11 侵食
「…局長。あのまま彼女を行かせてよかったんですか」
低い声だった。
この部屋で“彼女”と言えば、一人しかいない。
局長は資料から視線を上げないまま答える。
「止めた判断は妥当だ。介入は違反。――両方、記録通りだ」
「ですが、回収班は工程を――」
「工程より先に、禁句が出かけた」
局長の言葉は短い。
その短さが、この組織の優先順位を示している。
職員は一拍置く。
「……固定、ですね」
局長が頷く。
「禁句が認識された瞬間、矛盾は固定される。これは観測で確定している」
局長はログの末尾を指先で叩いた。
「固定された矛盾は消えない。形を変える。場所を変える。だが、残る」
職員が唾を飲む。
「今回も、残ると」
「残らせるつもりだろう」
局長はそこで初めて視線を上げた。
感情はない。
ただ、冷たい確信だけがある。
モニターに表示されているのは、いつもの英語ログ。
個人名も、座標もない。
あるのは“型”だけ。
《Fixation Event:DETECTED》
《Keyword:UNRESOLVED》
《Status:PENDING》
局長はスクロールを止める。
次に浮かんだ行で、職員の顔色が変わった。
《External Intervention:DETECTED》
《Target:RECOVERY-UNIT》
《Action:UNKNOWN》
「……介入、ですか」
「観測できているのは“介入があった”という事実だけだ」
局長は淡々と言った。
「誰が、何のために、どうやったか。そこまでは分からない」
職員が言葉を探す。
「ですが……このタイミングで介入が入るのは――」
「珍しくない」
局長は言い切る。
「固定が近づいた現場では、必ず“余計な動き”が挟まる。記録がそう示している」
局長は指を止めず、さらにログを送った。
《Readout Request:RAISED》
《Source:UNKNOWN》
《Priority:HIGH》
職員が息を呑む。
「読み上げ要求……」
局長は頷かなかった。
頷かないまま、淡々と告げる。
「“要求が立った”と観測されているだけだ。意味の解釈は不要」
「不要……?」
「不要だ」
局長は冷たく言った。
「推測を混ぜれば、観測が崩れる。崩れた観測は、整合処理のせいで“もっともらしい形”に丸められてしまう」
職員の眉が動く。
「……丸められる、ですか」
「現場の空気も、人の記憶も、都合よく滑らかになる。だからこそ、残すべきは“解釈”じゃない」
局長は資料を閉じる。
「やることは一つだ。――型を保存しろ」
職員は唾を飲み込んだ。
局長は続けた。
「順序と型だけ残せ。現場の意味付けは後から変わる。だが型は変わらない」
職員は、無言で頷いた。
局長は静かに付け加える。
「記録は、整えるためのものじゃない。“整えられる前”の形を残すためにある」
その言葉に、職員の背筋が僅かに伸びた。
局長は最後に視線を戻す。
「現在の編集媒体の所有者――その周辺で、ログの型が揃い始めている」
職員の呼吸が僅かに止まる。
局長は淡々と続けた。
「保管矛盾事変の直前と、よく似ている」
誰も言い返さない。
その固有名詞が、上位職員の間では“答え”に近いからだ。
局長は資料を閉じた。
「……重なってきている」
沈黙が落ちる。
机上のモニターには、白黒のログが並んでいた。
人の名前はない。
場所もない。
あるのは、短い記録だけ。
しかし、この短い記録だけで、世界が変わる。
職員が言葉を選ぶ。
「局長。回収班を増援しますか」
「増援は刺激になる」
「なら、彼女を下げますか」
局長は首を振らない。
「下げても、誰かが代わりに出る。――そして、代わりは“認識できない”」
職員の眉が動く。
局長は淡々と言った。
「現場を守るのは、止められる人間じゃない。認識し続けられる人間だ」
「……」
職員は口を閉じる。
局長は椅子に深く座り直し、指先でログをスクロールした。
禁句の固定。
読み手の発生。
回収班の整合。
それらが、一本の線に並び始めている。
そして局長は、最後の一行に視線を止めた。
――“読み上げ要求”。
局長はそれを声に出さない。
上位職員でも、意味を知らない種類の文字列だった。
局長は席を立つ。
「記録を更新しろ。回収班の工程に“未知の介入”が挟まっている。型だけ残せ」
職員が頷く。
局長は扉の前で一度だけ止まり、淡々と付け加える。
「保管矛盾事変は、繰り返させない」
それは誓いじゃない。
命令でもない。
“常識”だった。
放課後の図書室は、いつも通りだった。
窓から差す夕方の光。
本の匂い。
静かなページの音。
だからこそ、違和感が目立つ。
先生はカウンターの奥で、机に手を置いていた。
黒い本は引き出しの中。
鍵は閉まっている。
閉まっているのに。
ぺらり。
音がする。
先生は息を吸って、ゆっくり吐いた。
(落ち着いて)
そう思うのに、胸の奥がざわつく。
焦っているわけじゃない。
怖いわけでもない。
ただ――落ち着かない。
頭の片隅に、同じ考えが何度も浮かぶ。
読まなきゃ。
読まなきゃ。
読まなきゃ。
理由はない。
今すぐじゃなくてもいいはずだ。
鍵は閉まっているし、引き出しは安全で――
なのに、その“はず”が薄くなる。
代わりに、喉の奥がむず痒い。
声を出せ、と言われているみたいに。
ページの音に、合わせるみたいに。
ぺらり。
ぺらり。
先生の視線は、引き出しから離れない。
離せない。
鍵は小さい。
小さいのに、まるで手の中で脈を打っているみたいに存在感がある。
先生の指先が、鍵へ伸びかける。
伸びて――止まる。
止めたのは理性じゃなかった。
“怖いから”でもない。
もっと単純な、身体の拒否反応だった。
触れたら、声が出る。
触れたら、読んでしまう。
そんな気配だけが、皮膚の内側に残っている。
先生は鍵を見た。
鍵は小さい。
小さいのに、重い。
「……まだ、読まなきゃいけないの…」
先生はぽつりと言った。
言った瞬間。
引き出しの中で、ページ音が一度だけ止まった。
止まって――
ぺらり。
まるで“肯定”みたいに、まためくられた。
先生は目を閉じる。
(やめて)
そう思ったのに、口が動く。
「……」
音にならない。
なのに、喉が勝手に形を作り始める。
先生は震える指先で、机の上のメモ帳を引き寄せた。
書けば落ち着く。
記録すれば戻る。
そのはずだった。
ペンを握って、最初の一文字を書く。
――しかし、インクが出ない。
いや。
出ている。
出ているのに、文字が残らない。
白い紙に、黒が乗った。
乗ったのに、次の瞬間には薄くなる。
まるで、誰かが消しているみたいに。
先生の呼吸が浅くなる。
(……何、これ)
先生は紙を睨んだ。
その瞬間。
机の上の紙が一枚、ぺらりとめくれた。
風はない。
エアコンの風向きでもない。
明らかに、紙だけが“読ませるように”動いた。
先生は喉を押さえた。
声が、出そうだった。
出したくない。
でも、出る。
ぺらり。
音が、今度は引き出しの中だけじゃない。
背後の棚でも鳴った。
ぺらり。
隣の机の上でも鳴った。
ぺらり。
図書室のあちこちで、ページをめくる音が増殖していく。
先生は立ち上がる。
椅子が床を擦る音が、やけに大きい。
「……っ」
先生は扉へ向かおうとして、止まった。
扉のガラス越しに、廊下が見える。
廊下の掲示板。
紙が貼られている。
学校の連絡事項。
普通のプリント。
その文字が――一瞬だけ白く抜けた。
全部、白紙になった。
先生は瞬きをする。
次の瞬間、掲示板は元に戻っている。
文字は普通に読める。
(……今、見えなかった?)
先生の脳が追いつかない。
追いつかないまま、喉が形を作る。
言葉が浮かぶ。
言いかけた言葉。
思い出せないのに、知っている言葉。
先生の唇が開く。
「……この、」
ぺらり。
引き出しの中で、ページ音が一段強く鳴った。
先生の喉が熱くなる。
声が、今度こそ出る。
その瞬間――
図書室の扉の外で、足音が止まった。
気配がある。
誰かが、そこにいる。
ーーぺらり。
けれど今度の音は、“肯定”じゃなかった。
苛立ちみたいに聞こえた。
同じ時間。
白い廊下の奥で、管理者はログを確認していた。
《Proxy Reader:ACTIVE》
《Status:UNSTABLE》
《Read Speed:LOW》
管理者の瞳の奥で、光が走る。
読み手は生きている。
不安定だが、まだ折れていない。
次の行が静かに浮かぶ。
《Proxy Link Stability:UP》
接続が、少しずつ太くなる。
“読む側”が、同じ方向へ傾き始めている。
管理者は淡々と次の手順へ移る。
指先が空中を滑るように動き、別の表示が呼び出された。
《Path:CHECK》
《Link:PENDING》
読み手と施設の間に、薄い接続がある。
今はまだ“仮”の線。
しかし、線があるだけで十分だった。
「読み手とのパスを確立します」
誰にも届かない声。
次のログが浮かぶ。
《Path:OPEN》
《Endpoint:PROXY-READER》
《Permission:LIMITED》
管理者は一拍置く。
「起点を確保しました」
その言葉に応じるように、黒いケースの内部で封印記録が微かに震えた。
震えは、施設の外へ伝播する。
――ぺらり。
図書室のどこかで、ページがめくられる。
管理者は淡々と続けた。
「目的は変わりません」
表示が切り替わる。
《Objective:READOUT》
《Keyword:UNRESOLVED》
管理者の声は平坦だった。
感情も迷いもない。
業務として“要求”するだけだ。
「間接閲覧による、禁句の発声」
禁句。
固定。
世界に残すための一文。
管理者は、そこだけを見ている。
読み手が単独で至れないなら。
環境を整える。
そのための“道具”を、再稼働させる。
表示が切り替わる。
《Target:RECOVERY-UNIT》
《Status:STANDBY》
回収班は待機状態。
待機のままでは“流れ”が作れない。
管理者は躊躇なく指を下ろす。
《Assist:ENGAGE》
《Action:PROXY-DRIVE》
《Trigger:READOUT》
次の瞬間、回収班の表示が変化する。
《Status:ACTIVE》
同時に、別の行が浮かぶ。
《Intervention:ENABLED》
《Scope:LOCAL》
《Delay:MINIMUM》
回収班が動く。
現場が動く。
読み手の喉が“言葉”へ寄る。
管理者はただ、結論だけを告げる。
「禁句の発声を優先します」
最後の要求が、静かに表示される。
《Readout Request:EXECUTE》
《Priority:HIGH》
管理者の声は変わらない。
「読み上げを要求します」




