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10 Proxy Reader

 先生は鍵を、開けなかった。


 引き出しの前で立ち止まって、呼吸だけを整える。

 手のひらの中で、鍵が小さく鳴った。


 ぺらり。


 返事みたいに、引き出しの中でページがめくられる。


 先生の肩が、わずかに跳ねた。


(聞こえてる。確かに聞こえてる)


 鍵は閉まっている。

 それでも音がする。

 その事実が、図書室の空気をじわじわと歪ませる。


「……佐倉くん」


 先生は振り向いた。

 入口に立つ生徒――佐倉悠斗の顔を見る。


 彼は、妙に元気そうだった。

 いや、“元気”というより、目が輝いている。


「先生、あのさ」


 悠斗は入り口を閉めながら、いつものテンションで言った。


「今日、旧校舎の整理やってきたんだけどさ。……なんか、図書室の空気、いつもより“イベント”じゃない?」


 先生は一瞬、言葉に詰まった。


「……イベント?」


「いや、悪い意味じゃなくて。こう、なんか――」


 悠斗は言いながら、引き出しの方へ目を向けた。

 さっきまでのページ音が、一拍だけ止まる。


 止まって――


 ぺらり。


 まためくられる。


 悠斗の口元が、ほんの少しだけ上がった。


「ほら。今、聞こえた」


 先生の背筋が固まる。


(この子は、怖がらないの……?)


 怖がらない。

 むしろ――面白がっている。


 先生は喉の奥に残る“形”を思い出そうとした。

 昨日、確かに言いかけた言葉。

 言いかけたのに、思い出せない言葉。


 なのに。


 思い出そうとした瞬間だけ、喉が痒くなる。

 口の中が乾く。

 舌が勝手に、音を探す。


「……私」


 先生は自分の声に驚いて、口を閉じた。


 悠斗が首を傾げる。


「先生?」


「……何でもない」


 先生は笑おうとして、笑えなかった。


 机の上にはメモがある。

 書いたはずの文字が抜け落ちたメモ。


 先生はその紙を押さえた。


「佐倉くん。今日は――」


 言いかけて、止めた。


 言葉にすると、決定してしまいそうだった。

 “自分が何かに誘導されている”と。


 それを口にした瞬間、負ける気がした。


 先生は視線だけで引き出しを見た。


 ぺらり。


 ページ音。


 先生の脳が“仕事の手順”で処理し始める。


(保管している。鍵は閉まっている。勝手に開かない。勝手に鳴らない)


 ――でも鳴っている。


 先生は息を吐いた。


「……佐倉くん」


「ん?」


 悠斗は軽い。


「この本の件、しばらく触れないで。……何も、しないで」


 悠斗は少しだけ目を丸くした。


「え、先生が言うなら分かるけど……それ、逆に気になるやつじゃん」


「気になっても、触れない」


 先生はきっぱり言った。

 自分の声が自分の耳に“司書”として響く。


 悠斗は頷きかけて――頷かなかった。


「先生さ、昨日、何か言いかけた?」


 先生の心臓が跳ねた。


「……何を」


「いや、昨日の終わり際。先生の顔、なんか――」


 悠斗は言葉を探す。


「怖いっていうより、決めた感じ? で、そのあと変な音したじゃん。ページの音」


 先生は視線を落とした。


(覚えてない。覚えてないのに……胸の奥に残ってる)


「……覚えてない」


 先生は正直に言った。


 悠斗は驚かない。


「そっか。じゃあ俺の勘違いか」


 軽い。


 軽いのに、その軽さが逆に刺さる。


 先生は言葉を飲み込み、代わりに机の引き出しを指で叩いた。


 コツ。


「これ、昨日から……勝手に」


 言いかけた瞬間、ページ音が一段強くなる。


 ぺらり。

 ぺらり。


 先生は息を止めた。


 悠斗が、にやっとする。


「やっぱりじゃん。先生、これ――本当に“やつ”だよ」


「……やつ?」


「いや、分かんないけど。こういうの、絶対“ルール”ある」


 悠斗は鞄の内ポケットに手を入れて、ノートを確かめる仕草をした。

 先生の目が、その動きに吸われる。


(……変なノート)


 先生は理由の分からない違和感を覚えた。

 触れた記憶はないのに、手を伸ばすのが嫌になる。


 なのに、目は離せない。


 記録。

 記録の欠落。

 空白。


 先生の胸の奥で、いやな感覚が育つ。


 ――分類できない。


 それが一番、気持ち悪い。


「佐倉くん」


 先生は自分の声が少しだけ低いことに気づいた。


「あなた……そのノート、いつから持ってるの」


 悠斗は一瞬だけ考えた。


「んー? 最近。拾った」


 拾った。


 先生は、その言葉の軽さに妙な引っかかりを覚えた。

 理由は分からない。

 でも、喉の奥が乾く。


(……拾った、のよね)


 確認するように、頭の中で反復する。

 それだけで済む話のはずなのに、何かが噛み合わない。


 ページ音が、さらに速くなる。


 ぺらり。

 ぺらり。

 ぺらり。


 先生の指先が鍵に触れそうになって――止まる。


 悠斗が言う。


「先生、鍵、開けないの?」


「開けない」


 先生は言い切った。

 言い切ったのに、喉が痒い。


 ――開けろ。


 そんな声が、喉の奥から響く。


 先生は息を吸い込み、吐いた。


「……今日は、帰りなさい。佐倉くん」


 悠斗は不満そうに口を尖らせる。


「えー。今めっちゃいいところじゃん」


「いいところじゃない」


 先生は言いながら、自分が“いいところ”と言いかけたのかと錯覚して、ぞっとした。


「とにかく帰って。私は――」


 私は、何をする。

 何をしようとしている。


 言葉が続かない。


 先生は口を閉じた。


 ぺらり。


 ページがめくられる。


 まるで、続きを言えと言わんばかりに。


 悠斗は諦めたように肩をすくめる。


「分かった。先生がそう言うなら」


 そう言いながらも、悠斗の目は引き出しに釘付けだった。

 興奮が勝っている目だ。


(この子は……変だ)


 先生はそう思った。

 思ったのに、その思考に“熱”が乗らない。


 変なのは、分かる。

 でも、その“変さ”が現実の危機感と結びつかない。


 先生は自分の頭の中で、何かが滑らかに削られていく感覚を覚えた。


(……いや、今のは)


 先生は眉を寄せた。


 今の感覚。


 まるで、昔――あの古書を開いたときの寒気と似ている。


 先生は机の上のメモを見た。


 空白。


 そして、引き出し。


 ページ音。


 ぺらり。


 先生の喉が、また痒くなる。


 何かを言いかけた気がする。

 言いかけてはいけない気がする。


 でも――言わなければならない気がする。


「……」


 先生は唇を噛んだ。


 悠斗は図書室の扉へ向かう。


 その背中に、先生は言いそうになる。


 “その言葉”を。


 言いそうになって――


 自分で自分を止めた。


「佐倉くん!」


 先生は叫んだ。


 悠斗が振り向く。


「……何?」


 先生は言葉を選んだ。

 選んだはずなのに、喉が勝手に別の形を探し始める。


「……今日は、早く帰りなさい。寄り道しないで」


「了解。……先生も無理すんなよ」


 悠斗は軽く手を振って出ていく。


 扉が閉まる。


 図書室が、静かになる。


 静かになった瞬間、ページ音だけが際立った。


 ぺらり。

 ぺらり。

 ぺらり。


 先生は、カウンターの端に指先を置いた。

 支えないと、姿勢が崩れそうだった。


(落ち着いて)


 そう思うのに、胸の奥がざわつく。

 焦っているわけじゃない。

 怖いわけでもない。


 ただ――落ち着かない。


 頭の片隅に、同じ考えが何度も浮かぶ。


 読まなきゃ。


 読まなきゃ。


 読まなきゃ。


 理由はない。

 今すぐじゃなくてもいいはずだ。

 鍵は閉まっているし、引き出しは安全で――


 なのに、その“はず”が薄くなる。


 代わりに、喉の奥がむず痒い。


 声を出せ、と言われているみたいに。

 ページの音に、合わせるみたいに。


 ぺらり。


 ぺらり。


 先生の視線は、引き出しから離れない。

 離せない。


 鍵は小さい。

 小さいのに、まるで手の中で脈を打っているみたいに存在感がある。


 先生の指先が、鍵へ伸びかける。


 伸びて――止まる。


 止めたのは理性じゃなかった。

 “怖いから”でもない。


 もっと単純な、身体の拒否反応だった。


 触れたら、声が出る。


 触れたら、読んでしまう。


 そんな気配だけが、皮膚の内側に残っている。


 先生は鍵を見た。


 鍵は小さい。

 小さいのに、重い。


「……まだ、読まなきゃいけないの…」


 先生はぽつりと言った。


 言った瞬間。


 引き出しの中で、ページ音が一度だけ止まった。


 止まって――


 ぺらり。


 まるで“肯定”みたいに、まためくられた。





 薄暗い会議室の中で、彼女は背筋を伸ばして座っていた。


 制服ではない。

 いつもより硬い服。

 金属音のしない椅子。


 空調の風が冷たいのに、汗は出ない。


 この場では、余計な感情が“邪魔”だから。


 正面のテーブルの向こうに、数人の影が座っている。

 顔は見えない。

 見えなくていい。


 ここで必要なのは“返答”だけだ。


「東雲凛」


 名前を呼ばれる。


 彼女は即座に答えた。


「はい」


 声は冷静だった。

 冷静でいられるように、何度も練習した声。


「現場での行動について確認する」


 淡々。

 責めるでも褒めるでもない。


 でも、空気は責めている。


「禁句の発声を止めた判断は、記録上“妥当”だ」


 そこで一拍。


 凛の喉が乾く。

 妥当――それは褒め言葉じゃない。


 ただ、帳尻が合うというだけだ。


「だが、回収班の工程に介入した。あれは命令違反だ」


 命令違反。


 凛は息を吸った。


「……申し訳ありません」


 謝罪は正しい。

 でも、止めなければ終わっていた。


 世界が。


 また、あの夜みたいに。


 頭の奥に、白い光が滲む。

 道路が途切れる。

 ビルの輪郭が消える。


 そして――最初から無かったことになる。


 “保管矛盾事変”。


 この組織では、それをそう呼ぶ。


 ある夜。

 街の輪郭が、途中から途切れたことを。


 消えたのではない。

 “無かったことになった”感覚。


 世界が静かに、別の形を選んだ瞬間を。


 人口1000万の都市が、一夜にして、空白になった。


 消えたのではない。

 消えた“ことになった”。


 地図も記録も、歴史も。

 最初から存在しなかったように整えられた。


 だからこそ、普通の人間は疑問すら抱けない。


 凛は、それを覚えている。


 覚えている理由は、分かっている。


 境界線にいたからだ。


 あの夜、彼女は“中心”ではなく“縁”にいた。

 消失が都市を塗り潰していく途中、ちょうど輪郭が重なった場所。

 世界が書き換わる線の上で、彼女は踏みとどまってしまった。


 だから残った。

 残ってしまった。


 家族は、中心にいた。

 友人も。

 住んでいた部屋も。


 全部、空白に沈んだ。


 WSPOにも生存者はいる。

 少数。

 彼女と同じ“縁”に引っかかった者たちだ。


 そして生存者は、同じものを抱える。


 ――認識が、途切れない。


「東雲凛」


 正面の声が続く。


「お前は“認識し続けられる”」


 凛の内側が、わずかに疼いた。


 耐性。

 それは祝福じゃない。

 呪いだ。


 侵食を受けた瞬間、“自覚”できる。

 上書きされる痛みを、ずっと感じ続ける。


 だから、耐えられる。

 だから、壊れない。


 でも、その分――逃げられない。


「保管矛盾事変の生存者は少ない。……そして現場で異常を認識してなお、意識を保てる人間は、お前だけだ」


 凛の背中が僅かに強張った。


 評価じゃない。

 “必要”だと言われているだけだ。


「任務は継続する」


 淡々と告げられる。


「現場への再配置。観測を続けろ」


 その言い方は、あくまで整っていた。

 “適性があるから任せる”。

 “任務だから従え”。


 誰も余計な言葉を足さない。


 理由を説明しないことが、この組織の作法だった。


 凛は息を吸い、吐いた。


「……接触は」


「許可しない」


 即答だった。


「余計な接触で、更なる影響が出る可能性がある」


 妥当な理由。

 誰も否定できない理由。


「現場はすでに不安定だ。刺激を増やすな。――観測だけを優先しろ」


 凛の胸が冷えた。


 観測。


 それは“見ていろ”という意味でもある。


 沈黙が落ちる。


 その沈黙の中で、凛は理解する。


 “止めたこと”は評価されない。

 “止めたせいで乱れた工程”だけが咎められる。


 そして命令は、続く。


「……次は無い」


 短い言葉。


 凛の背中が冷える。


 でも――彼女は言った。


「……次も、止めます」


 言ってしまった。


 会議室の空気が一瞬だけ止まる。


 正面の影は、怒らない。

 ただ淡々と告げる。


「命令違反を前提にするな。生き残りたければ従え」


 凛は視線を逸らさない。


「従います」


 嘘ではない。

 従う。


 でも――止める。


 両方だ。


 彼女は膝の上で、拳を握った。


 掌の奥で、整合タグが小さく疼いた。





 白い廊下で、管理者はログを確認していた。


《Proxy Reader:ACTIVE》

《Status:UNSTABLE》

《Read Speed:LOW》


 管理者の瞳の奥で、光が走る。


 次の行が浮かぶ。


《Intervention:RETRIEVER》

《Assist:PROXY READING》


「回収班への介入を継続します」


 誰にも届かない声。


 空白施設は応答しない。

 応答しないことが、成立条件だから。


 管理者は淡々と告げる。


「読み上げを要求します」





 夜。


 悠斗は机に肘をついて、ノートを開いていた。


 今日の出来事が、頭の中で派手に鳴っている。


 旧校舎。

 白い廊下。

 空白施設。

 暫定Owner。

 Proxy Reader。

 読み上げ要求。


(強すぎ)


 俺はペンを回した。


 現実が面白すぎると、俺はどうしても“裏設定”を書きたくなる。

 やめられない。止まらない。


 特に今日は――引っかかってることがある。


 先生だ。


 黒い本を前にした先生の顔。

 怯えてるのに、逃げない。

 「まだ、読まなきゃいけないの…」って呟いた声。


 それに、あの言葉。


 Proxy Reader。


(読み手、ってことだよな)


 誰かが読む。

 読むことで何かが動く。

 勝手にページがめくられて、勝手に“続きを要求”される。


 ――じゃあさ。


 読むって、ただの行為じゃない。


 読む側に、何か残る。


 そういう“ルール”があるはずだ。


「……よし」


 俺は新しいページに、いつもの癖で一行だけ書いた。


 ――『読み手は、読むほどに世界へ繋がれていく』


 書いた瞬間、やけに字面が決まった気がして、俺はひとりで頷いた。


「うん。これこれ。こういうのが欲しいんだよ」


 その瞬間、窓の外の風が一度だけ止んだ気がした。


 そして――


 どこかで、ページがめくられた音がした。


 ぺらり。


 図書室じゃない。

 旧校舎でもない。


 もっと遠い場所。


 白い廊下の奥で、封印された何かが、静かに呼吸を始めたみたいに。




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