15 邂逅
白い廊下に、音はない。
壁も、床も、天井も、均一な光を反射しているだけだ。
時間の流れすら、ここでは意味を持たない。
黒いケースの前に、管理者は立っていた。
表示が浮かぶ。
《PHENOMENON:ACTIVE》
《SUBJECT:RIN-SHINONOME》
《STATUS:OVERLOAD》
《PARADOX INTERVENTION:CONFIRMED》
《RECOIL:DETECTED》
《ACTIVITY:DECLINING》
管理者は瞬きをしない。
「発現を確認」
淡々とした声。
評価でも、報告でもない。
事実の確認だ。
続いて、別のログが重なる。
《EDITOR:NO CHANGE》
《EDIT LOG:INACTIVE》
世界を書き換えた痕跡はない。
追記も、上書きも、存在しない。
管理者の視線が、わずかにケースへ向く。
「編集者は関与していません」
ログが応答する。
《READER:INCOMPLETE》
《PROXY STATE:MAINTAINED》
読み手は、まだ完成していない。
だが流れは止まっていない。
管理者は、少しだけ間を置いた。
《INTERVENOR:ACTIVE》
《PARADOX DRIVE:INITIAL PHASE》
《STABILITY:LOW》
干渉者。
矛盾に触れ、流れをずらした存在。
それが“成立してしまった”という事実だけが、ここにある。
管理者は、静かに言った。
「予定より、早いですね」
否定はない。
修正もない。
想定外ではあるが、失敗ではない。
凛の活動量を示すグラフが、急激に落ち込んでいる。
《SUBJECT CONDITION:CRITICAL》
《MOBILITY:LIMITED》
反動。
当然の結果。
管理者は、その数値を見下ろしたまま、続ける。
「それでも――成立しました」
三つの要素のうち、ひとつが確かに形を取った。
編集者は、存在している。
読み手は、完成されつつある。
そして今、干渉者が現れた。
管理者は、介入命令を出さない。
《INTERFERENCE:NONE》
《OBSERVATION:CONTINUE》
「鍵はもうすぐ揃います」
それは予測ではない。
確信でもない。
ただ、流れを読んだ結果の宣告だった。
白い廊下の奥で、
黒いケースは沈黙したまま、
すべての鍵が揃う瞬間を待っている。
――その時。
かすかな音が、背後で響いた。
足音。
この場所には、本来存在しないはずのもの。
管理者は、振り返らない。
だが、その足音の“性質”だけは理解していた。
迷いがない。
怯えもない。
侵入というより、
最初から通ることになっていた道を進んでいるような気配。
管理者は、静かに一歩を踏み出す。
迎えに行くために。
白い廊下の向こうで、
予定外ではない存在が、近づいている。
旧校舎の渡り廊下で、佐倉悠斗は足を止めた。
「……なんか、今日は変だな」
理由は分からない。
ただ、胸の奥が落ち着かない。
雨が降りそうな日の前みたいな、
はっきりしない違和感。
「平和じゃない感じする……」
それだけで十分だった。
悠斗は、旧校舎の床へ向かう。
いつものハッチ。
開ける理由は、
「気になったから」。
それ以上でも、以下でもない。
白い廊下。
均一な光。
影のない壁。
足を踏み入れた瞬間、
いつもより“ざわついている”と感じた。
壁に浮かぶ英語の文字列。
意味は分からない。
でも、数が多い。
流れが速い。
「……うわ、今日多くない?」
思わず声が出る。
「なんか、忙しそうだな……」
廊下の奥に、人影がある。
金髪の女性。
人間みたいで、人間じゃない感じ。
「あー……やっぱりいるよね」
特に驚きもしない。
「今日、何かあった?」
管理者は淡々と答える。
「学校内で、異常が進行しています」
壁のログが切り替わる。
《LOCATION:KIRIGAOKA HS / LIBRARY》
《STATUS:ANOMALY ONGOING》
「図書室……?」
悠斗は、少し考えてから言った。
「……そういえば、
先生、体調良くなったのかな」
管理者は、肯定も否定もしない。
「回収班が投入されています」
次のログ。
《RECOVERY UNIT:DEPLOYED》
《STATUS:NO RESPONSE》
「……え」
悠斗の眉が寄る。
「ノーレスポンスって……
連絡取れてないってこと?」
管理者は、詳しく説明しない。
「現時点で、報告はありません」
「それ、普通に心配じゃない?」
声が、少しだけ低くなる。
管理者は沈黙したまま。
悠斗は、頭を掻いた。
「……放っといたら、
もっと面倒になるやつだよね、これ」
答えは返らない。
でも、否定もされない。
「だよな……」
悠斗は、小さく息を吐いた。
「一回、様子見てくる」
地下施設を出る。
現実の空気が、急に重く感じられた。
図書室の前。
そこに、二人の男がいる。
スーツ姿。
一人は壁にもたれ、
もう一人は床に座り込んでいる。
一目で分かる。
「……あー」
悠斗は、思わず声を漏らした。
「これ、相当キツいやつだ」
しゃがみ込んで、顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
返事はない。
壁にもたれていた男が、
かすかに顔を上げた。
「……この先は……」
声が、掠れる。
「……入れない……」
悠斗は、扉を見る。
普通の図書室の扉。
でも、近づくほど、距離がおかしくなる。
「鍵……じゃないんだ」
床に座っていた男が、
苦しそうに息を吸う。
「……触っても……開かない……」
「俺たちも……
中に戻れなくなった……」
悠斗は、少し黙ったまま、扉の前に立つ。
取っ手に、手をかける。
その瞬間――
「……お前も……」
背後から、掠れた声。
「……入れるのか……?」
悠斗は、一瞬だけ振り返った。
「……正直、分かんない」
嘘はつかなかった。
「でも……」
もう一度、扉を見る。
「このままにするのも、
ちょっと嫌でさ」
取っ手を押す。
空気が、反転する。
紙の匂い。
遠くで擦れる音。
夜の街の気配。
悠斗は、思わず立ち止まった。
「……え」
素直な声。
「なにこれ……
想像より、だいぶヤバいんだけど」
それでも、足は前に出る。
イベントは、
もう始まってしまっている。
暗転、というほど明確な切り替わりはなかった。
世界が途切れるのではなく、
重なっていた層が、ゆっくりと剥がれていく。
床の冷たさ。
紙の匂い。
遠くで軋む音。
それらは確かに存在しているのに、
凛の身体からだけ、距離が離れていく。
倒れた、という実感すら遅れてやってきた。
気づいたときには、もう――
意識は、別の場所に引き戻されていた。
最初に戻ってきたのは、視覚だった。
白い天井。
均等に並ぶ蛍光灯。
教室。
どこにでもある、ありふれた風景。
けれど、凛はすぐに分かる。
――ここは、もう戻れない場所だ。
机の配置が、わずかに違う。
黒板の端の欠け方が、記憶と噛み合わない。
それでも周囲の生徒は、何事もない顔で座っている。
笑い、喋り、ノートを開く。
誰も、気づいていない。
この感覚は、久しぶりじゃない。
むしろ、ずっと続いている。
保管矛盾事変。
あの日を境に、
世界は“整いすぎる”ようになった。
ニュースは一瞬で消えた。
地図も、記録も、記憶も。
誰もが「最初からなかった」と言い切った。
疑問を持つことすら、不自然みたいな空気で。
凛だけが、知っていた。
欠けたものが、確かに存在したことを。
街の境界。
建物の影が、途中で途切れる場所。
地図アプリが、一瞬だけ読み込みに失敗する座標。
夢で見る、知らないはずの帰り道。
それらはすべて、
“気のせい”として処理できる程度の違和感だった。
だからこそ、厄介だった。
誰に話しても、
最初は真剣に聞いてくれる。
途中までは。
「それってさ、勘違いじゃない?」
「よくあるよね、そういうの」
「考えすぎだって」
言葉は、優しい。
声の調子も、心配している風を装っている。
けれど――
その瞬間、凛には分かってしまう。
相手の中で、
今の話題が“整理された”ことを。
理解されたのではない。
受け入れられたのでもない。
ただ、
なかったことにされただけだ。
凛は、何度もそれを見てきた。
整合処理を受けた人間が、
処理直後は戸惑い、混乱し、怯えていたのに。
数時間後には、
すべてを忘れた顔で日常に戻る。
「何かあったっけ?」
その一言で、
確かに存在した恐怖も、異常も、切り離される。
凛は、処理されない側だった。
だから忘れない。
だから戻れない。
世界が“正しくなる”たびに、
自分だけが、少しずつ浮いていく。
正しさの外側に、
取り残されていく。
怖かった。
でも、それ以上に――
耐えがたかったのは、孤独だった。
誰かと共有できない現実を、
ひとりで見続けること。
誰にも肯定されない感覚を、
自分の中だけで確かめ続けること。
それでも、目を逸らせなかった。
だって、
気づいてしまったものは、なかったことにできない。
倒れる直前、
凛の胸にあったのは恐怖ではなかった。
――また、私だけが残る。
その予感。
世界が整い、
誰もが元に戻って、
自分だけがズレたまま立ち尽くす未来。
それが、何よりも――
重かった。
意識の底で、
凛は小さく息を吸う。
まだ、終わっていない。
ズレたままでも、
ここにいる。
その感覚だけを、
必死に手繰り寄せる。
凛の指先が、
わずかに、現実を掴んだ。
走っている。
理由は単純だ。
――追われているから。
「ちょ、待って待って待って!」
佐倉悠斗は、本棚の間を全力で駆け抜けた。
足元で紙が弾ける。
新聞が舞い、写真が宙を滑る。
振り返る余裕はない。
でも、気配だけははっきり分かる。
後ろに――いる。
「いや、無理無理無理!」
角を曲がった瞬間、
黒い影が壁から剥がれるように現れた。
人の形。
けれど、真っ黒だ。
輪郭の周囲で、文字が蠢いている。
何が書いてあるのかは、見えない。
ただ、感情だけが伝わってくる。
重い。
粘つく。
胸の奥を、無理やり掻き回してくる。
「うわああああ!」
悠斗は反射的に棚を蹴って方向を変えた。
床が、えぐれる。
「え、ちょ、床壊れるの!?」
驚く暇もない。
背後で、空気が裂けるような感覚。
黒い腕が、振り下ろされた。
当たっていない。
それなのに、背中がひりつく。
怖い、というより――
嫌だ。
知らない誰かの感情を、
無理やり流し込まれる感じ。
「やばい、これほんとにやばいやつだ……!」
息が上がる。
視界の端で、別の影が動く。
「増えてない!?」
答えはない。
代わりに、文字のざわめきが強くなる。
走り込んだ先で、足が何かに引っかかった。
「うわっ!」
前のめりに倒れかけて、
とっさに手をつく。
その先に――人がいた。
床に横たわる、少女。
制服。
そして目の前に立つ、見覚えのある女子生徒。
「……東雲?」
声に出した瞬間、
背後の気配が一気に膨れ上がる。
「今それどころじゃないんだけど!?」
悠斗は慌てて少女の前に立った。
「ちょっと! 起きて!
このままだと普通に死ぬかもだから!」
必死な声。
その叫びが――
凛の意識を引き戻した。
重なっていた感覚が、ばらける。
紙が舞う空間。
目の前に立つ男子生徒。
必死な顔で、こちらを庇っている。
「……なに……して……」
掠れた声。
「起きた!?
よかった! ほんとよかった!」
次の瞬間、衝撃。
黒い影が、すぐそこまで迫っている。
「……逃げて」
「無理無理無理!」
即答。
「今ここで別行動とか、
絶対バッドエンドでしょ!」
そう言って、凛の手を掴む。
「とりあえず一緒に走ろ!」
理屈も覚悟もない。
ただの判断。
でも――
凛の胸の奥で、何かが繋がった。
走りながら、凛は最低限だけ告げる。
「止まらないで」
「止まると?」
「追いつかれる」
「シンプル!」
「あと、触らないで」
「もう触りたくない!」
「触ると……嫌なものが、流れ込む」
首元が、じくりと熱を持つ。
整合タグ。
警告じゃない。
“ここにいる”という感覚。
走っているうちに、凛は気づいた。
空間が、歪んでいる。
逃げ回っているはずなのに、
同じ方向へ引き寄せられている。
「……おかしい」
「今度はなに!?」
紙の流れが変わった。
散らばっていたはずの紙媒体が、
中心へ、中心へと集まっている。
新聞。
台帳。
写真。
すべてが、ある一点を避けるように円を描く。
「……ここ」
「え?」
「たぶん……一番まずい場所」
本棚が途切れ、視界が開けた。
そこだけ、妙に静かだった。
そして――
天井から、何本もの“鎖”が垂れ下がっている。
凛の息が詰まる。
鎖の先に、
人が吊るされていた。
早乙女祥子。
文字で編まれた鎖が、
両腕、胴、脚を絡め取り、宙に固定している。
足先は床に届いていない。
目は閉じられ、身体は微動だにしない。
「……先生……」
その瞬間。
周囲の黒い影が、動きを止めた。
ざわざわと、
文字のざわめきが中心へ向かう。
「……来る」
凛が低く言う。
影が一斉に向きを揃える。
逃げ道が塞がれる。
数が、明らかに増えている。
凛は一歩前に出ようとして――
足が止まった。
力が、入らない。
黒い腕が、同時に振り上がる。
「……っ!」
「――あ、やば……!」
悠斗が叫び、ノートを開いた。
ページが、偶然めくれる。
目に飛び込んできた文字。
――読み手は、読むほどに世界へ繋がれていく。
「……あ」
考える前に、ペンが動いた。
「読み手に接続された記録は、外へ干渉する自由を持たない」
次の瞬間。
振り下ろされた黒い腕が、
ぎくりと止まった。
動こうとして、動けない。
鎖の文字が軋み、
影の輪郭が乱れる。
「……なに、今の……」
悠斗が呟く。
凛は、はっきり感じていた。
前提が、書き換えられた。
ほんの一行で。
――今のは、偶然じゃない。
凛は、文字の形を強く握った。
「……時間、作って」
短く、鋭い声。
悠斗が一瞬きょとんとしてから、頷く。
「わ、分かった! なんとかする!」
「無理はしないで!」
「そっちこそ!!」
影が再び動こうとする。
けれど、どこか噛み合っていない。
凛は前を見た。
――まだ、折れない。




