3-09 梔子の花は朽ちれども~復讐の令嬢・ジュディス
両親を殺され、自分も死んだことにされていたジュディス。
腱を切られ地下室に監禁されていたが、死んだとされていた自分の葬式の日に侍女の手を借りて助けを求めに走る。しかしそこで、自分や両親を嵌めた者たちを知らされ——。
復讐のため、亡き曾祖母の遺言で手を組んだのは、怪しいほど美しい黒髪の青年・ルカス。
果たして彼は、怪か、魔か。それを決めるのはこの先の結末次第。
——これは、ジュディスという少女の儚くも悲しき復讐劇。
じくじくと痺れるような痛みにはもう慣れた。切られた足の腱から流れた血溜まりは、すでに石畳の上で色を変え乾きこびり付いてしまっている。それよりも、ぶぶぶ、ぶぶ、と羽音をたててまとわりつく虫の方が嫌だなと、朦朧とした頭でジュディスは考えていた。
冷たい石畳の上に直に座り、時折何かが這いずり回っているような壁へと体を預けるしか、この小さな明かり取り一つしかない閉ざされた空間の中で体を休める方法はない。
ひゅっ、と息を吸い込むと、喉が引きつる。空気を吸いこむだけでも痛みを伴い、大きく咳き込むとそれだけで胃の中がせせり上がってくる。けれども乾ききった唇からは、もう胃液すら吐き出されることはなかった。
部屋の隅には水瓶といくつかの固いパンが転がっているが、交換されることのないそれらはすでに腐り口にできるものではなくなっていた。それでもと、無理をおして飲んでいた水もすでに尽き果てた。
明かり取りから落ちる日差しを数えた回数は今日でちょうど十回目になる。あれほど幸せだったジュディスの世界が一瞬で壊されてから、たったそれしか経っていないのだ。
カーン。カーン。どこかで葬送の鐘が鳴っている。それにつられたようにジュディスの痛む喉の奥から音にならない嗚咽がこぼれる。
「う……っ、う、あ……あ……」
ジュディスは思う。何故、どうしてこんなことになってしまったのかを。確かにあの日、ジュディスは彼女の父母と同じ馬車に乗り込み街へと向かった。侍女のケイトも一緒に。
それなのに突然馬車が揺れ、頭を打ったと思った時にはすでにこの劣悪な石畳の上に寝かされていた。
たった一つの明かり取りから、小さな月明かりが落ちる。その光に照らされた扉の覗き窓の向こう側、フードを目深に被った少女の姿が現れた。
「ジュディスお嬢様! ああ、なんておいたわしい姿に……」
「……ケ、ヒ……ォ」
名前を呼ぼうにも声が出ない。けれどもその茶色のくるくるとしたくせ毛は、たしかにジュディスの侍女であるケイトに見えた。
「ジュディスお嬢様をこんなところに閉じ込めたのは、マリエールお嬢様です! 馬車で子爵様と奥様が亡くなったからって、こんな酷い真似を……」
ジュディスはケイトの告発を聞いても全く信じることができないでいる。
クリスマス前のプレゼントを選びに街まで出たはずだった。両親や、婚約者であるザックウィル子爵家のアーロン、そして大好きな人たちのために、心までホッと温かくなるようなものをと。
その中にはもちろん、コンベラス家の又従姉妹、マリエールのものもあった。
マリエールが? ……まさか。
人を信じることは美徳でもあるが、信じすぎれば簡単に足をすくわれる。それがバレーラント領主であるビルフォーク子爵とジュディスの両親たちの爵位を狙ったコンベラス家の関係。
「ジュディス様、ここから逃げ出しましょう。今日の夜ならばお葬式のため館は手薄になりますから、私が案内します」
この足でどこまで行けるかはわからない。けれどもこのままでいてもジュディスの命は風前の灯火だ。それならば、婚約しているザックウィル子爵のところまでいけばなんとかなるかもしれないと考えた。
今日の葬式というものが、自分の両親のものであったことは間違いない。
夜にまた来ると言ったケイトに柔らかな白パンを投げ渡され、ジュディスはむさぼるようにそれを口にした。喉が痛み、咳き込みそうになるのを我慢しながら涙ながらに食べきった。そうして、ケイトの手引きで石畳の地下室を抜け出した。
腱が切れた片足は思うように動かせないけれども、ケイトの持ってきてくれた棒きれと布で、なんとか地下室を抜け出すと、そこは見覚えのある大きな樫の木の横だった。屋敷の裏庭にあり、代々の墓地へと繋がる目印。
(こんなところに地下室があっただなんて……)
ジュディスは、ぶるりと震える。そんな彼女に肩を貸すケイトが、屋敷の横へと指をさした。
「あちらに用意していた馬車があります」
「……あ、いあ……とぉ……」
できるだけ足を動かしながら屋敷の横まで辿り着いた時、一階客間の窓から妙な声が漏れてきた。少しだけ開けられていたその窓からは、小さな灯りの下で睦み合う男女の姿があった。
「アーロン様……ああ、いいわ……」
マリエールの深い嬌声とギシギシというベッドの軋み。そして、男性の荒い息。
ジュディスには何がなんだかわからなくなった。いや、むしろ嫌というほど知ってしまったのだ。彼女が地下室に押し込まれ埃にまみれて腐った水を啜っている間、自分の婚約者と又従姉妹が繋がっていたということを——。
(酷い、酷い酷い酷い。ああ、アーロン様……)
その場に崩れるように落ちたジュディスは、もう一歩も動けなくなってしまった。もうこのまま置いていってほしい、と。
(どうして神様は、わたしもお父様やお母様と一緒に連れていってくれなかったの? わたしはもう……)
ジュディスは腱の切れた足や擦り傷だらけの腕を触る。そして、ふと気がついた。
「ケ、ウィ……ォ、あな……あ、ケガ……あ?」
一緒に馬車に乗っていた。両親は亡くなり、ジュディスも歩けないほどのケガを負った。けれども目の前にいるケイトはかすり傷一つ見えない。
どれほど運が良かったのだろうか? そう考えるには無理があるほど、今ジュディスを見下ろす彼女の瞳は黒く淀んでいた。
「チッ、もう少し楽に売っ払えると思ったんだけどね。やっぱし、男どもにかっさらわせればよかったよ。あの、クソ女がこんなとこで盛りやがって」
ペッ、と唾を吐き、開いていた窓を外側から締める。そうして、ジュディスの腕を取ると、彼女が引きずられるのもかまわずにぐいぐいと引っ張る。
「あ……な、だ……るぇ……」
これはケイトじゃない。十二の頃からジュディスに付いたケイトならこんなことを言わない、と必死に抵抗する。力ないもう一方の腕で引きずられながら偽ケイトの手を叩いていると、突然パンッと頬を叩かれた。
「はっ、あたしはね、ケイトの姉のヘルガさ。ずっと前にあいつらと縁を切ってから街にいたんだけど、あたしのコレがあの女親子と組んで、ここのご領主様ぶっ殺して爵位をもらうってんで、手伝ってんだよ」
ケイトの姉の話は彼女から聞いたことがあった。貧乏が嫌で街へ家出してしまったけれど、いつかは会える日がくると信じていると。
「そこにケイトがいたのはマジびっくりしたね。ま、おかげでいろいろ助かったよ。あいつも死ぬ前になって、ようやくあたしの役に立ってもらったってもんだ」
「……え、な……ケ、ヒィ……は」
「ははっ、ケイトならあんたの代わりに棺桶に入ってるよ。顔潰してさ。まさか空っぽで葬式を出すわけにはいかないだろう?」
ケイト……姉のように慕ってた彼女の優しい腕がもうないと知って、眩暈がした。自分のこの足も、両親の死も、全てコンベラス家の策略によって引き起こされたと知らされ、ジュディスは愕然とする。
そして、婚約者の裏切りも——。
悲しみを通り越して湧き出た怒りは、ジュディスの目の前を真っ赤に染めた。
(悔しい。悔しい。あ゛ぁぁああああ!!)
声から出ない絶叫が、代わりに彼女へ力を与える。窮鼠猫を噛むように、偽ケイトであるヘルガを突き飛ばすと、切れた腱をものともせずに墓地へと走った。
とにかく逃げなければ。逃げて、両親たちの仇を討つのだ。ただそれだけを考えてジュディスは走る。後ろから、ヘルガが呼んだ男たちの粗野な声が聞こえる。それでもジュディスは林を通り抜けて墓地へと辿り着いた。
墓地の一番奥、さらに一段高いところに置かれているジュディスの曾祖母であるヴェンレッタ・ビルフォークの墓。梔子の花が彫られたその墓には一年中花で覆われている。
その墓の前に座り、ジュディスは曾祖母ヴェンレッタの言葉を思い出す。決して人前で顔をさらすことのなかった彼女は、死んでからもベールを外すことを許さなかった。それほどに気難しいヴェンレッタが一族へと最期の言葉。
『もしもあなたたちに避けられぬ悪意の花が咲いたならわたくしの下へいらっしゃい。そうすれば、少なくとも花弁の数までの願いは叶えられるわ——』
善良なビルフォーク家。誰一人その真意にずっと気づけなかった。けれども、今は違う。
ヴェンレッタの墓石を触りながらジュディスは、どうか、どうか助けて、と一心不乱に祈る。しかし願いはそう簡単には届かない。ヘルガに呼びつけられた男たちがジュディスを追い、その直ぐ後ろに立っていた。
「へへっ、足が動かねえって言ってたが、なかなか別嬪さんじゃねえか。こんなら逃げらんなくて丁度いいや」
「連れてく前に味見でもするか? 親分の女だって見て見ぬ振りしてくれるだろうよ」
「違いねえ」
下卑た笑いがジュディスの耳を襲う。
(あああ……憎い。あの人たちが憎い。憎い。憎い。どうか、わたしに力を……。復讐する力を、お願い……!)
ジュディスの祈りに呼応するように風が吹いた。真っ黒な闇の中でその風は、男たちの粗暴な腕を切り落とす。
「……な、なんだ、こりゃあっ⁉ うぎゃぁっ! 」
闇夜を染めるほどの血しぶきが舞う。その真っ赤な血を全身に浴びながらジュディスが見たものは、真っ黒なフロックコートに身を包んだ、恐ろしいほどに美しく艶容な雰囲気を持つ黒髪の青年だった。
「君が、僕を呼んだのだね、ジュディス。僕はルカス。約束しよう、ヴァンレッタの名に誓い、君の願いを六つまでは叶えてあげる——」
ヴェンレッタの墓に彫刻された梔子の花弁は六枚。ジュディスは同じ数だと頷きながら、迷いなくその青年の手を取った。





