第114話 通過儀礼
触れたのは、ある意味で懐かしい感覚だった。
王位継承戦が始まる前に触れたものと全く同じ。
負の感情を煮詰め、千年熟成させた、どす黒い沼。
身体にベットリと絡みつき、徐々に沈み込んでいく。
前と違ったのは、これを受け入れる気があるかどうか。
「…………」
サーラは抵抗することなく、身を委ねた。
このまま呪い殺されてもいいと、覚悟を決めた。
気付けば全身が沼に浸かり、息が出来なくなっていく。
沼を構成する泥が、口と鼻を塞いで、呼吸が完全に停止する。
十秒。二十秒。三十秒。四十秒。五十秒。一分。一分三十秒。二分。
――苦しい。
そんな滑稽な苦痛が、体を通して伝わる。
腕をもがいて、みっともなく抗うこともできた。
でも、ぐっと堪えて我慢する。痛みを全て受け入れる。
望むのは悪霊との対話と懺悔。実現しないのには理由がある。
――死を経験しないと対等じゃない。
同じ目線で話すには、同じ立場である必要がある。
だから、死ぬ必要があった。殺されないといけなかった。
そこまでやって、ようやくイーブン。五分五分の関係が築ける。
「……………………っっっ」
サーラは死の領域に自ら足を踏み込む。
咳き込み、心臓が脈打ち、脳が酸素を欲する。
息をしたい、助けて欲しい、どうにか生きていたい。
そんな見苦しい感情が、今になって胸の内を支配していく。
だけど、ここには誰もいない。悪意と殺意と憎悪しか存在しない。
誰もが死ぬことを望んでいる。誰もがここで殺されることを願っている。
「――――――――――――――――――――――――――」
そこで、苦しさの臨界点を超える。
全身の血の気が引き、心臓の音が止まる。
苦痛の先に残っていたのは、冷たくなった身体。
助かりたいという願望が失せていき、ひたすらに寒い。
ガタガタと全身が震え上がって、死が近くにいるのが分かる。
(……殺されるのって、こんな感じなんだ)
生と死の狭間。呪いの沼の底で、サーラは一人悟る。
憎い、怨めしい。その先にあったのは、寒くて、寂しい。
怨念で包まれたヴェールの奥には、人としての情緒があった。
(悪霊だろうと、人間だろうと、根っこは変わらないんだね……)
思い込み、レッテル、偏ったものの見方。
それで悪霊たちをひとくくりにして考えてた。
でも、少し違った。誰もが怨んでたわけじゃない。
(うん。要望はなんとなく伝わった。後は――)
先の見えない常闇で、サーラは光明を見る。
可能性を感じ、実現するべき計画が思い当たる。
そこで意識は途絶え、希望を抱きながら死を迎えた。
◇◇◇
パッと明るい光が当たった気がした。
瞼を閉じているのに眩しく感じてしまう。
そのせいか頭がガンガンして、目の奥が熱い。
「…………っ」
サーラは耐え切れなくなり、目を見開いた。
ぼんやりとした視界の中、見えたのは椅子と人。
鮮明には見えない。全体が濁っているように見える。
良くないとは思いつつも、目をこすり、焦点を合わせる。
すると、濁りが少しマシになり、正面に座る人物が分かった。
「ゼスト……」
第一商業区を任されていた、門番。
銀の兜と鎧に、腰に剣、背中に盾を着ける。
若くして戦士となり、功績を残した、未来ある若者。
彼の役割は決まっている。ここにいない悪霊たちの代弁者だ。
「口を慎め、逆賊風情が!」
ゼストは剣を抜き、切っ先を喉元に少し当てる。
血液がツーッと流れ、銀の刃をほんのり赤く染める。
怒りは頂点。今にも喉を貫こうとしているのが伝わった。
言葉を間違えたら殺される。恐らくそれは、現実世界の死だ。
何の根拠も確信もなかったけど、なんとなくそんな気がしていた。
「殺しても別にいいよ。それが、そっちの総意なら」
サーラは脅し文句に一切動じず、反応する。
ここに歩みを進めた時点で、覚悟はできてる。
殺される展開なんて読めてたし、一度は死んだ。
今更死が怖いとは思わないし、動じる理由はない。
それに、ここに呼ばれたのには、きっと意味がある。
殺したくても、殺せない。そんな政治的な匂いがした。
「くっ……」
切っ先が揺らぎ、ゼストの顔には焦りが見える。
図星だ。感覚系じゃなくても、誰が見ても明らか。
彼は若いし、有望で、実績もあるけど、経験が浅い。
実戦はともかく、論戦は明確に不得意のように感じた。
言いくるめるのは簡単だけど、そんなことはしたくない。
「わたしに何か用がある。だから殺せない。そうでしょ?」
建設的に話を進めるため、サーラは尋ねる。
謝罪することも念頭にあったけど、今じゃない。
目的を知るまでは、話を掘り下げるのが無難だった。
「……図に、乗るなよ!」
カチャンという音が鳴り、ゼストは剣を鞘に納めていく。
ひとまず、血生臭い展開はなくなった。と見ていいはずだ。
――本題はここから。
「分かってる。図々しいとは思うけど、そっちの用件を聞かせてもらえる?」
単刀直入に、サーラは相手にバトンを渡す。
この命を行く末を決める、何かが行われるはず。
すると、ゼストは大きく息を吸って、こちらを睨む。
一拍おき、重々しい空気が満ちる中、その目的を告げた。
「貴様は被告人。我らが故郷の風習に従い、神明裁判を執り行う!!!」




