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夢 その一

 何かの事故なのだろう。船が転覆したのだ。私は海に投げ出された。あたりは薄暗い。夜が近づいている。確か多くの人が乗っていたはずなのに、他の乗客の姿は見えない。立ち泳ぎをして、辛うじて身体は海面から浮き出ているものの、大きく、小さく、ゆらり、ゆらりと上下する波に揺さぶられるようにして身体は持って行かれ、どんどんと広い海のただ中へ運ばれる。口元にまで上がってくる分厚い海水に溺れそうになりながら、その時私が見たもの。それは遥か彼方、濃緑の海面につけられた巨大な足跡だった。姿はないけれど、ものすごく大きな足跡が海面に残されている。それが私を追いかけるように迫ってくるのだ。私は薄れかける意識の中で、「海面に足跡をつけることができるなんて、これはきっと人間を超越したとてつもなく大きな存在に違いない」と実感し、「あぁ、これって、私はもう死ぬのだな」と観念し、それと同時に意識を失ったところで目が醒めた。


(2013.8.7の夢 オリジナル)


私はよく夢を見る。見た夢は出来るだけ素早く枕元に置いてあるノートに書き写すようにしている。これはずいぶん昔からの習慣である。しかし、多くの夢は断片的であり、まとまりを欠いている。出来るだけその内容を忠実に表現しようとするが、目覚めてからの再構築、辻褄(つじつま)合わせになっていることも多い。でなければ、記述することすら出来ないからだ。

今回挙げた夢は、私の夢の中でも比較的筋が通っていて分かりやすいものである。しかし、どうしてこんな夢を見たのか、もちろん知る由もない。


(追記)

 以前読んだ河合隼雄の「こころの最終講義」の中で、『日本人の宗教性』に触れた節にこんな個所がある。 

『われわれが宗教に〝性”と付けて、「宗教」と言っていないのは、特定の宗教を信じるとか信じないとかいうことではなく、宗教的なことに関わってのことだからです。これはよくユングが言っていますが、ドイツの神学者ルドルフ・オットーが言うような意味のヌミノース(聖なるものの特徴で、恐ろしくて魅惑的)な現象というものを注意深く、正面からそれを観察することだということでもあります。ヌミノースなるものは、実際われわれの存在を揺るがすもので、それにあったときにわれわれは自分を圧倒する自分よりももっと偉大な存在があるということ、そしてその前では自分が非常に卑小な存在であることを意識するような体験をします。その体験を注意深く慎重に観察する。そしてそこから逃げない。そういうことを「宗教性」とユングは言っています』(P104-105)


 宗教性ということについてユングはこう考えていたと、河合が説明している箇所である。

 私が夢の中で見たもの、感じたもの。それは、海面に巨大な足跡をつけることができる人間を超越した存在であり、私の前で圧倒的な力を見せつける存在であった。その前では、私は自分自身が取るに足りないミジンコみたいに微少な存在でしかなかった。この体験を注意深く慎重に観察し、その時感じたことから逃げずに、その体験に真正面から向き合うこと。それが宗教性というものに繋がるんだなと納得したのである。


 私は特定の宗教に属している訳でもなく、これ以上のコメントもできない。ただ、私の見た夢と非常に近いものを感じたので、一層記憶に残ったのである。


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