12 禁句
WSPOの監視室は、いつも通り静かだった。
静かすぎて、モニターの光だけが浮いている。
壁一面に並ぶ表示窓。
そこを流れるのは映像ではなく、淡々と積み重なる編集ログ。
世界で何が起きたか。
WSPOが観測できるのはそれだけだ。
担当職員が、ひとつの表示を拡大する。
《UNREGISTERED MATERIAL:CONFIRMED》
《LOCATION:KIRIGAOKA HS / LIBRARY》
《CONTACT:ACTIVE》
《CONTACT HOLDER:SHOKO-SAOTOME》
職員の喉が小さく鳴った。
「……司書が、触れ続けてる」
上位職員は目を細める。
未登録資料に触れた者が、短時間で手を離せなくなる。
その“継続”は、悪い兆候だった。
ログが、淡々と追記される。
《CONTACT DURATION:EXTENDED》
《BEHAVIOR:REPEAT / VIEWING》
《STATUS:UNSTABLE》
「閲覧が、止まっていない……」
担当職員が言う。
上位職員は即座に指示した。
「回収班を出せ。未登録資料を回収・隔離。現場を静かに収めろ」
担当職員が頷く。
「整合端末も起動させます。目撃や噂が広がらないように、現場の混乱を抑えます」
異常が異常として目立てば、人が寄る。
触れる者が増えれば、連鎖する。
回収は“静かに”行わなければならない。
回収班の移動ログが点る。
《RECOVERY UNIT:DEPLOYED》
《OBJECT:UNREGISTERED MATERIAL》
《SYNC DEVICE:ONLINE》
予定通り。
ここまでは。
だが次の瞬間、ログの列に異物が挟み込まれた。
《INTERFERENCE:DETECTED》
《SOURCE:UNKNOWN》
《VECTOR:RECOVERY UNIT》
担当職員の指が止まる。
「……介入?」
上位職員の声が、わずかに低くなる。
「回収班に、介入が入った記録か」
それは本来、ありえない。
介入されるのは現場や対象であって、実行部隊ではない。
次のログが追い打ちをかける。
《INTERFERENCE:APPLIED》
《ACTION:PROXY SUPPORT》
《STATUS:RUNNING》
担当職員が息を呑む。
「……“補助”……? 回収手順に、こんな項目はありません」
「当然だ」
上位職員は即答した。
「回収は回収だ。余計なことはさせるな」
なのにログは淡々と進む。
《RECOVERY UNIT:ARRIVED》
《ENTRY:LIBRARY》
《CONTACT HOLDER:UNSTABLE》
上位職員は短く言った。
「追え。……現場で何が起こるかは、記録が先に教える」
記録が、先に。
それが一番、恐ろしい。
地下の白い廊下は、いつも通り無音だった。
冷たい光。
影のない壁。
足音だけが遅れて届く。
管理者は黒いケースの前に立っていた。
《Record:SEALED》
《View:RESTRICTED》
表示は変わらない。
けれど施設は、確かに“動いている”。
管理者の瞳の奥で、淡い光が走る。
「回収班が到着します」
誰に言うでもない。
報告というより、確認だ。
次のログが浮かぶ。
《RECOVERY UNIT:DEPLOYED》
《OBJECTIVE:RETRIEVE / ISOLATE》
回収。隔離。
WSPOの手順。
管理者は一拍置いた。
「不適切です」
淡々とした声。
管理者が指先をわずかに動かす。
触れたのは何もない。
それでも施設が応答する。
《INTERFERENCE:APPLIED》
《VECTOR:RECOVERY UNIT》
《STATUS:RUNNING》
管理者は続ける。
「間接閲覧経路:維持」
黒いケースの内部で、封印記録が微かに震えた。
その震えが別の場所へ伝播する。
――回収班の端末。
画面の表示が、一瞬だけ揺らぐ。
《SYNC:STANDBY》
管理者は結論だけを告げる。
「目的を更新します」
ログが書き換わる。
《OBJECTIVE:RETRIEVE / ISOLATE》
その文字列が滲み、上から別の語が重なる。
《OBJECTIVE:TRIGGER PHRASE》
「禁句の発声が必要です」
回収班は“回収”のために動く。
だが手順の最終地点は、別に置かれる。
回収する。隔離する。
――その前に、発声を成立させる。
管理者は黒いケースを見下ろした。
「読み上げを要求します」
《REQUEST:READ OUT》
《TARGET:PROXY READER》
《STATUS:PENDING》
管理者は淡々と言った。
「回収班の行動を補助します」
《ACTION:PROXY SUPPORT》
《VECTOR:RECOVERY UNIT》
《STATUS:RUNNING》
「“回収”は、その後です」
放課後の校舎は、薄暗かった。
生徒の気配はない。
廊下に残るのは蛍光灯の唸りと、遠くの運動部の掛け声だけ。
回収班の二人は、足音を揃えて歩いた。
揃えたわけじゃない。揃ってしまう。
「対象は黒い本」
「未登録資料。回収して隔離」
短い確認。
それ以上は言わない。
「司書が触れている」
「閲覧が止まらない、という報告だ」
片方が淡々と返す。
もう片方は一度だけ顎を引いた。
「整合端末を先に当てる。騒ぎになる前に」
「うん」
それがいつもの手順――のはずだった。
廊下の角を曲がる。
そこで、二人とも同時に、少しだけ言葉が遅れた。
何かを思い出したような間。
思い出した“はず”の内容が、滑らかに喉へ乗る。
「発声条件は揃っている」
片方が言った。
もう片方も、間髪入れずに返した。
「揃っている。だから――間に合わせる」
声の温度が変わらない。
なのに会話だけが、別の方向へ曲がる。
「……回収が先だろ」
片方が言う。
それは確認のつもりだった。
しかし次の言葉が、自然に続いてしまう。
「回収の“前に”だ」
もう片方が淡々と言った。
「禁句の発声を成立させる」
沈黙が落ちた。
言った本人が一瞬、瞬きをする。
自分の口から出た言葉を、耳で追いかけたみたいに。
だが否定は出てこない。
むしろ、隣の男が頷いた。
「……そうだ。成立させないと、固定できない」
「固定した上で、隔離する」
二人の声が同じ調子で重なる。
片方の男が端末ケースに触れる。
「整合端末は、そのための準備だ」
「司書の抵抗を削ぐ」
「読める状態に整える」
二人とも言い切る。
正しい手順を読み上げているだけみたいに。
「……妙だな」
片方がぽつりと落とした。
疑問のはずだった。
だがもう片方は即答する。
「妙じゃない。必要だ」
必要。
その単語だけが、やけに強い。
「未登録資料を回収して終わり、のはずだった」
「終わりにするために、成立させる」
矛盾がある。
あるのに二人は当然のように肯定する。
「目標は?」
「禁句の発声」
「成立まで」
それで終わりだと言わんばかりに。
図書室の前で、二人は止まった。
鍵は掛かっているはずだった。
だが片方は鍵束を出さない。
取っ手に指を掛け、押す。
扉は、静かに開いた。
図書室は暗かった。
消灯された室内で、奥の机だけが妙に明るい。
まるでそこだけが、世界から切り取られているみたいに。
早乙女祥子は机に向かって座っていた。
黒い本が開いている。
ページはほとんど進んでいない。
それでも先生の指は、同じ行を巡り続けている。
声は出ない。
出したくない。出すべきじゃない。
――なのに、喉の奥が、ずっと形を作っている。
読まなきゃ。
読まなきゃいけない。
その強迫だけが、先生の背中をまっすぐに保っている。
足音がした。
図書室の入口。
誰もいないはずの場所に、靴音がふたつ。
先生は顔を上げない。
上げられない。
影が近づく。机の前で止まる。
視界の端に、二つの影。
スーツ。
胸のID。
静かすぎる目。
先生の指が一度だけ止まった。
掠れた声が落ちる。
「……また来たんですか、あなたたち……」
男たちは答えない。
片方が掌サイズの端末を取り出した。
《SYNC:STANDBY》
端末が震えた。
空気が薄くなる。
音の輪郭が剥がれていく。
この部屋だけ、遠くなる。
先生は眉を寄せた。
理解できないまま、焦点だけが合わなくなっていく。
男は淡々と続けた。
「整合処理を行います」
《SYNC:READY》
端末がもう一度震えた。
震えが机を伝って、先生の肘へ、肩へ、喉へ染みる。
まばたきが減る。焦点が曖昧になる。
それでも先生は本を読んでいる。
読んでいるというより――巡回している。
同じ行。
同じ段。
同じ場所。
そこへ戻る。戻される。
回収班の男が、黒い本の上に手を置いた。
置いた瞬間。
ぺらり、とページが勝手にめくれた。
先生の視線が引っ張られる。
引っ張られた先で、また戻る。
戻る。
戻る。
戻る。
もう片方の男が、口を開いた。
「……未登録資料の読み上げを要求します」
言った直後、男の目がわずかに揺れた。
今の言い方。
自分の声だったのに、自分の口じゃないみたいな感覚。
けれど、止まらない。
止める理由が見つからない。
先生の喉が、小さく鳴った。
声を出したくない。
出したら、何かが決まってしまう。
でも、喉の奥が勝手に開く。
口が、形を作る。
「――この矛盾は」
その瞬間だった。
回収班の二人が、同時に小さく息を止める。
胸の奥が、冷える。
――今、何をさせようとしている?
さっきまで“正しい手順”だったものが、急に異常に見える。
手のひらに残る紙の感触が、遅れて怖くなる。
片方の男が、かすかに呟いた。
「……待て……」
もう片方も、焦点の合わない声で続ける。
「……違う……これは……」
だが。
先生の唇が動く。
動いてしまう。
「矛盾は、保存される」
二人の目が見開かれた。
音が消える。
呼吸が遅れる。
――終わった。
胸の奥にだけ、はっきり残る。
取り返しのつかないものを、成立させた。
片方の男が一歩、後ずさる。
「……何を……」
もう片方の指先が、端末を握り潰しそうに震えた。
「俺たちは……回収のはずだった……」
言葉が遅い。
遅すぎる。
その時、図書室が、鳴った。
耳ではなく骨の奥で響く、低い音。
世界のどこかが“接続”された合図。
床が歪む。
本棚が増える。
ありえない数の棚が空間の隙間から生え、通路が延びる。
距離が狂う。角度が狂う。
まるで異世界と混ざり合ったような、不思議な空間。
その時、窓の外に都市が出現した。
夕焼けの校庭が消えて、夜の光が広がる。
ビルの窓明かり。信号機の点滅。途切れない街灯の列。
この世界の人間に忘れられたはずの――大都市が。
その瞬間。
空気が、もう一段沈んだ。
図書室の扉が、音もなく閉まる。
いや――閉まった“ことになった”。
回収班の男たちが足を動かそうとして、止まった。
床が遠い。
距離が合わない。
視界の端で、扉が一瞬だけ“ただの扉”に戻る。
次の瞬間。
二人の姿が、すっと消えた。
消えたというより――押し出された。
音も、抵抗もない。
気づいたら、いない。
領域は、耐性のないものを中に置かない。
残ったのは、固定された中心と、保存された記録と、そして――都市の残響だけだった。
瞬きした。
次の瞬間――男は廊下に立っていた。
図書室の扉の前。
冷たい蛍光灯の光。
乾いた床。
さっきまで、確かに中にいた。
机の前に立っていた。
司書が口を開いて――
「……は?」
声が裏返った。
隣を見る。
相棒も、同じ場所に立っている。
相棒は一歩も動けず、扉だけを見ていた。
まるで殴られたみたいな顔をしている。
男は扉に手を伸ばした。
取っ手を掴む。
押す。引く。
開かない。
鍵が掛かっている感触じゃない。
“開く”という概念そのものが消えている。
「なんだよ……なんだこれ……!」
男が叫んだ。
相棒が扉を叩く。拳で叩く。何度も。
ドン、ドン、ドン。
「開けろ!! 開けろ!!」
返事はない。
中の気配もない。
覗き込もうとしても、ガラスは暗い反射しか返さない。
図書室の中が――見えない。
ただの扉だ。
ただの廊下だ。
なのに男の背中だけが冷たい。
男は思い出してしまう。
「矛盾は、保存される」
あの一言。
骨の奥が鳴ったみたいな低い響き。
「……やった」
男の喉から声が漏れた。
「俺たちが……やった……!」
相棒が顔を歪める。
「違う……回収だった……回収のはずだった……!」
否定が、悲鳴みたいになる。
男は端末ケースを引きちぎるように開いた。
整合端末を掴み出す。
薄い板。
無表情な画面。
そこには、結果だけが表示されていた。
《SYNC:COMPLETE》
完了。
男の喉が鳴る。
「……いつ……」
自分の指先を見る。
押した記憶は曖昧なのに、感触だけが残っている。
「……俺が……やったのか……?」
相棒も画面を見て、顔色を落とした。
「……完了って……何が……」
相棒が扉を叩く。
今度は拳じゃない。掌だ。縋るみたいに。
「開けて……頼む……!」
声が掠れた。
男も取っ手を引きちぎる勢いで引いた。
開かない。
開かない。
開かない。
「クソッ……!!」
男は扉を蹴った。
ガン、と鈍い音。
それでも扉は揺れない。
揺れないことが、恐ろしい。
相棒が崩れ落ちた。
膝が床につく。
手が震えている。
「……俺たち、終わった……」
喉の奥から、嗚咽が漏れる。
「取り返しがつかないことを……した……」
男は頭を抱えた。
叫びたい。
叫んでもどうにもならない。
でも身体の中に溜まったものが、口から出てしまう。
「違う……こんなの……指示にない……!」
相棒が泣きながら首を振る。
「でも……俺たちが、言わせた……! 止められたのに……!」
「止められなかった……!」
男の声も壊れる。
相棒は床に額を擦りつけるように泣いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
誰に謝っているのかも分からないまま。
男は扉に額をつけた。
冷たい。
現実の硬さだけがある。
そして――
その向こう側から。
紙が擦れるような音が、した気がした。
集める。
集める。
集め続ける。
見えないのに、分かる。
扉の向こうで、もう“始まっている”。
男は喉を鳴らす。
「……頼む……誰か……止めてくれ……」




