3-02 光よりはるか遠い群青
高校生の五条蒼は亡くなったばあちゃんの部屋で、地下室を見つけた。
地下室にあったのは今時珍しい手書きの手帳だった。そこには、50年ほど前に行方不明になった探偵の夫に対する、ばあちゃんの深い愛情の籠った文章が記されていた。
それと手帳には小さな謎の金属端末が挟まれていた。蒼が自分の網膜デバイスで検索しようとすると、何かのアクセスコードが自動認証されてしまった。
ひとまず手帳と端末をポケットにしまって家を出たところで、クラスメイトで幼馴染の一ノ瀬朱奈と、彼女の執事スヴェンにバッタリと出くわした。
一ノ瀬の勢いに負けて一緒に食事をとることになった蒼は、彼女に何気なく謎端末を見せると、執事のスヴェンが慌てて警告してきた。
その端末をすぐに隠せ、と。
疑問に思ったのも束の間、彼の言葉を証明するかのように、ルートを逸れるはずのない自動制御車が三人めがけて突っ込んできて――
ばあちゃんが好きだった。
僕――五条蒼は幼い頃に両親に捨てられた。
ばあちゃんは孤児院から僕を引き取って、女手ひとつで育ててくれた。いつも笑顔で明るくて、僕を本当の孫のように可愛がってくれる優しい人だった。
そんな大恩人も、病気には勝てなかった。
まだ何も返せていないのに。もっと孝行していればよかったのに。この数日、後悔ばかりが胸を焼いた。
僕はまた、ひとりきりだ。
地下室を見つけたのは、そんな風に沈んでいく気持ちを紛らわすために家を掃除し始め、ばあちゃんの部屋で小指をベッドにぶつけて跳びはねていた時だ。
「痛ぁ……え?」
手をついた場所にセンサーがあったのか、壁がスライドして現れたのは地下への階段。
ビックリしすぎて小指の痛みはどっかいった。
おそるおそる降りた地下室には、机と椅子があるだけだった。
机には手帳が一冊、置いてある。
あらゆるツールが仮想化したこの時代、紙媒体は珍しい。平成生まれのばあちゃんでも僕が物心ついたときにはもう使ってなかった。
手帳の表紙には『五条茜』と書かれている。
ばあちゃんらしい、まっすぐで綺麗な字だ。
「ばあちゃん……」
僕はゆっくりページをめくる。勝手に読むのは気が引けたけど、いまは少しでもばあちゃんを感じたかった。
「え?」
予想外の内容に、しばし息を忘れた。
『斗真さん会いたい』『戻ってきて』『いつまでも待ってます斗真さん』『斗真さん……』
斗真。
ばあちゃんの夫の名前だ。
たしか職業探偵をしていて、50年くらい前に事件に巻き込まれて行方不明になったと聞いたことがある。
ページには涙の跡がいくつも滲んでいた。
いつも明るく笑って、楽しそうだったばあちゃん。
笑顔の奥にそんな悲痛な想いを隠していたなんて、僕はまったく知らなかった。
手帳には、記事の切り抜きが貼りつけられていた。メモもたくさん書き込まれている。ばあちゃんは失踪した彼を必死に探したらしい。
でも最愛の夫は見つけられなかった。
僕は動揺した心を落ち着かせるため、一旦手帳を閉じた。
その拍子に、挟まれていた物がコトリと落ちた。
「なんだこれ」
手のひらサイズの細長い物理端末だった。ひんやり冷たくて黒いメタリックな素材だ。
僕は網膜デバイスで読み取って検索してみた。
【検索結果:不明】
不明か。
デバイスの検索機能は、一般名称があるものなら結果が出てくるはず。ただしセキュリティの高いものはこうして制限がかかる。
僕じゃ権限が足りない。これは手に余りそ――
【コード認証:アクセス許可】
「へ?」
デバイスから通知に、声が裏返った。
なんだいまの。
何かのアクセス権を手に入れたらしい。でも、なんの?
他に説明もなかった。
「……ま、いいか」
ひとりで考えてもわからなさそうだ。
僕はひとまず手帳と謎の端末をポケットにしまって、地下室を出たのだった。
いつのまにか冷蔵庫が空っぽだった。
最近は葬儀やら何やらで忙しく、ろくに買い物も行けてなかったせいだ。ちょうど学校も冬休みだったし、出かける用事も少なくて忘れていた。
たまには外食でもしようと家を出て大通りを曲がったところで、ふと声がかかった。
「蒼くん!」
「あ、一ノ瀬さん」
長い黒髪をした小柄な少女がいた。
彼女は一ノ瀬朱奈。大企業のお嬢様で、後ろに老齢の執事がつかず離れずの位置に立っている。
一ノ瀬とはばあちゃん同士が同級生だったので、昔から親交があった。小学生の頃はよく後ろにくっついてきて、妹みたいな存在だった。いまでは僕の数少ない友達のひとりだ。
もちろん一ノ瀬も僕の事情は知っている。心配そうに下から顔を覗き込んできた。
「蒼くん、顔色わるいよ。ひとりでもちゃんとご飯たべてる?」
「いまから食べに行くところ」
「どこいくの」
「……駅前のラーメンかな」
「むむ」
なぜか頬を膨らませた一ノ瀬。
「だめ。私がご飯つれてく」
「……そっちも出かけるとこじゃないの?」
「だって蒼くん、放っておいたら死んじゃいそうだもん。だから私が栄養のとれる食事選ぶの。スヴェン、予定変更ね」
「かしこまりましたお嬢様。送迎を手配します」
一ノ瀬がそう言うと、執事のスヴェンは快諾していた。
言い出したら止まらない子だってことは知っている。僕も、流されることが多い。
ここで言い繕っても説教される未来しか見えないので、こういう時は何も言わないのが吉だ。僕は白い息を吐き出して、空へと消えていくのを眺めた。
「ねえ蒼くん、それ何持ってるの?」
「そうだ。一ノ瀬さんのセキュリティ権限っていくつだっけ?」
「グリーンだよ」
「じゃあ僕より上か。これ、ちょっと調べてほしいんだ」
網膜デバイスで検索できる範囲は個人によって違う。一番下がブルーでその上はグリーン。僕はブルーの最下権限だ。
せっかくならこの謎端末を調べてもらおうと掲げたら、
「五条様! すぐにソレを隠しなさい!」
執事のスヴェンが叫んだ。かなり慌てた様子だった。
何事かと思った――その瞬間。
近くを走っていたトラックが、突然ハンドルを切った。
僕たちに突っ込んでくる。
「えっ」
「蒼くん!」
「お嬢様!」
自動制御の車が軌道を逸れる?
そんな話、昔話でしか聞いたことない。
逃げる間もなかった。
なすすべもなく、僕たちは巨大な鉄塊に巻き込まれてしまい――……
◇ ◇ ◇
『――続いては正月行事の話題です。都内の観光地では前年に比べて平均200%と客足も増え、コロナ禍も去り賑わいを取り戻し――』
……死んだと、思った。
しかしいつまでも来ない衝撃に疑問を感じて目を開くと、そこには見覚えのない風景が広がっていた。
どこかの駅前だろうか。
混雑したロータリーを、数えきれない人々が足早に通り過ぎていく。その雑踏のなかに僕たちは呆然と立っていた。
「……ここは?」
「な、何が起こったの?」
僕の腰に抱き着いていた一ノ瀬が、ぺたりと座り込む。
トラックに轢かれたはずだった。
だが、僕たちは誰も怪我ひとつしていない。
ひとまずは無事……だよな?
「一ノ瀬さん、立てる?」
「う、うん。ありがと」
お世辞にも地面は綺麗と言えなかったので、手を貸しておく。
一ノ瀬は声を震わせていた。
「ここ、どこ?」
「さあ……日本なのは間違いないみたいだけど」
ロータリーには僕たちが埋もれるくらいの人々が行き来している。ほとんどが日本語を話しているし、近くの古めかしいビルのモニターに流れてるニュースも日本語。
ただし彼らが握っている物理端末は見たことがない。試しにデバイスで検索すると【スマートフォン】と表示された。
「た、大変スヴェン、網膜デバイスが壊れてる。検索できない」
「落ち着いて下さいお嬢様。私のデバイスも無反応ですが、それも無理のないことです」
「スヴェンさん、何か分かったんですか?」
「はい」
険しい顔をしたスヴェンは、慎重に言葉を絞りだした。
「ここは……新宿駅前かと」
「新宿? ここが?」
まさか。
僕が知っている新宿とは、何もかもが違う。
まるで50年前の映像のような古めかしい景色だった。
「当然でしょう。おそらくここは2024年の新宿です」
「2024年!?」
僕たちがいた時代から、54年も前だ。
でも車がまだ排気ガスを出しているし、電線が地上に見えるし建造物は古めかしい。スマートフォンという物理端末も目に悪そうだ。
確かに僕たちの時代じゃない。
「じゃ、じゃあ私たち過去に来ちゃったってこと?」
「そのようです。デバイスがサーバー接続できないのも当然かと」
「……え? 僕のデバイスは動きますよ」
【検索結果:ハト科ハト目カワラバト属】
もう一度近くの鳥に向けてみたら、検索できた。
「もし本当に50年以上前に来たのなら、通信できるのはおかしいのでは?」
「……それは、おそらく先ほどの端末が原因かと思われます」
「これ、知ってるんですか」
ずっと握りしめていた黒い金属端末を見せる。
「はい。そちらは宇宙開発用の最新技術器です。遥か彼方へ、光より早く情報を届ける超遠距離通信装置の認証機なのですが……まさか時空すら……」
真剣な表情のスヴェン。冗談ではなさそうだ。
光より遠くへ通信、か。
そんなものがあったとは驚きだが、なんでこんなものをばあちゃんが持っていたんだろう。
「そ、それでどうするの? 私たち、もとの時代に戻れるの……?」
「お嬢様、ひとまず私に考えがございます」
一ノ瀬とスヴェンが相談を始めた。
僕も会話に参加しようとして――ふと、閃いた。
ばあちゃんの手帳を取り出してめくる。
「……やっぱり」
斗真の失踪日は2024年12月。ここからまだ一年近く先のことだ。
それならば。
ゴクリ、と迷いを嚥下する。
僕には網膜デバイスが使える。
権限もセキュリティロックも設定がないこの時代なら制限もないはずだ。
「僕なら、役に立てる」
ばあちゃんの最愛の夫――斗真は、探偵だった。
見るだけで情報が読み取れるこの眼があれば、この眼を彼のために使うことができれば。
未来は、変わるかもしれない。ばあちゃんは泣かなくて済むかもしれない。
僕は、拳をぐっと握りしめた。
待っててばあちゃん。
今度は僕が、恩返しする番だ。