14 孵化
ずれた。
ほんの一瞬。
瞬きを挟むほどの、短さ。
なのに凛は、
黒い影の腕が振り切られた後の位置を、先に見ていた。
「……?」
言葉になる前に、
現実が追いつく。
黒い腕が、今まさに振り下ろされる。
凛は考えなかった。
考える前に、身体が動いた。
床を蹴り、
本棚の角を掠め、
舞っていた紙の隙間を突っ切る。
衝撃。
ほんの一瞬前まで凛がいた場所が、
文字ごと叩き潰された。
――今のは……。
避けた、とは違う。
先を読んだ、でもない。
自分だけ、合っていなかった。
首元が、遅れて熱を持つ。
整合タグが、
思い出したみたいに、じわじわと焼ける。
凛は息を詰めた。
理由は分からない。
でも確かに――
この場所と、自分の感覚が噛み合っていない。
黒い影が、また動く。
今度は三体。
距離の詰め方は、ばらばら。
なのに、踏み込む瞬間だけが重なる。
凛は、息を吸った。
――引っ張られるな。
手の中の文字の塊が、微かに歪む。
形が揺れ、輪郭が定まらない。
一体が、跳んだ。
上から。
振り下ろし。
凛は横に飛ぶ。
床を転がり、立ち上がろうとして――
間に合わない。
黒い腕が、床を叩き潰した。
鈍い衝撃。
床板が砕け、
粉塵と紙片が跳ね上がる。
凛の肩に、衝撃が直撃した。
「――っ!!」
はっきりとした痛み。
骨に響く重さ。
身体が、壁に叩きつけられる。
息が、抜けた。
視界が揺れる、その一瞬。
――感情が、流れ込んできた。
叫び。
怒号。
逃げ場のない恐怖。
自分のものじゃない感情が、
無理やり胸の奥に押し込まれる。
「……っ、は……!」
喉が、震える。
整合タグが、焼けるように熱い。
警告というより、身体を無理やり起こされる感覚。
逃げろ、ではない。
ただ――ここにいるな、と押し返されている。
凛は歯を食いしばり、身体を起こした。
もう一体。
今度は低い位置。
床を削りながら、腕が横薙ぎに走る。
棚が砕ける。
本が、紙が、宙を舞う。
凛は、跳んだ。
避けきれない。
制服の袖が裂け、
腕に、鈍い衝撃。
痛みと同時に、
別の感覚が流れ込む。
憎しみ。
理不尽への怒り。
奪われたものへの執着。
頭が、ぐらつく。
「……っ、く……」
その瞬間。
凛の視界が、また――ずれた。
黒い影の腕が、
振り切られた後の位置が、先に見える。
次の瞬間、現実が追いつく。
凛は、考えずに踏み込んでいた。
逃げる、じゃない。
当てる。
理由は分からない。
ただ、そこなら――
触れられる気がした。
文字の塊を、前に押し出す。
当てる、というより。
重ねる。
触れた瞬間。
黒い影の輪郭が、歪んだ。
腕の形が、途中で合わなくなる。
文字が、外へ外へと逃げる。
まるで、
そこに“いられなくなった”みたいに。
影の動きが、止まる。
凛は、目を見開いた。
「……今の……」
壊した感触は、ない。
手応えも、ない。
ただ、
向こうが、合わなくなった。
次の瞬間、反動。
視界が白む。
胃の奥が、ひっくり返る。
膝が、落ちる。
呼吸が、浅い。
胸が、重い。
整合タグは、冷えない。
ずっと、熱を持ったまま。
長くは、続かない。
そう、身体が分かっている。
残る二体が、同時に動いた。
凛は、距離を見る。
理屈じゃない。
憎悪の気配が、そこだけ滞っている。
一際、濃い場所。
凛は、半歩、前に出た。
文字の塊を、押し出す。
触れる。
重ねる。
黒い影の輪郭が、また歪む。
文字が、散る。
形が、続かない。
だが――
背後。
もう一体の腕が、振り下ろされた。
凛は、間に合わないと悟った。
肩に、直撃。
「――っ!!」
衝撃。
床に叩きつけられる。
視界が、跳ねる。
同時に、
大量の感情が流れ込む。
恐怖。
絶望。
怒り。
誰かの最期の瞬間が、
一気に押し寄せる。
凛は、呻いた。
「……や、め……!」
それでも、手は離さない。
文字の塊が、崩れかける。
引っ張られる感覚。
――だめ。
これは、私の領域。
凛は歯を食いしばり、
無理やり押し返した。
触れる。
重ねる。
ずらす。
影の輪郭が、同時に崩れる。
文字が、ばらばらに散った。
凛は、その場に立ったまま、肩で息をした。
全身が、痛い。
頭が、重い。
でも。
まだ、立っている。
……終わった?
最後の黒い影が、ほどけた。
輪郭が崩れ、
文字が宙で絡まり合い、
やがて、ばらばらに散っていく。
凛は、一歩、踏み出そうとして――
膝が、抜けた。
「……っ」
力が、入らない。
視界が、揺れる。
床が、遠い。
さっきまで“握っていた”感覚が、
指の間から、ずるりと抜け落ちていく。
文字の塊は、もうない。
凛は、息を呑んだ。
……もう、動けない。
その瞬間だった。
紙が、止まった。
宙を舞っていた紙片が、
一斉に、ある方向へ引き寄せられる。
床に散っていた文字が、
ざわり、と音もなく集まり始める。
ひとつ、ではない。
ふたつ。
みっつ。
――もっと。
暗がりの向こうで、
黒い影が、次々と立ち上がっていく。
数が、さっきより多い。
輪郭は曖昧で、
形は揃っていない。
それでも、はっきり分かる。
全部、こっちを見ている。
憎悪が、濃くなる。
空気が、沈む。
凛は、喉を鳴らした。
立ち上がろうとして、
指先が、床を掻くだけで終わる。
身体が、言うことを聞かない。
整合タグが、熱い。
今度は、押し返す力すら感じない。
ただ、
ここにいるだけで、
削られていく。
黒い影が、動き出す。
一斉に。
距離が、詰まる。
凛は、息を詰めた。
もう、触れない。
もう、ずらせない。
頭の奥で、
はっきりとした理解が、落ちる。
終わる。
その瞬間。
凛の視界が、
完全に、白んだ。
WSPOの監視室は、異様な静けさに包まれていた。
壁一面のモニターに、警告色が増えていく。
だが誰も声を上げない。
騒ぐには、分かっていないことが多すぎた。
《PARADOX INDEX:CRITICAL》
《ANOMALY SCALE:ESCALATING》
担当職員が、乾いた声で報告する。
「……指数が、跳ね上がっています」
「想定していた推移じゃありません」
上位職員が、ゆっくりと視線を上げる。
「……編集ログは」
「ありません」
《EDIT LOG:NO UPDATE》
即答だった。
追記なし。
修正なし。
追加解釈も観測されていない。
編集者は、動いていない。
それなのに。
別のモニターが赤く点滅する。
《ANOMALY:SPIKE》
《TRIGGER:UNCONFIRMED》
誰かが、ほとんど独り言のように呟いた。
「……まさか」
別の職員が、同じ言葉を継ぐ。
「……禁句が……?」
否定は出なかった。
全員が、同じ可能性を思い浮かべていた。
理由は分からない。
だが、嫌な予感だけが一致している。
上位職員が、低い声で言う。
「回収班はどうなっている」
即座に画面が切り替わる。
《RECOVERY UNIT:ACTIVE》
《POSITION:KIRIGAOKA HS / LIBRARY FRONT》
「……二名とも、現場付近にいます」
「生体反応は安定」
「端末も、応答可能状態です」
上位職員の声が、荒くなる。
「なら、なぜ報告が来ない」
「なぜ、何も上がってこない!」
机が、強く叩かれた。
「応答しろ」
「何をやっている!」
呼びかけても、返事はない。
モニターには、淡々とした表示だけが残る。
《SYNC:COMPLETE》
「……整合処理は、完了しています」
その言葉が、かえって場を凍らせた。
終わっているはずの現場で、
指数だけが、上がり続けている。
別の職員が、慎重に口を開く。
「観測者の位置ですが……」
一瞬、言葉を探す。
「……追えません」
室内が、ざわつく。
「ロストか?」
「違います」
「生体反応は、まだ検出されています」
「ただ……現在位置が、取得できない」
《SUBJECT POSITION:UNTRACKABLE》
《LAST CONFIRMED:KIRIGAOKA HS / LIBRARY》
「……直前までは、確かに図書室付近にいました」
「今は、どこにいるのか……分かりません」
回収班は分かる。
観測者だけが、分からない。
上位職員は、目を閉じた。
「……編集者は、動いていない」
「はい」
「未登録資料の影響だけで、ここまで行くか?」
沈黙。
誰も、即答できない。
やがて、上位職員が言った。
「……過去ログを出せ」
「どの事例を――」
「保管矛盾事変だ」
空気が、はっきり変わった。
画面に、封印された記録が並ぶ。
あまりに見慣れた、嫌な数値の推移。
重ね合わせる。
そして、分かってしまう。
「……同じだ」
誰かが、声を絞り出す。
「数字じゃない……」
「動き方が、あの時と……」
上位職員は、否定しなかった。
「規模は違う」
「だが、始まり方が一致している」
編集者は動いていない。
原因は特定できない。
それでも、記録だけは嘘をつかない。
上位職員は、低く告げた。
「……最悪を想定する」
誰も反論しなかった。
モニターには、警告色が増え続けている。
何が起きているのかは分からない。
だが――
あの事変と、同じ入口に立っている
その感覚だけが、全員に共有されていた。




