第56話 再始動
世界が揺らぎ、収束する。
因果の糸が、再び結び直される。
改変を受けた人間に、影響が出始める。
「あ……れ……?」
大理石の床に、ぽたりと一滴の血が滴り落ちた。
ジェノは振るいかけた拳を止めて、ふと我に返る。
脳がビリッと痺れ、口元にヌメッとした感覚がある。
反射的に指で鼻をこすると、起きた状況を理解できた。
(鼻血……? なん、で……。攻撃は受けてないはず……)
目の前には、パメラとガルムの二人。
敵意はなく、哀れむような視線を送っている。
二人と戦っていたはずなのに、何やら様子がおかしい。
(待てよ……。そもそも、なんのために戦ってたんだっけ?)
ジェノは足を止めて、前提を疑う。
仲間だった二人と敵対した理由を探る。
辺りを見回して、状況を理解しようとする。
(体が光に……。誰かの霊体……?)
視界に端には、粒子化する体が見える。
自然と足が向く、消えゆく姿を確認しにいく。
まだ辛うじて残っていた、霊体の尊顔が見えてくる。
「この、人は……」
相手には、その容姿には見覚えがあった。
かつての師匠。恩師であるのは、間違いない。
だけど、許せない。本人じゃないのがもどかしい。
この憤りを、負の感情をぶつけてやるには物足りない。
「リーチェ……っ!!」
それでも口走るのは、憎むべき相手の名前。
裏切り者に向けた、これまでの怒りの発露だった。
◇◇◇
第二森林区。暗い森の中を歩くのは二人。
樹々は折れ、地はえぐれ、森は荒れ果てる。
悪霊の気配はなく、不気味なほど静かだった。
「こちらは第二森林区。通称、不帰の森と呼ばれておりまして――」
そこに響いてきたのは、エミリアの声。
観光名所を案内するように、説明を続ける。
不必要な情報と分かりながら、頭に入れておく。
無視すれば、能力が解除される恐れもあったからだ。
「……ん? どうかした?」
ただリーチェは、ある異変に気付く。
エミリアは急に黙り込み、足を止めていた。
様子がおかしい。前方で敵が現れたのかもしれない。
「一つ、お尋ねしますが……。貴方はわたくしのお客様でよろしいですよね?」
すると、エミリアは正面を向き、尋ねてくる。
内容は関係性の確認。今さら答えるまでもないこと。
(森の瘴気にあてられて、気でも狂った……? いや、それにしては……)
最悪を想定しながら、リーチェは思考する。
狂ったことを考慮して、接しないといけない。
「当たり前でしょ。そもそも、あなたが呼んだんじゃなかった?」
ひとまず、当たり障りのないことを言って様子を伺う。
(ここまではいい。問題はこの後ね……)
空気が張り詰めるのを感じながら、リーチェは身構える。
場所が場所なだけに、悪い方へ悪い方へと思考は傾いていく。
「そうでございますか。そうでございますよね……」
正面を見つめながら、何度もエミリアは頷く。
当然の反応ながら、どこか異様で、恐怖を覚えた。
「……」
ごくりとリーチェは唾を飲み、拳を握る。
悪霊なんかより、人間の方がよっぽど恐ろしい。
理性がある分、予想もつかない行動に及ぶことがある。
「……失礼致しました。説明はほどほどにして、先を急ぎましょうか」
しかし、エミリアは振り返り、何でもないように言い放つ。
満面の営業スマイルを見せつつ、その鼻下には赤い跡が残っていた。




