16 黒い獣①
紙の匂いが、さっきよりも濃くなっていた。
宙を舞う新聞。
床を滑る写真。
ページの欠けた冊子が、風もないのに回転している。
その合間を、影が動いた。
人の形はしている。
けれど顔はなく、全身が黒い。
目を凝らすと輪郭が文字で縁取られ、身体中を蠢いている。
黒い人型。
凛は、息を整える暇もなく踏み込んだ。
距離を測る。
足運びをずらす。
重なりきらない瞬間を狙って、腕を振る。
黒い影が、ひしゃげる。
輪郭を保っていた文字が、ばらける。
完全には消えない。
けれど、形を維持できなくなった黒い人型は、その場に崩れ落ちる。
次。
(後ろ…!)
凛は振り向きざまに跳び、床を蹴る。
掴もうとした影の腕が、空を切った。
そのまま回転し振るった右手で、人型の胴に一閃。
息が荒い。
肩が重い。
それでも、まだ対応できている。
凛はそう判断していた。
数は多い。
次から次へと湧いてくる。
けれど、やり方は通じている。
位相をずらせば、当たらない。
濃い部分を叩けば、形は崩れる。
――長引くけど、まだ詰みじゃない。
そう思った、次の瞬間。
黒い人型が、止まった。
一体が、動きを止める。
もう一体が、腕を下ろす。
凛は、反射的に構えたまま周囲を見渡した。
攻撃は来ない。
逃げもしない。
ただ、立っている。
いや――向きを変えている。
黒い人型たちが、同じ方向を向いていた。
凛の背後。
天井の方。
鎖の擦れる音が、微かに響く。
凛は、ゆっくり振り返った。
(…まさか)
宙。
鎖に吊られた人影。
早乙女祥子。
その存在に引き寄せられるように、黒い人型たちが動き出す。
一体、また一体。
歩く。
よろめくように。
縋るように。
攻撃の意思はない。
敵意も、こちらには向いていない。
ただ、そこへ行こうとしている。
先生の下へ。
凛は、一歩踏み出しかけて、止まった。
嫌な感覚が、背中を撫でた。
心臓が急激に脈を打つ。
黒い人型が、先生に触れる。
その瞬間、触れた輪郭が、溶ける。
文字がほどけ、黒が空間に滲んでいく。
まるで、水に落ちたインクみたいに。
次の黒い人型が重なる。
また一体。
さらに一体。
無数の黒が、一点に集まっていく。
守っているようにも見えた。
隠しているようにも見えた。
けれど、それよりも近い感覚がある。
――縋っている。
凛の喉が鳴った。
周囲から、黒い人型の姿が消えていく。
さっきまであれほど騒がしかった空間が、突然静かになる。
音が消えたわけじゃない。
紙はまだ舞っている。
その音だけが、妙に響く。
胸の奥がざわつく。
感情のノイズが、薄まった代わりに――
一点に、集約されていく。
重い。
濃い。
息を吸うだけで、胸が締め付けられる。
呼吸が浅くなる。
凛は、自然と後ずさった。
まるでこの後に起きる異常に、身体が先に反応しているように。
*読みやすさのため、前話との流れを修正しました。
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