第70話 死の先へ
第四小教区。王墓所。
白い霧の中に、黒が混ざる。
濃く、深く、全く底が見えない光。
自然現象である霧を飲み込む勢いだった。
その光が乗り、迫ってきたのは、右足の横蹴り。
こっちの顔面を狙う、情けも容赦もない、本気の一撃。
「色触是空」
対し、サーラが右手から放つのは、黒い右手。
物質を掴める透明の手。掴む対象は任意に選べる。
(上手くいくかは分からない。それ、でも――っ!)
サーラは現実に目を向け、理想に手を伸ばす。
自らが下した決断に、迷いも不安も後悔もない。
死の瀬戸際まで追い込まれて、ようやく出した技。
それには必ず意味がある。ここで意味をつけてやる。
「――」
「――」
直後、手と足が衝突し、火花を散らす。
あの蹴りと、真正面から向き合って、倒す。
そんな馬鹿な真似はしない。実力の差は分かる。
だからこそ狙いは、さらに危険が伴った無謀な一手。
(針穴に糸を通す……)
黒い手が向かった先は、兄の左軸足。
軸足を掴んで、引っ張って、転ばせる。
それが、今ある手の中で出せる最高効率。
ただ、そこで障害となるのは分厚い光の壁。
意思の力が強い方が勝ち、能力は中和される。
強度も量も相手が上。どう考えても打ち負ける。
失敗すれば、蹴りをまともに食らって、首が飛ぶ。
ただ、そんな胸糞展開は何もしなかった時でも同じ。
可能性があるなら、黙って死ぬより数億倍マシだった。
(うっ……くっっ……ッ!!)
だけど、指の先が焼けるように熱い。
光の反発を受け、感覚が間接的に伝わる。
その間にも蹴りは迫り、靴のつま先が見えた。
顔に届けばゲームオーバー。接触まで数十センチ。
失敗が現実味を帯びてきて、嫌な汗が体から吹き出す。
猛烈にやめたい。防御か回避に意識を回して、助かりたい。
(すり、抜けろっ!!!)
それでも、サーラは恐れず、死に立ち向かった。
防御でも回避でもなく、反撃することに命を張った。
死ぬなら、自分が選んだ選択を信じて、心中したかった。
「……っっ」
その時、ある変化が指先から伝わる。
手が水中に潜り込んでいくような感覚。
そして、その先にある何かを掴んだ感触。
(取ったっ!!!!)
黒い光に阻まれて、目には見えない。
だけど、分かる。感じ取ることができる。
その感性に従って、伸ばした手を引っ張った。
「――っっ」
兄はひっくり返り、体勢が崩れる。
放たれた蹴りは、真上に逸れていった。
(ふぅ……。やってみれば、案外なんとかなるじゃん)
安堵し、サーラは行く末を見守る。
勝利条件は、相手からダウンを取ること。
守りを捨て、攻めで勝ち取った起死回生の一手。
相手が地面に倒れれば、その時点で逆転勝利が決まる。
「よっと」
しかし、目に入ってきたのは、軽快な身のこなしと受け身。
地面に片手をついて、倒立し、着地。両足は地面についている。
(無理して、覚悟を決めて、命を張って……これ?)
こっちが、ようやく越えられた壁。
それは、相手にとって朝飯前の出来事。
あらゆる攻防の中の一つで、特別じゃない。
「……少しは、やるようですね。続きといきましょうか」
兄は軽いトーンで賞賛すると、再び拳を構える。
勝負は始まったばかり。まだ見ぬ先を見据えている。
(違う……。経験も技術も対応力も、何もかもが違う……)
高い壁の向こう側には、さらに高い壁があった。
事実は理解できる。他人事なら難しい話じゃない。
だけど、頭が理解を拒む。自分事なら話は別だった。
(また一から仕切り直して、意表を突ける気がしない……)
すでに、手札は晒してしまった。
初見で通用するのは、今の一回だけ。
もう一度、同じ手を使っても通用しない。
それぐらいの差。気が遠くなるほどの高い壁。
こっちが一歩進んでも、相手は百歩先にいる感覚。
かといって、降参することはできない。戦う以外ない。
(あぁ……。今日が命日かもなぁ……)
半ば諦めつつも、サーラは再び構える。
勝てる気はしないけど、黙って死にたくない。
策なんかないけど、やれるだけやるしかなかった。
「――――危ないっ!!」
そんな時、聞こえてきたのは兄の声。
鬼気迫りながらも、どこか優しい声音。
(え……?)
体はふわっと浮き上がり、突き飛ばされる。
意識の外からの攻撃。全く予想してなかった。
完全に油断していた。意表を突かれてしまった。
(くっそ……その手は考えてなかったな……)
悔しさを味わいながら、体は勢いよく飛ぶ。
勝利条件はダウン。気配を殺して、倒せば勝ち。
だから、さっきみたく蹴り飛ばす必要はなかった。
――そうして、背中は地面に接触した。
「……」
ザザッという音が鳴り、やがて止まった。
センスでガードしたから、別に痛くはない。
本気の横蹴りと比べれば、蚊に刺された程度。
(勝つまで気を抜いちゃ駄目、か)
服の土を手で払い、サーラは立ち上がる。
敗北の代わりに得られたのは、人生の教訓。
見聞きした情報じゃなく、経験を通した実感。
(未来の兄には、感謝しないとな)
敗北と教訓を受け入れ、サーラは前を向く。
上には上がいることを理解して、歩みを進める。
「……どう、して」
しかし、見えてきたのは予想もしなかったもの。
出所は不明。能力も不明。誰の仕業かも分からない。
「――――――――っっっ」
ただ、結果として残ったのは、明確な霊体の絶命。
巨大な風刃が、兄の胴体を真っ二つに切り裂いていた。




