それぞれの本当
朔は冷たくなった彼のそばで眠っていた。もう陽月は会議場についている頃だろう。まだ暗い夜の闇の中で月に照らされている朔の瞳から溢れて頬を伝う涙はもう冷たく、乾きかけている。
朔は浅い息をしながら深い眠りについていた。決して質の良い睡眠というわけではなく、ただ深い闇の中を底知らず沈んてゆくように眠っていた。
朝が来たら朔の身が危うい。しかし朔は起きない。
彼はその身を彼以外の全てに委ねているようであった。どうにでもなってしまえと、自分に執着することなく、自分というものを手放していた。
カツカツカツ
朔の眠る建物の屋上に誰かの足音が聞こえてくる。走ってはいない。規則的な音を立てながら朔の元へ近づいてくる。
そしてその音は朔に影を落とすくらいの距離まで近づくと止まった。
影の主は小さくため息を吐いた。ため息を吐くと、白い手で朔の手を掴む。そしてもう片方の手で朔の背中に手をやると、朔の身体をゆっくりと起こしてゆく。
そんな朔は完全に眠っているせいか頭がすわっていないような感じでカクカクと頭が揺れている。
白い手を持つ影の主は渚である。赤い瞳は月の逆光のせいか光を灯さず鈍い色をしているようだった。口許は何の感情も感じさせないように結ばれていた。
渚は朔の背中にやっていた手をその安定しない頭にやり、その肘でなんとか背中を支える。
座ったような体勢になると朔は人形のように見えた。人形、というよりかは置物や“飾られている何か”に見えた。
「……」
渚はそんな朔を見ると、少しだけ唇をきゅっと強く結んだ。
そして朔の頭にやっている手を動かして朔の頭を自分の方に寄せると自分の額と朔の額をコツンと軽く触れるような形にした。
朔の額に触れながら少し苦しそうな声を出す。
「……ごめんね」
その声に、その言葉に、先程までの無機質な冷たい渚はいなかった。
しばらくすると頭を話して、朔を抱えて建物から降りてゆく。
その時にはすでに渚の表情は元に戻っていた。
スピネルの瞳には光は差さなかった。
***
瞼をうっすら開くと、淡い光が差し込んでくる。でも少し鬱陶しくて、また瞼を閉じる。
誰かの手が、朔の銀の髪を撫でる。朔はそれが心地よくて少しだけ手の方向に顔を向ける。
その手は朔の体温よりも温かくて、確かな熱を持っていた。
小鳥がさえずる音が聞こえる。カーテンが大きく振れる音が聞こえる。
穏やかな時間。
しかし、少しだけ咳き込む音が聞こえる。その音は遠ざかってドアを閉める音とともに消えた。
「……」
朔は今度こそ瞼をきちんと開く。
眩しい。でも柔らかい日差しがカーテン越しに朔に届いていた。
「……」
少し遅めの朝といったところか。
朔はそれを確認すると、体を起こした。
喉が渇いていたことに気がついた。
「……」
生きている
そう実感すると同時に朔の脳裏には昨晩の映像が流れる。
『愛してやる』と優月は朔に言うと優しい顔をしてもう目覚めることはなく、その手は冷たくなった。
ああ、あれから自分はどうしただろうかと朔は記憶を辿ろうとする。
が、しかしもちろんそれどころではなかった。
視界が大きく歪んだ。そして何も見えなくなるほどにぼやけて、喉元がとても痛んだ。目頭は熱くなり、息が苦しくなった。
「ぅぁ……っ」
両手で首のあたりを抑えた。
苦しい、苦しいともがく。それは、生きたいから?
「ぁっ……だめ、だ……」
優しいあの顔がバチバチと脳裏で点滅する。
昨日自分がしたことが鮮明に思い出される。
一時でも、幸せでいてはいけないと心が訴える。
「生きてちゃ……だめだ……」
ふっ……と無理やり息を止めようとする。そんなんじゃ死ぬことはできないのに。
体が生きようとするから、朔は大きく咳き込んだ。
「けほっ……げほっ…………」
起き上がった体はもうベッドの上に貼り付けられている。起き上がる気力もない。
自分だけじゃあ死ねない。
どうしようもできない。
その時朔の瞳にキラリと朝日に反射する瓶が映った。
「……もぅ……全然効かないじゃ……ないか……」
そう言いながらベッドから降りようとする。
しかし、力が抜けてしまっていて、ベッドから落ちるようになってしまう。
「足りない……やだ……もうヤダ……こんなのやだ……」
結局救われようと忘れようと瓶に手をかけようと、その手を弱々しく伸ばす。
ゆっくりと這って机まで進む。
すると、次はものすごい吐き気がした。
胃の中が飽和している感覚だった。その理由は朔にはわかっていた。それでも彼は近くまで来ている瓶に手をかけようとする。
「早く……早く効けよ……」
その瞳はひどく苦しそうだった。いつもの冷静で冷たい朔ではなく“ちゃんと人間”の朔だった。
自分が奪ったものの大きさに、大切さに、儚さにひどく苦しみながら彼はふっと意識を失った。
***
少しづつ、日常が崩れてゆく音が聞こえる。その足音は、はっきりと聞こえる。
『そうじゃないって!』
誰かが言う。
陽だまりの中で、朔は誰かから護身術を習っていた。
『ごめんなさい……』
悲しそうに、でも納得行かない感じに、下唇を少し突き出しながら下を向く。
幼い頃の、記憶。
『そんなんじゃ、陽月様を守れないよ?』
先生は、スパルタだ。
でも、淡くて、優しくて、温かい記憶。
『どうすればいいんですか』
不貞腐れたように先生に聞く。
まだまだ未熟で、まだまだ子供な朔のその瞳は目つきだけで心が読み取られてしまうようなくらい素直に感情を映した。
『それは、自分で考えなきゃ』
難しいことを言う。
朔は少し嫌になってごろんと緑の中に寝転がる。
心地よくてさっきまでの不満は全て吹き飛んだようだ。
『……朔はさ、私の弟に少し似てる
きっと、君たちが会ったら大親友になるだろうね……』
そう先生は言うと悲しそうな顔をする。
朔はそれに首を傾げながら、
『連れてこればいいじゃないですか?』
と、問うた。
でも、先生にそれはできなかった。
理由は、朔の記憶には残っていなかった。その先生の顔すらも記憶に無いのだから。
***
渚は廊下を歩いていた。
そのシャツには血がついていて、歩く渚は俯いていて、顔は見られなかった。
ただ、その手はしっかりと握られていて、わなわなと震えていた。それが怒りからくるものなのか、悲しみからくるものなのかは分からなかった。
ただ、彼の握られた拳の端から血が滲んでいるのが見えた。
「……」
窓を易易とすり抜ける朝日が彼を照らす。窓の前を通る度に照らされる彼は少しずつ歩く速度が早くなってゆく。
服が揺れ、その艷やかな黒髪も束が揺れる。
そして一瞬だけ、彼の口元が見えた。
きゅっと結ばれた口元には彼の瞳の色と同じ色をした液体が少しだけ付いていた。
渚が向かう先はこの屋敷の裏口。そこは昼間は庭師が良く行き来する。なぜならその扉を開いた先の世界には一面の緑が広がるからである。緑、赤、ピンク、青、水色、白、黄とまるで桃源郷のような世界が広がる。そしてさらに奥へ歩くと小さな池がある。緑、青と透明なはずの水は木々や花々の色をその身に写し取り、まるで絵画のようだ。
そんな完成品に、渚はゆっくりと手を突っ込んだ。手についている血を透明な水で流そうと試みる。透明の中に、赤がふわりと広がってゆく。まるで花のように広がると、その色は透明にかき消されてゆく。不思議なものだ、透明なのに色を掻き消してしまうのだから。水とはきっと、そういうものだ。
「……」
渚はそんな水をゆっくりと見つめる。優しくて、確かにそこにあるのに儚くて、あらゆるものを全部包んでしまうような、無くしてしまうような、そんな水。命をつなぐものでありながら、命を奪ってしまうもの。それ一つでその2つの相反する事を両立してしまうもの。
しかし渚にとっては、水とはいつでも優しいもので、そしていつか他の水と混ざって消えてしまうものであった。
「……」
ふわりと、
その時一陣の風が吹いた。
その間だけ渚とその池のみ、時が止まってしまったように他の景色がゆっくりと流れてゆく。
室内で温まっていた渚の手はすでに水によってとても冷たくなっていた。
春の朝はまだとても寒くて、そして渚の心に穏やかな春がやってくることもは無く、まだ、冷たいのだ。
「……たとえば」
ふと、口にする。
自分でも意識しないうちに。
「もう一度、あなたに会えたら」
ただ、それだけを願う。
それだけのために彼は生きている。
「わかっているけれど、会えたら」
復讐だけが、今の彼の中にあるもの。
だから彼の心はとてもとても冷たい。
「会えたら……いいのにな」
しかし、雪解けの匂いは少しずつ彼に近づいてきていて。
『……友達は……敬語はいらない……と思います』
しかしまだ、遠い。
そしていつかその氷が、雪が、溶けてしまったら彼はひどいジレンマに苦しむのだ。
***
書類の積み重なった濃いブラウンのテーブルは、掻き分けけられた書類によってほんの少しだけスペースが作られている。
そのスペースで書類に書き込んでいるのは陽月であった。
透明感のあるブラウンの髪は彼女が動くたびにさらりと揺れ、肩から背中へとサラサラと落ちてゆく。
その手は万年筆を握りながら時々動きを止めては、まだ紙へと戻り、ブラックブルーのインクを少し滲ませながら文字を書く。
しかし突然万年筆を紙の上に置いて、書くことをやめてしまった。
陽月は大きく伸びをすると、椅子の上に座りながら手をだらりと下げて天井を見た。
白い天井は、古いにもかかわらずシミ一つない。しかし少しだけ日焼けしている。
「……はぁ」
アメジストの夜景のような瞳は少しだけダルそうに天井を見つめている。
『僕はずっと幸せなんです』
やはりあの日からその言葉ばかりが彼女の頭の中を巡っている。
そういう時期なのかもしれない、朔がいくつなのかは正確にはわからないが、朔と出会ったとき朔はだいたい6歳から7歳ごろであったから、今そういう年頃であっても変なことではない。
しかし、あまりにも変わってしまった朔が、突然あの頃のように微笑いながらあんな事を言うことは、そういう年頃だからと理由をつけてしまってもいいものなのだろうか。
そもそも冷静で、時に残酷な無機質な朔へと性格が変わってしまった事自体からが始まりなのか、それとも本当の朔はそちらで、この前のような優しい顔をする朔が偽物なのか。
どちらも本物の朔なのか、偽物の朔なのか。
考えてゆくうちにさらにわからなくなってゆく。
「……朔は……朔は……どっちなんだ……?」
わからない。
だから少しだけ朔が怖い。たかが8年ほど朔と過ごしただけで本当の朔などわかりはしないのかもしれない。
もしも全てが偽物だったらと考えると怖くなる。
「朔……」
自分が今の環境に朔を置いてしまったことで本当の朔を彼の心の奥底に閉じ込めてしまっているのではないか。
「……もしそうなら、ごめんね……」
しかし朔はそれでもあの日確かにこういったのだ。
『僕はずっと幸せなんです』
もしそれが、今彼が陽月の障害となる者たちを排除していることすら含めて言っているのならどうしようかと。
アメジストの瞳は大きく揺れていた。