第77話 裁き
赤い三日月が浮かぶ空の下。
空気が張り詰めていくのを感じる。
異変を察知し、瓦屋根が震える音がする。
眼前には、白銀の手甲を両手に纏う少年がいた。
再審を繰り返した挙句、死刑になった元被告人がいた。
(ジェノ・アンダーソン。これも何かの因果か)
超法規的措置。その言葉に乗せられ、裏切った。
その報酬として、病は治り、不自由な体を卒業した。
息を潜め、身分を潜め、関係を潜め、継承戦に参加した。
(法の下で裁けないのなら、ここで私が裁いてみせる)
狼男。ガルム・アンダーソンは静かに闘志を燃やす。
主には生け捕りを命じられているが、不慮の事故はある。
中身に神が宿っていようと、何度蘇ってこようと関係がない。
蘇り続ける度に、殺し尽くす。全ては法という秩序を守るために。
「跳狼跋扈」
ガルムは大腿筋を発達させ、瓦を蹴った。
本来なら、主に相談し、意見を仰ぐべきだった。
ただ、白銀の鎧に通ずる力を見た以上、止められない。
自己中心的な使命感。それを推進力に変えて、距離を縮める。
(……)
速度に反し、景色が緩やかに進む。
数メートルの距離が途方もなく感じる。
その遅れの正体には、おおよそ察しがつく。
――罪悪感だ。
正体を偽り、法律に反し、私的な制裁を加える。
法を遵守する弁護士として、あってはならない行為。
元々は、真実を証明する良い弁護人になるつもりだった。
だが、あの日を境に手は黒く染まった。心は穢れてしまった。
だからこそ、止まるわけにはいかない。今さら引き返せはしない。
(狙いは両腕。その後に、喉元を噛み千切る)
標的を定め、穢れた心は前を向く。
そのイメージに従い、体は動き出した。
吸い寄せられるように少年へ両爪を振るう。
人であることを辞め、動物であることを選んだ。
法律と道徳心を捨て、得られたのは強靭な獣の肉体。
人並み外れた脚力により、攻撃が届く時間は0.1秒を切る。
神相手では通用しなくとも、人間相手には十分通用する速さ。
「――超重力拳」
それなのに、声が響いた。
接敵する瞬間、耳朶が揺れた。
振るわれていたのは、左拳だった。
放った爪よりも速く、顔に迫っている。
(……罪を告白すれば、分かり合えたのだろうか)
攻防の決着よりも気になったのは、正体を隠した後悔。
法律と被告人を裏切ったことを懺悔する機会は十分あった。
だが、できなかった。主の命令を隠れ蓑に舞台から遠ざかった。
(いや、今はただ、悪に徹するまで)
ガルムは後悔を振り払い、戦いに意識を割いた。
振り下ろした腕を早め、獣の爪が相手の肌に迫る。
速度は並んでいた。後は、意思の強さと気力の領域。
「――」
「――」
裂帛の叫びも、感情の咆哮もない。
ただ淡々と時は流れて、決着は訪れる。
振るった両の爪は、ジェノの腕に食い込む。
血がじわっと浮き上がり、爪を赤く染めていく。
そこでようやく、相手が追いつけた理由が分かった。
あてずっぽうのカウンター。山を張った捨て身の一撃だ。
だから、速度の変化についてこれない。動きを目で追えない。
(このままいけば、勝てる。殺せるかはともかく、無力化はできる)
頭には両腕を切り落とし、ジェノの喉を噛み切るイメージが浮かぶ。
それが、手に届くところまできている。勢いに身を任せれば実行される。
法を危ぶむ、超法規的な存在の排除。それを自らの手で果たすことができる。
「私は君の元弁護人だ。……あの時は、すまなかった」
しかし、ガルムは実行しなかった。
腕をピタリと止め、優先したのは罪の告白。
次の瞬間には、拳が頬を捉え、体は沈み始めていた。




