つげ義春「貧困旅行記」を読んで
2008年から2009年にかけて、ちくま文庫から「つげ義春コレクション」全9巻が出版された。懐かしくて、毎月新しい巻が出るたびに買い、ついに全巻揃えることになった。
私が初めてつげ義春を読んだのは、「ガロ」に掲載されていた頃。当時、「COM」というマンガ雑誌を買っていた私は時折「ガロ」も併読していた。
「COM」は手塚治虫の「火の鳥」や石森章太郎の実験マンガ「ジュン」などが連載されており、マンガの新しい世界を予見させる新鮮な雑誌で、かたや「ガロ」は白土三平の「カムイ外伝」を筆頭とする、どちらかといえば暗いジメジメしたイメージの雑誌だった。
どちらを買う? となれば、私は「COM」を選んだ。「火の鳥」と「ジュン」がやはり毎号楽しみで、「ガロ」の陰翳のある内容と比較すれば、どうしても当時の私としては「COM」に軍配をあげざるを得なかった。でも、「ガロ」の暗さにも惹かれる点もあった。
私は自分の心がこうした人間の暗闇の部分と結構親和性があることを感じ取っていた。「ねじ式」や「紅い花」を読んだのもこの頃だ。「ねじ式」は何のことやらさっぱり理解できなかったが、「紅い花」はどこか心に残るものがあった。
「シンデンのマサジ」の「キクチサヨコ」にとる態度が、その頃の私は自分なりに分かったような気になったからかも知れない。
小説は再読してみると、昔読んだ印象とずいぶん違うこともあるが、「ねじ式」にしても「紅い花」にしても、あるいはその他の作品にしても、昔読んだ時とほとんど違わない印象だった。はじめて読んだ時にじんわり湧き起こった感情は、私の心のずっと下の地層の中で、ぎゅっと圧縮されてしまっていたが、それは無くなってはいなかった。再発掘するまで思い出さなかっただけだ。
今もつげ義春の作品を読むと、私の心の底の方でその解凍が始まり、溶け出し、ドロドロとうごめいている何かを感じてしまう。それは、今、忘れていた何かだ。でも、決して無くなっていない何かだ。
「彼は自分とよく似た種類の人間なのかもしれない」とは、おそらく誰しも感じることなのだろう。
「だから何なのだ」とあなたは言うか?
貧困旅行記のことを書こうとして、まったく関係のない話になってしまった。
本の中身については、まぁ、もういいだろう。はっきり言って、私がこの本で興味を持ったのは、文章というより、そこに収められている写真である。風景もあるが、特に4枚ほどの家族写真。妻や長男が写し出されているモノクロの写真。何なんだろう? この懐かしい感覚。どこかで感じたことのある写真だなぁと考えていたら、そうだ木村伊兵衛の写真を見た時の感覚に似ていると自分勝手に思い当たった。
文章の中では妻も長男も淡々と描かれているが、写真の中の二人の表情や立ち姿などを見ると、私は何だかせつなく、とてもやるせない気持ちになる。この気持ちは、おそらく彼のマンガを読んだ時に感じるものと無関係ではない。
あぁ、でももう止めよう。
また、あの頃の自分を思い出してしまうじゃないか。
(2012.3.24 オリジナル)