第76話 法律の名の下に
昨年の12月26日正午。血の千年祭、翌日。
アメリカ。ニューヨーク。マンハッタン南部。
メトロポリタン矯正センターと呼ばれる拘置所。
そこでは死刑囚や、刑事被告人が収容されていた。
部屋は一人用の独居房と、複数人用の雑居房の二つ。
特別な事情がない場合は基本的に雑居房へ入れられる。
そんな中、独居房に収容される一人の少年の姿があった。
髪は黒。肌は褐色。左頬にはガーゼ。白色の囚人服を着る。
「…………」
少年の名はジェノ・アンダーソン。
容疑は、死傷者千名を超える大量殺人。
12月25日に行われた白教による集団的儀式。
血の千年祭の実行犯だと嫌疑をかけられている。
独房内のベッドに腰かけて、放心状態なのが見える。
「この子が例の……」
拘置所内。モニタールームには爽やかな声が響く。
室内に置かれるのは、黒いデスクと大量のモニター。
車椅子に座る、黒のスーツを着た、黒髪の男性がいた。
髪は前髪が短く切り揃えられ、後ろ髪が長めに残される。
容姿は二十代後半。体は病的に細く、頬は痩せこけている。
その黒い瞳は、ジェノがいる独房のモニターを見つめていた。
男性が持つ肩書きは弁護士。ジェノの弁護人になるためにいた。
デスクの近くには、ジェノの経歴が書かれた書類が置かれている。
「いいか。裁判はできるだけ引き伸ばした上で、こいつを死刑にしろ」
隣に立ち、指示を飛ばすのは黒い司祭服を着た神父。
短い白髪で、黒いサングラスをつけている、壮年の男性。
仕事の依頼人であり、看守を人払いできるほどの権力を持つ。
「お言葉ですが、神父。我々弁護士は法律の下で平等であり、どんな重罪犯であろうと、被告人を弁護するための権利を持ちます。私の調べでは、彼は冤罪の可能性があり、罪の客観性を検証することが義務です」
黒髪の男は、神父の顔を見て、真っ向から言い放つ。
神父と被告人の間にどんな因縁があろうと、関係ない。
法律というルールを守れるからこそ、人は人でいられる。
守れないのであれば動物と同じ。無秩序な世界だけが残る。
それだけはあってはならない。認めるわけにはいかなかった。
個人の事情で裁判に忖度すれば、法律という概念が危ぶまれる。
「その足を……いや、病を治せるツテがあると言ったらどうする?」
神父が持ちかけてきたのは、裏の取引だった。
人の弱みに付け込めば、支配できると思っている。
人であって、人ではない。ルールを守れない、動物だ。
「お断りする。私情で、法律と被告人を裏切るほど腐ってはいないのでね」
敬意を払う必要がなくなった。
弁護を依頼したのは、この神父だ。
弁護士費用を肩代わりする予定のはず。
金銭が発生する以上、敬意を払うのが常識。
だが、こいつは一線を越えた。従う必要はない。
少年と個人間での委任契約を結ぶ。それで事足りる。
支払い能力の有無は、この際関係ない。真実を証明する。
「弁護は引き受けるが、忖度はしないと言ったところか」
神父は意図を読み取り、的確にまとめる。
何かしらの手を打ってくるつもりなんだろう。
「何を提示されても、私の意思は揺るがない。悪あがきはよしてくれ」
展開を読み、先んじて丁重に断りを入れてやる。
被告人を法律の下で、公平に弁護するのが最優先だ。
関係のない第三者の提案には、なんの法的拘束力もない。
聞いてやる価値も必要性もなかった。動物の鳴き声と同じだ。
「こいつを見た後なら、どう答えるかな」
神父は、デスクのキーボードを操作した。
変化が生じたのは、正面に映っているモニター。
俯瞰した映像から映し出されるのは、見覚えのある島。
リバティアイランド。12月25日と画面内には明記されている。
映像はズームアップされ、そこには一人の少年が映し出されていた。
『目には目を、歯には歯を、まつろわぬ者には死の救済を。
我、この理を以て、この世全てを支配する魔王とならん』
少年の口から聞こえたのは、呪文。
その音色と共に、辺りは白い光が満ちる。
光は凝縮していき、中から現れたのは白銀の鎧。
鎧は両手を前に突き出すと、空から隕石が降り注いだ。
「……」
言葉を失った。人の領域を遥かに超えた戦い。
その決着。その結末が映像として記録されている。
それを食い入るように見ていた。呼吸すら忘れていた。
映像が途切れ、しばらく経ち、思い出したように息を吸う。
動悸が収まらない。心臓の鼓動が、身体を通して伝わってくる。
「超法規的措置という法律用語がある。意味は分かるか?」
そこに追い打ちをかけるように、神父は語り出す。
法律という土俵の上で戦う。そんな明確な意思を感じた。
「法律を超えた問題を解決するための強硬手段。憲法には反しない……」
これ以上ない適切なタイミングでの、効果的な言葉。
断固として曲げるつもりがなかった意思が、簡単に揺らぐ。
客観的な弁論は、得意だった。得意だからこそ、弁護士になれた。
実績を積んで、事務所を開いた。他人に迎合せず、己の正しさを貫いた。
――それなのに。
「もう一度、返事を聞かせてもらおうか」
神父は右手を突き出し、返事を求める。
言葉はもう必要ない。胸の内は決まっている。
「――」
右手を突き出し、固く握る。
自らの思いを態度で明らかにする。
戻れない。正しい道には帰ってこれない。
その上で了承した。手を汚すことを固く誓った。
「よろしく頼むよ。ガルム・アンダーソン弁護士」
こうして、神父との委任契約が成立する。
これが、裏切る前提の弁護関係の始まりだった。




