一室で
彼女は椅子に座ったまま死んでいた。椅子に浅く腰をかけて背凭れに凭れかかり、仰向けになった状態で両手をダラリと垂れたまま息絶えていた。
僕は背後に忍び寄り、逆さになっている彼女の顔を覗き込んだ。その目は大きく見開かれて、遥か彼方の虚空の一点を凝視している。
ソウヨ 私ハ何時ダッテ、ケンチャンノ知ラナイ世界ヲ見テイタワ
僕はそんな彼女の目がたまらなく好きだ。その目が捕らえているもの、それが何であるか僕にはわからない。ただ、彼女が遠い遠い僕の知らない世界を見ている事だけは確かだった。
決して視線の合わないその目を見ているうちに、僕はフト或る事を思いついた。
彼女の顔を鏡に映してみようというのだ。
部屋の隅にある可愛らしい鏡台の上から小さな手鏡をとり、それを彼女の顔の前に立ててみた。
些細ナコト、ソノ、チョットシタ仕草ガ私ヲヒドク不安ニサセル デモ、アナタハソレニ気付イテイタカシラ
鏡に映し出されたのは、確かに彼女の顔であり、一つの死だった。しかし、そこには彼女が彼女自身の証しを立てるものは何もなく、ありふれた死だけが映っていた。
期待を裏切られた感じと軽い驚きが僕を非常に不安にさせた。
僕は彼女自身を何とか映し出そうと、手鏡の角度を色々と変えてみた。だが、動かす手を止めると、そこには彼女の抜け殻しか映らず、彼女自身はすばやく瞬間瞬間を飛び回るだけだった。
ケンチャンニハ 私ノ影ハ踏メナイワ
それはまるで影踏みごっこだった。相手の影を踏んだ、と思った瞬間、かがみ込まれる為に足は空しく地面を叩くだけに終わる。そんな風だった。
ケンチャンノオ馬鹿サン
僕は何と馬鹿なのだろう。
何の結果ももたらさぬ自分の行為を僕は恥じた。無為な彼女を前にして、僕は全く無力だった。
僕はもう一度彼女を見た。
仰向けになっている為、少し誇張された胸のふくらみが、彼女の死を完全に決定づけている。
髪の毛が数本、彼女の開いた口にもつれ込んでいるのを見つけ、僕はそれを指で丁寧にはずしてやった。その時のしなやかな粘りのある抵抗感は、まさしく彼女の優しさを示している。
アナタヲ愛シテイタワ
僕はかって彼女を愛していた。だが、言葉とは何と空虚なものだろう。それを唱えるだけで生命の泉が湧き出るものなら、僕は喜んで唱えもするだろうに。
ケンチャンノ嘘ツキ
いや、僕が彼女に愛していると言ってもそれが何になろう。そこには鏡に映し出された死のようなありふれたものしか存在しないだろうし、また逆に余す所なく完全なる情熱を込めて言葉を語れるとしたら、もはや僕の生命の泉は枯渇してしまうに違いない。
嘘、ケンチャンノ嘘ツキ
いや、今言った事は全部嘘だ。僕は嘘つきだ。
それにしても、自分自身の時間を手にして死んでいる彼女は何と自分に忠実な事か。彼女の前では、僕は何を言っても、それは全部嘘になるような気がした。
ケンチャンノ嘘ツキ
僕はもはや嘘つきだった。
嘘つきは時間に逆らっていき、その異和感を絶えず感じながら生き続けなければならないのだ。
オカシナコトダワ
実際、この部屋に僕と彼女がいる事、その事自体矛盾していた。
僕は彼女の前に立った。そして、僕は彼女を椅子から抱き起こし、そのまま強く抱きしめた。彼女は軽く死の溜息を漏らした。大きく見開かれた目はそのままだ。
僕の腕の中から具体的な死が僕の身体を侵食し始めたが、それはあたかも今まで雲に隠れていた太陽が、少しずつ、しかし確実に力強くその光量を増していく為、そのままゆくとすべてを熔解させてしまうようなそんな浸食の仕方だった。
コノ部屋ハモウイラナイ
彼女の口を塞ごうとした時、僕の目の前にあったのは、まぎれもなく僕の顔だった。
(了)
(2022年01月23日 mixiから 1978.4.1作)
27歳の時書いたもの。若いなと思う。