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もうひとつ、気になる場所がある。
これは誰かの私室だろう。だけど、微かに懐かしい気配がする。ほんの僅かな、残り香ほどの。
「やっぱり、気になるかぁい?」
「うん」
静かに背後から忍び寄ってきたのはクーシェ先生だ。気付いていたから驚きはしなかったけど、見事に物音ひとつ立てず背後まで来ていた。こわいと思う。
「じゃあお邪魔してみようかぁ」
思わず「えっ」と先生を振り返る。先生は暢気に「大丈夫だよぉ」と返してきた。そして当たり前のようにドアノブに手を掛ける。
「やぁやぁ、遊びに来たよぉ」
「…だから、どうやって鍵を開けてるんです」
中にいたのは、最早怒りは通り越しているらしい、見たことのある先生だった。
「基礎医学講師」
「そうだよぉ」
「おや君は…?」
ペコリとひとつ頭を下げる。まさか先生の私室に入り込むことになるとは思わなかった。とても申し訳ない。
「…状況がよく解らないが…はぁ。とにかく入りなさい」
「お邪魔します」
折角入れてくれたので、気になっていた気配を探す。先生──基礎医学講師の、胸元と腰元から香っている気がする。その辺りをじっと見ていると、クーシェ先生はボクの視線を辿ってニヤリと笑んだ。
「よぉし。ちょっと君、脱いでみてくれない?」
「嫌ですけど?…本当なんなんですか唐突に。ちょっと。触らないでください!」
「まぁまぁまぁまぁ」
クーシェ先生がガンガンいった結果、推定六十代男性の乙女ポーズを見ることになってしまった。残念ながら脱いでは貰えなかったけど、乱れた服の隙間からアクセサリーが覗いて見えた。
「それ、だ」
「??」
「まさか君…嘘だろ?」
「…ぁー…狙いはコレ、ですか」
呼吸を調えて、基礎医学講師は首に掛けたチェーンを引っ張り上げた。チャリと音を立てて、胸元に埋もれていたアクセサリーが顔を出す。
赤と黒の、繊細な彫刻が施されたそれはボクらが言葉を失くすに十分な品だった。
「君、紫煙から守護を受けてたのか…!」
「てっきり察しているものと思っていたけどね…」
衝撃から立ち直り、クーシェ先生は次第に調子を取り戻していく。
「いやぁ!紫煙の気配は感じていたし、君の話からも推測出来たが、精々眷属かそれに類するものだと思っていたよ!まさか本体とは本当に驚きだ。あれは国から出られなかった筈だろう!?ああ!君から聞いた話をもう一度解き直す必要があるな。ん?じゃあ君、紫煙の力で術具を使っているのかい!あの石やっぱり一度よく見せてくれよ!というかこれは是が非でも会わせて貰いたいんだが!」
怒涛の捲し立てに、基礎医学講師はハンズアップで腰を反らせて距離を取っている。
「石は僕の生命線だから嫌ですし、会うかどうかは向こうが決めるでしょう。それより、僕はまだ彼の説明を聞いていませんよ」
あ。名乗りもせず初対面の先生を襲ってしまった。
「失礼しました。ボクは、ええと──」
「彼はクノくんだ。この春から塔に居る。今では僕の研究室のアイドルだねぇ」
アイドル…?
「ああ、噂の」
そう言われてみれば何かあったな。
「よく解りません」
「皆君が気に入ったんだよぉ。クノくんはかわいいからねぇ」
蕩けた笑みを向けてくれるクーシェ先生。基礎医学講師はドン引きしている。その反応はまっとうだと思う。
「あなたには年齢という概念がないんでしょうし、言っても無駄とは思いますが…人目を気にした方が良いですよ。見た目中年ですからね、あなた」
治安維持部隊に通報されても仕方がないレベルだ。
「君他人のこと言えるのかい?」
「人目は気にしてますよ、だいぶんね」
どうにもふたりは仲が良いらしい。
「先生、ともだちなんだね。良かったね」
「「ともだち…」」
先生たちは同時に復唱したけど、互いに表情が随分違った。
結局、紫煙の力を溜め込んでいるという石は見せて貰えず。もう遅いからという理由で部屋を追い出された。
紫煙の来訪は不定期らしい。けど、石に力を補填する為に最低でも半年に一度は来るだろうとクーシェ先生は予測していた。
それなら、いつか会えるだろう。