「糞尿譚」を読んで思い出したこと
第六回芥川賞受賞作、火野葦平の「糞尿譚」を読んで、関係ない話だが、思い出したことを書いておく。
記憶は定かではないが、おそらく昭和30年代、私がまだ小学校に上がる前か、それとも小学生だった頃か、大阪のM市では、まだトイレは水洗化されておらず、くみ取り式だった。
定期的に自動車(それはバキュームカーと言われた)が来て、ホースでもって一軒一軒溜まった屎尿を吸い取って回っていた。
はっきりと覚えているのは、バキュームカーの黒いホースが屎尿を吸い込む時に、ブブブブ……という音をたて、うねうねと蛇のように地面を這っている光景だ。私たち子どもは、それを「わーっ!」とか言いながら、うねっているホースを何度も飛び越えて遊んでいた。
バキュームホースで吸い込んでも、どうしても外に漏れる。
黄色い液体がホースから漏れ出て、土を湿らす。
当然、臭う。
バキュームカーよりも以前は、ホースではなく、おじさんが柄杓の長いやつでくみ取り、桶に入れて担ぎ、自動車の後部に地面から斜めに立てかけた滑り止めのついた傾斜板を上っていたのを見た覚えがある。
黙々と仕事をこなしているのを見て、子ども心にも、屎尿くみ取りは大変な仕事だと思った。
まだ、田んぼには「肥だめ」(どつぼ)と言うのがあったり、そこに落ちそうになったりした時代だ。(実際、そこにはまって、死んだ子どももいる)
今は、もう、ほとんどの家が水洗トイレで、くみ取り式の経験をした人が少なくなっているだろう。
この「糞尿譚」という作品は、そんな時代を知っていると、なるほどな、とうなずくことも多い。
もちろん、知らなくたって、読めるが。
とにもかくにも、この排泄、生命を与えられると同時に課されたやむを得ない宿命である。
これに関連して、大分前に読んだ本に興味深いことが書かれてあったので、ちょっと書き留めておく。
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『西紀前四千年と考えられるメソポタミアの古代王国シュメルの神話は、人間の創造について、楔形文字の タブレットに、つぎのように記している。
女神のニンマは、子を生むことができない女をつくった。男の性器も、女のそれも無い人であった。どうやらこの創造は失敗らしく、肉体も精神も、まことに弱いものだった。なぜなら、ニンマが話しかけても答えないし、パンを食べさせようとしても食べられない。立つことも坐ることも、かがむこともできない、横臥したままの人間であったから。そこでニンマは知恵の神エンマの力を借りて、つぎの新人を創造した。「あなたが手でつくった人に、わたしは人間の運命をさだめ、かれに食べものを与えました。」この人間は、深い谷の崖にある粘土をこねたものだった。そのとき人間は食べることを知った。タブレットは破損していてそのあとが欠けている。もしもと、わたくしはいう。その欠けているところを補うとするなら、食べものを与えられた人間は、このとき、大小便をすることを運命づけられたと』
――李家正文<トイレットの生活文化[日本編] 厠の誕生から21世紀まで>
「図説 厠まんだら」P.8(INAX出版)
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確かに、食べ物を与えられた人間は大小便をすることを運命づけられたのだ。
『排泄は孤独な行為である』と私は思う。
人にそう話したことがあったが、「えっ? そうかなぁ」と相手にされなかった。まぁ、そういう人がいても可い。人それぞれなんだから。
ただ、私は用を足しながら、排泄する自分と排泄された物の関係をしみじみ考えてしまうことがある。変な話だけど。
(2016年12月13日 mixiから)
今、ついでに思い出したが、手塚治虫のマンガにこういうのがあった。
まったく大便をしない男がいた。何年経っても出ないし、本人も苦しくはない。それは、大腸がねじれて、異次元の空間に入り込んでいて、大便はすべてその異次元空間に排泄されているというもの。話の結末は書かないが、そんな話もあったのを思い出した。




