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柳田国男「みろくの船」

柳田(やなぎた)国男(くにお)の「海上の道」(角川ソフィア文庫)を読んだ。ここにはいくつかの論考が収められている。今回はその中の一つである「みろくの船」の話である。その中で、私が興味を持った部分だけをまとめてみた。民俗学など無縁である私には難しすぎる作業であるが、間違いを恐れず、無謀な試みをしようというのである。

「私年号」というのがある。

 本来の元号ではなく、勝手に作られた年号。

 今で言うと、「平成」の代わりに何か別の名前を勝手に作ること。


 日本はこれまで、たくさんの元号が作られてきたが、いくつかの時代に、元々の元号とは違った名前も使われていたことがあったという。


 西暦で言う1507年は後柏原ごかしわばら天皇の時代で、永正四年に当たるが、この時、私年号として日本の東国では広く「弥勒みろく二年」というのが使われていた。

 書類、書物の作成日付に使用されていたというから本格的だ。

 というのは、一般に認知されていなければ、こういうことはできないし、しても意味がないからである。


 元号は言うまでもなく、時の国家が定めるのだが、天変地異とかイヤなことがあった場合、気分一新のため、翌年には名前を変えた。コロコロ変えた。

 だが、一般大衆は、国家の定めだけではもの足らず、もっと期待をこめて新しい年号を待ち焦がれていたのだろう。


 この1507年の「弥勒二年」というのは誰が言い出したのかは不明だが、何とか世の中をいい方向に持って行って欲しいと願う気持ちが、「弥勒」への信心と相まって、辛い生活を余儀なくされていた一般庶民に受け入れられ、承認されたに違いない。


「弥勒」とはウィキペディアによると

「弥勒はゴータマ・シッダッタの次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、シッダッタの入滅後56億7千万年後の未来に姿を現れて、多くの人々を救済するとされる」

 とある。


 この「弥勒」という救済者に助けて欲しいと願いをこめて、「弥勒二年」という私年号ができたのだと考えられる。

(弥勒二年ということは、弥勒元年もあったと思うが、それについてはまったく触れていない)


 柳田は「日本では応仁の乱後、世上が極度の窮乏と動揺の底に沈んでいた際に、弥勒の信仰が突如として目さめてきたらしく、弥勒二年という私年号が、ひろく東国の各地に使用せられていた証跡がある」(P.120)としている。


 また、上で『「弥勒二年」というのは誰が言い出したのかは不明だが』と書いたが、柳田は「鹿島の事触ことふれ」という、門付け、物もらいの徒であった鹿島の下級神人ではなかったかと推測している。


 ところで、実はこれが本題なのだが、「弥勒二年」頃に、流行ったのかどうかは確かではないが、柳田国男は、昔の常陸国ひたちのくに<現在の茨城県東部>鹿島に弥勒謡みろくうたというのがあって、「ハレ」の日にはその歌に合わせて踊る伝承があるという事実に興味を持つ。


 というのは、この弥勒信仰の歌と踊りは、常陸国から遠く離れた、日本の南方、八重島列島にも同じようなものが存在するからである。


 それはなぜか?

 しかし、柳田はその答えを用意せぬまま、この論考を終えている。


 柳田は同書(海上の道)の中の「知りたいと思うこと二三」という文章の中でこうしるしている。


「弥勒の出現を海から迎えるという信仰が、遠く隔てた南北の二地にある。一方は常陸ひたちの鹿島を中心とした鹿島踊りの祭歌、いま一つは南方の八重山群島の四つ以上の島で、この方は明らかにニロー神、すなわちニライの島から渡って来たまう神を誤って、そういう風に解するようになったものと思う。鹿島の弥勒ももともとはそれでなかったかどうかは、この中間の他の地方に、是に類する信仰があるか否かによって決定する。……(以下略)」


 弥勒信仰の、もとの発端は八重島列島の方で、それが柳田の持論である黒潮に乗って、常陸国にまで到達したのか。

 それとも、逆に常陸国の方が発端で、それが何らかの方法で八重島列島の方に伝えられたのか。その疑問に答えてくれない。(柳田先生は前者でしょうか??)


「みろくの船」でも、結論めいたものは何も書いていない。

「ことにミロクという名の起こりは何に由るか。八重山諸島の節祭(せちまつ)りの歌と行事、一方には宮古島の世積み綾船(あやふね)の古伝等に引き比べて、私は今改めてニライという海上の浄土のことを考えてみようとしているのである」(P.129)と最後の文章を締めくくっているだけである。


 八重島列島の方では、ニライの神が弥勒とごっちゃになったのか、鹿島の弥勒もごっちゃになったニライの神が伝えられたのか、その疑問も解けないままである。


 ああ、消化不良だ。(笑)


 と、こんな内容でいいのか?

 自信がない。 というか、間違って解釈しているかも知れない。


 これまでの「海上の道」と「海神宮考」の二つと比べると、まだ比較的理解しやすい内容ではあったが、まとめようとすると、まったくまとまらない。

 やはり、まとめるには相当な基礎知識が必要であるらしい。


 2014年09月14日(mixiから)

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