第135話 つむじ風
何か、大事なことを忘れている気がする。
なぜか、重要な行事が終わった感じがする。
どうしてか、奥の場所から邪悪な気配がする。
仔細不明。ただ、身体は勝手に動き出していた。
「……」
コツコツとミネルバは靴音を鳴らす。
どういうわけか、ここはとんでもなく暗い。
明かりはなく、体幹と足の感触だけが頼りだった。
「どこ行くの? 帰る方向とは真逆だよ」
そこで声を発したのは、ソフィアという女性。
今までのやり取りから察するに、敵ではない様子。
ただ、信用に値するかは慎重に考えなければならない。
――彼女は快楽殺人者だ。
偏見かもしれないが、初対面の印象が悪すぎる。
少なくとも、先の会話を聞く限りでは、そう感じた。
話す内容が確かなら、ソフィアは妹を十二回殺している。
正常な人間の感性とは思えない。倫理観のタガが外れている。
選ぶ言葉を間違えれば、その矛先がこちらに向く可能性もあった。
「助言は感謝する。ただ、仮に正しいとしても、足を止める理由にはならないな」
ミネルバは発言を吟味した上で、心情を述べる。
今のところ、進行を止められているわけではない。
あくまで善意から、帰路を教えてくれているだけだ。
無碍には扱えず、かといって、聞き入れる必要もない。
やんわり断るぐらいの塩梅がちょうどいいように感じた。
「ふーん。だったら、行ってみなよ。行けるもんならね」
しかし、背後から聞こえたのは、不穏な言葉。
(反りが合わない、か……)
反射的に手をかけたのは、背中に背負う大剣の持ち手。
襲ってくるなら、自己防衛のためにも戦いは避けられない。
例え、剣身が半分近く欠けていても、選り好みはできなかった。
後ろを振り返って、聴覚と触覚を頼りに、折れた軽い大剣を構える。
「――――――っっっ」
しかし、動きたくても、動けない。
体からは脂汗が滲み、寒気が止まらない。
ぶるぶると腕が震えて、持ち手を握るのも辛い。
(見えない、壁……っ? 前に進めない……)
頭には率直な感想が思い浮かぶ。
直接的な攻撃を受けた感触はなかった。
妙な既視感を覚えるも、原因を特定できない。
ただ、目の前の空間が少し歪んでいるように感じた。
「分かったでしょ。動けないなら、奥に行く資格はないよ」
ソフィアは間接的に止めた理由を吐露する。
(奥に何かいるのは確定。問題は実力が足りないこと)
少ない情報から、ミネルバは現状の課題を浮き彫りにした。
恐らく、見えない壁で止まる程度では、到底勝てない相手がいる。
足手まといはいらない。これは、攻略できる人員を選ぶための選別作業。
(だったら、実力を示すまで……っ!!!)
ミネルバは結論を出し、大剣に力を込める。
震える手と腕に、精一杯の思いと信念を乗せた。
「うーん、センスないなぁ。どれだけ力を込めても、無駄だって」
彼女の言う通り、ピクリとも動かない。
大剣をそのまま振り下ろすことさえできない。
剣術の初歩の初歩。それが、果てしなく遠く感じた。
「……くっっ」
ミネルバは無意識に歯を食い縛る。
知識と経験が上手く噛み合わない感覚。
頭ではできるのに、体が追いついてこない。
悔しい。もどかしい。そんな感情が体に満ちる。
「悪いことは言わない。諦めて帰ったら? アレに命を懸ける動機はないでしょ」
変わらない状況を察し、ソフィアは声をかけてくる。
見えない壁を突破するには、力不足。先の敵には、役者不足。
大剣を振るえないという残酷な結果が、 心と体に重くのしかかった。
「…………まだっ!」
それでも、ミネルバは諦めなかった。
一心不乱に大剣に力を込め、掌には血が滲む。
無駄な努力。意味のない行動。身の程を弁えない愚挙。
頭の中では分かっていても、どうしても諦めきれない理由があった。
「へぇ……根性あるね。何があなたをそうさせるの?」
大剣を動かせない現状は変わってない。
それでも、風向きが少しだけ変わった気がした。
(人として興味を持たれた。それなら……)
ミネルバが思い浮かべるのは、動機。
困難に立ち向かおうとする、精神的支柱。
記憶を消されても、色濃く残るものがあった
「騎士道精神。それが、私の魂には深く刻み込まれている」
手をぎゅっと握り込み、静かに語る。
幼少期では、騎士道を教養の次に学んだ。
強制されたわけではなく、自ら進んで覚えた。
片っ端から学び、必死に頭と体と心に叩き込んだ。
誰かに言われるまでもなく、知的好奇心に従い続けた。
「まだ浅いね。伸び代はありそうだけど、具体性が足りてない」
ソフィアは、意地悪をするように話を掘り下げる。
確かに、上っ面の浅い知識なら、誰でも誤魔化せる。
語るべきは、騎士道の本質。状況に応じた最適な答え。
求められているのは力ではなく、仲間に足るだけの資格。
いくらでも思いつくけれど、一つに絞らなければ響かない。
自然と頭には、今まで培った知識の最適解が浮かび上がった。
「――汝、敵を前にして退くことなかれ。逃げるなら死んだ方がマシだ!!!」
ミネルバが語ったのは、騎士道の戒律の一つ。
敵に背を向けてしまえば、戒律を破ることになる。
死者より役に立たない、臆病者に成り下がってしまう。
それだけは避けたい。そう思えたからこそ、立ち向かえた。
「……」
返ってきたのは、深い沈黙と、地面に亀裂が走る音。
大剣は振り下ろされ、見えない壁を斬った感触が手に残る。
「…………期待には、応えられたかな?」
「うん。資格十分。合格だよ。悪魔退治と行こうか!」
二人は短い応答を交わし、足並みは北へと向いていった。




