郭。
凛の視界に、その存在がはっきりと映った。
そして――
息を吸った瞬間、肺の奥がざらついた。
血の味じゃない。鉄でもない。
言葉にできない“重さ”が、空気に混ざっている。
凛は、足を止めたまま前を見た。
天井近く。
鎖に吊られた影。
腕は上に引き上げられ、手首に絡みついた鎖がきしむ。
足先が、床からわずかに浮いている。
制服の裾が揺れているのに、風はない。
首が傾いている。
目は開いている。
けれど、焦点が合っていない。
――生きているのに、ここにいない。
凛の喉が鳴った。
呼びかけようとして、声が出ない。
その時だった。
床が、沈んだ。
踏み鳴らされたのではない。
空間ごと、押し潰された。
凛の視界が、ぶれた。
前傾姿勢の黒が、ゆっくりと現れる。
人の形を保っているようで、まるで獣だ。
背中は盛り上がり、胴は太い。
肩幅は、本棚ひとつ分じゃ足りない。
前脚――腕と呼ぶには太すぎる四肢が、床を掴むように曲がっている。
爪がある。
牙がある。
尾のように伸びた黒が、背後で揺れている。
けれど、それらは「器」だ。
本体は、その全身を覆う黒の密度。
近づくだけで、胸がざわつく。
鼓動が、勝手に速くなる。
冷や汗が背中を伝う。
――怖い。
凛は、その感情が自分のものかどうか分からなくなって、奥歯を噛んだ。
黒が、息をするみたいに膨らんだ。
表面を走るのは、文字だ。
真っ黒な輪郭の周りで、見えない文章が蠢いている。
読めない。
読めないのに、意味だけが刺さる。
置いていくな。
許さない。
助けて。
声にならない叫びが、皮膚の裏から押し込まれてくる。
「……っ」
吐き気が込み上げ、凛は一歩下がった。
足が、思ったより重い。
黒い獣が、頭――頭と呼べる位置を持ち上げた。
目はない。
あるのは、こちらを“見定めている”圧だけだ。
凛の首元が、ひり、とした。
整合タグが熱を持つ。
今も、薄く痛い。
まるで首輪みたいに、逃げ道を締めてくる。
凛は、目を逸らさずに息を吐いた。
――行く。
言葉にしない。
言葉にしたら、足が止まる。
凛が踏み出した瞬間、黒が動いた。
速い。
巨体が床を蹴る。
距離が潰れる。
前脚が振り抜かれる。
横薙ぎ。
凛は、身体を投げた。
間一髪。
制服の肩が、空気ごと削られる。
触れていないはずなのに、肌が冷える。
嫌悪感が、遅れて追いかけてくる。
背後で、鈍い音。
本棚が、ひしゃげて倒れた。
紙が舞う。
紙片が宙で止まる。
止まったまま、ゆっくり回転している。
凛は床を蹴り、距離を取った。
息が荒れる。
心臓が喉元まで跳ね上がる。
黒が、再び踏み込む。
今度は縦。
叩き潰す動き。
凛は“ずらす”。
ほんの半歩。
ほんの一瞬。
叩きつけられた場所から、自分だけが外れる感覚。
衝撃が、肩をかすめた。
「——っ!」
痛みが走り、身体が跳ねる。
骨が軋む。
息が漏れた。
そして、その瞬間。
流れ込んできた。
――やめて
――嫌だ
――痛い
感情が、血管みたいに身体の中を走る。
自分の記憶じゃない。
なのに、自分の内側で鳴る。
凛は歯を食いしばり、爪を立てるように床を掴んだ。
倒れるな。
ここで倒れたら――
視線が、先生へ向かう。
宙吊りの影は、相変わらず揺れている。
鎖が、いくつも、いくつも絡みついている。
黒い獣が、わずかに身体をずらした。
凛と先生の間に、割り込む。
覆う。
庇う。
その動きだけが、妙に人間的だった。
凛の喉が鳴った。
――守ってる?
そう決めつけるのは、早すぎる。
ただ、離れようとしていない。
黒い人型が、鎖に吊るされた存在の周囲に集まっている。
意思があるようには見えない。
それでも、そこから動こうとしない。
凛は、息を整えた。
逃げるだけじゃ、足りない。
追いつかれる。削られる。――終わる。
胸の奥で、何かが軋む。
黒い人型を見たときと同じ。
文字の塊に触れたときと同じ。
世界が、ほんの少しだけズレる感覚。
凛は、踏み出した。
床を蹴った瞬間、宙に漂っていた文字が、引き寄せられるように集まる。
意味を持たない文字列。
断片。残骸。
それらが、凛の前で“形”を取り始める。
輪郭は、まだ曖昧だ。
刃と呼ぶには歪で、持ち手も安定していない。
それでも――
凛は、振るった。
黒い塊に、文字の集合体がぶつかる。
衝突した瞬間、黒い表面が大きく揺らいだ。
文字が逆流する。
まるで、画面が乱れるみたいに。
「……っ!」
手応えは、あった。
確かに、削れている。
凛は続けて踏み込む。
二度、三度。
振るたびに、腕が重くなる。
肩が軋む。
首元が、焼けるように熱い。
整合タグが、じわじわと痛みに変わっていく。
――長くは、もたない。
分かっている。
それでも、止まれない。
黒い塊が、大きく身を捻った。
凛の攻撃を受け止めるように見えた、その直後――
黒い腕が、横薙ぎに振るわれた。
速い。
凛は咄嗟に身を引く。
間に合わない。
衝撃。
身体が、宙に浮いた。
背中から床に叩きつけられ、息が詰まる。
視界が白く弾けた。
「……っ、ぐ……!」
肺が、空気を忘れたみたいに動かない。
指先が痺れる。
黒い影が、ゆっくりと近づいてくる。
文字が、ざわざわと鳴る。
怒りでも、憎しみでもない。
ただ、溜まり続けてきたものが、溢れ出しているだけ。
凛は、無理やり身体を起こした。
足が、震える。
視界が、揺れる。
それでも、立つ。
もう一度、文字を集めようとする。
けれど、今度は集まりが悪い。
形が、崩れる。
指の間から、零れていく。
黒い塊が、腕を振り上げた。
今までとは、違う。
空間そのものが、軋んだ。
床を覆っていた文字が、一斉に引き伸ばされる。
本棚が悲鳴を上げ、遠くに見える街の輪郭が歪む。
凛の視界が、わずかに揺れた。
次の瞬間。
黒い腕が、地面へと振り下ろされた。
轟音。
床が、抉れた。
衝撃が波となって走り、図書室全体を叩き潰す。
紙が舞い、棚が傾き、街の光が大きく揺れる。
空間そのものが、深く沈み込んだ。
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