明石さん
私の中の、割としっかりとした一番古い記憶は、たぶん4,5歳のころのものだ。
おそらく昭和30年頃。
大阪のM市で、何軒か家が連なっている長屋みたいなところに私たち家族は住んでいた。
そんな家だから、むろん庭などはなく、家の前はすぐ道路で、その道路の隅では夕方になると、奥さんや子どもたちが七輪で火を熾し魚を焼いたりしていた。
車が通ることはあまりなく、子どもたちはこの道路で遊ぶのが常だった。
近所に「明石」さんという私と同年齢くらいの女の子がいた。
下の名前は忘れてしまった。もしかすると、明石という名字も私が勝手にそう思っているだけで、全然違っているかも知れない。
少し下ぶくれの顔で、平安時代だったら美人だったかも知れないな、と今になれば、そんな感じが印象として残っている。
明石さんはよく私の家の前に来て、「しろうちゃーん、あそぼー」と大きな声で私の名前を呼んだ。ままごと遊びに誘うためだ。
私は「いややなぁ」とこぼすが、母は「ほら、ほら早く行きなさい」とせかす。
私は本当にイヤだったのだ。
明石さんが嫌いだったのではない。
女の子と一緒にするままごと遊びが、どこか乳のにおいがして、おへそのあたりをくすぐられるようで、どうしても好きになれなかった。
明石さんに呼ばれ、母にせかされて外に出ると、家の前の黒い土の上には、風で飛ばされないように四隅に石で重しをされた「茣蓙」が一枚敷かれてあり、ままごと用の茶碗とお箸なんかが用意されてある。
「私がお母さん、しろうちゃんはお父さんよ」と役割を確認して、ごっこ遊びが始まる。
おもちゃの茶碗に、ご飯に見立てた砂を山盛り入れて、食べるまねをして、「おかわり」なんて言うのだ。小さなちゃぶ台みたいなものもあったかも知れない。
そうそう、今思い出した。ジュースなんかも色紙を絞って作っていた。
「行ってらっしゃい」
「行ってくるわー」
夫婦のような真似っこをしていた。
これがたぶん私の一番古いしっかりした記憶だ。
あれから60年くらい経った。
あっという間だ。
私は最近こんなことを想像する。
あのままごと遊びをしていた時、浦島太郎のように玉手箱を開けたら、今の自分がいる。
そんな気がする。
60年くらいの年数などひとっ飛びだ。
はい、たちまち「しろう」はおじいさん。
もちろん、玉手箱はない。
しかし、今日を迎えるまで、生まれてから64年、あっという間だ……と言いながらも、色んなことがあったのは事実だ。
辛かったこと、楽しかったこと、悔しかったこと、悩んだこと、ごまかそうとしたこと、ごまかしを許せなかったこと、立ち止まったこと、羨んだこと、恨んだこと、助けられたこと、酔っ払ったこと、誉められたこと、叱られたこと、迷惑をかけたこと、迷惑をかけられたこと、反省したこと、人生の意味を考えたこと……等々。
とても書き切れないくらいの経験をしたはずなのに、あのままごと遊びをしたときから、あっという間におじいさんになった気がする。
浦島太郎はおじいさんになってから、どうしたのか。
誰も自分のことを知らない生まれ故郷で、どのようにして暮らしたのか。
今日で64歳になった。
身体のあちこちにガタが来ているのは確かだが、今のところ、まだ何とか生活できている。
来年はいよいよ65歳。
介護保険で言えば、第1号被保険者だ。(笑)
何歳まで生きるのだろう?
そんな思いが現実として頭に浮かぶ歳になった。
浦島太郎はすぐには死なず、龍宮城で出会った綺麗な乙姫さまを折に触れて思い出しながら、余生を十分楽しみましたとさ。めでたしめでたし。
みたいな生き方ができればいいな。
そして、これを書くに当たって、ふっと思い出した明石さんも、人の好いおばあさんとなって、今もどこかで元気に暮らしていれば、いいな。
(2015年02月08日 mixiから)