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出会いは雪の日

 それは、数年前の雪の日のことだった。

 陽月は独り、ゆっくりと煌めきながら降る雪を見つめることもなく、髪や肩にかかるそれらを振り払うこともなく、ただ歩いていた。

 行き先は、本人も知らない。

 でも、行こうと思っていなくても自分の記憶の中のどこかへと自然と足を運んでいた。

 しかし、その“どこか”は彼女にとってはあまりにも残酷で、あまりにも暴力的だった。

「……」

 息を止める。

 アメジストの瞳は固まって暫くすると大きく揺れ出した。気が付けば止めていたはずの息も大きく吸ってはすぐに吐き出して、肩で息をしていた。目眩がする。激しい呼吸のせいだ。

 陽月がたどり着いた場所は、何の変哲もない広めの路地裏の入り口。そこには光が届かなければ、雪だって家と家の屋根やら風向きやらが関係して降ることはない。

 そんな路地裏に用がある者なんて、堅気の者ではそういない。

「……」

 それでもアメジストの瞳は、そこにある、何かを、見つめていた。温かい何か。

 他の誰にも見えなくても、彼女の目には映っているのだ。確かに、鮮明に、ある人物のことが。

『ねぇ、陽月様、私達は』

 声まで確かに覚えている。それは当たり前のことで、陽月はその人物と去年のちょうど今日まで確かに一緒にいたのだ。如何なるときでも、側に居てくれた。ずっと守っていた。幼い頃からずっと一緒で、今だって。

『離れ離れになっても……いつでも……“そこ”にいるからね?……だから笑って?……陽月様』

 その言葉のお陰で、ここまでやってこられた。

 その優しい声だけを頼りに歩いてきた。

「……っ」

 静かな夜に、降り積もる雪が嗚咽の音を吸収してしまって悲しみが陽月の心だけに響いた。

 静かに、膝から崩れ落ちる陽月のその透明感のある髪は緩やかに舞って雪を掬い取る布のようだった。銀世界はどこまでも静かで、でもどこか遠くの方の、話し声、笑い声、温かいどこかの家族の夕食時の雰囲気が心に染みる。そんな声を聞くと余計に疎外感のような、孤独感のような、自分だけしか持っていない、背負い切れるかも分からない苦しさが大きく膨らんでいった。

「……っ、も、もう……無理だよ」

 声が震えて、瞳が濡れ始めて、鼻の奥がツンとする。嗚呼泣いてしまう。せっかく我慢してきたものが溢れてしまう。ここで泣いてしまえばもう、しばらくは歩き出せないと、わかっていた。

 しかし、涙はきっと止まらない。

「……苦しいよ……お願いだから、側に居てよ」

 自分のことを抱きしめてみても、ただただ会えない人の体温や優しさが恋しくなるばかりであった。

 目に映るものすべてが、その人物を思い出すトリガーとなっていて、毎日毎日消えてしまいそうな日々を送っていた。

 自分がちゃんとしなければと。泉宮家の当主なのだからと。泉宮家を背負い始めて間もないその小さな背中は震えていた。

「……っ、っは……ぅ……」

 嗚咽が止まらない。呼吸の仕方を忘れてしまったみたいだ。視界が涙でぼやけて、ぼやけた中に愛おしい人の影が見える。忘れないように毎日毎日思い出しては泣きそうで、それくらい、愛おしい人。そんな人の影が見えれば涙はとうとう降り始めた。

 呼吸ができなくても誰も助けてくれないという状況が酷く冷たくて、こういう時にはいつも優しく背中を擦ってくれたあの手が記憶の中で温かくて、心がぐちゃぐちゃであった。

 しかし人というものは、そんなに長いこと泣いてはいられない。しばらくしたらまた立ち上がらなければならない、前に進まなければならない。

 腫れた瞳は暫くすると涙を止める。

 前に進まなければ、と。陽月は立ち上がろうとするが泣いたら心が少し空っぽになってしまって、何かをしようと思うことができなくなっていた。

 もう少しだけ、頭がぼーっとしたような妙に居心地の良い感覚を味わってから立ち上がろうと、路地裏をぼーっと見つめていた。

 目を、閉じる。

『陽月様は泣き虫だから私が守ってあげますね』

 懐かしい思い出は酷く苦しい。

『そんなにお前の前では泣いてないぞ』

 だから、もう大切なものを作ることをやめてしまおうと思っていた。だって、それもいつかは消えてしまうのだ。しかもきっと、自分を取り巻くものたちのせいで。

『私は知っていますよ。陽月様が陰でどんなに泣いていても、私達の前では堂々と胸を張っていて、素直じゃなくて、大丈夫なフリを、頑張ってしていることを』

 大事にすればするほど、苦しくなるから、心を殺してただ淡々と役目を果たそうと割り切っていた。諦めていた。

『そんな陽月様のことが、皆、大好きなんですよ?』

 溜息をつく。ゆっくりと、白い息を吐く。

 生きているみたいで、変な心地だった。勿論生きているのだが。

「……せめて、お前に褒められたところくらいは、成長させたいな」

 妙に落ち着いた心で、少しだけ微笑みながらそう言ってみた。

 言ったらいつか、叶うような気がしたから。

「さて、と」

 ゆっくりと立ち上がって、膝についた雪を払い落として歩き始める。確実に、足跡をつけながら。

 帰ったら抜け出したことがバレてメイド長の彩葉に怒られてしまうだろうが、今日は素直に話を聞いてやろうと思った。

 そのアメジストの瞳はその目の周りが腫れているとは思えないほど優しい色をしていた。

 

 暫く歩いていると、その瞳はある方向を見つめた。

 そして少しだけ揺れ動いた。

 その視線の先には、綺麗なものがあった。

「……」

 100人いたら90人以上は綺麗だと答えるだろうか。もしかしたら、あり得るかもしれない。人間と人形の瀬戸際にいる。

 神様が創り出したと言われても納得してしまうが、神様が作ったにしては、人間らしさが抜けてしまっていて、人間に似せるその技術を疑ってしまうようだった。

 “それ”もこちらを見つめていた。

 薄汚れた服を重ね着もしないで雪の中、靴も履かずに真っ赤な足で立っていた。

(人間か?)

 最初は疑ってしまったが。

「……っ」

 “それ”は陽月のことを見ると泣き出してしまったから、ちゃんと人間らしく喜怒哀楽があって、子供っぽく悲壮感満載で泣いたので、陽月はその瞬間に人間だと認識できた。

 流れゆく涙まで冷たそうなくらい寒そうな“それ”を見ると陽月は自然と着ていた紺のコートを羽織らせた。

 大切なものは作らないといっても、慈悲の心を無くすとはいっていない。

 コートを羽織らせると“それ”はもっと泣いてしまった。そうして“それ”は膝から崩れ落ちた。

 さっきまでの陽月と同じように。

(……)

 アメジストの瞳が捉えたのはボロボロの薄い布から覗くはっきりと浮き出た鎖骨や、細すぎる腕、血色の悪い唇や目の下の隈。そして、そんな“それ”の少し後ろの方に転がっている女性の死体であった。

(母親か?)

 餓死か、飢え故の病気か何かで死んだのだろう。幸いな事にこの時期だ、死体の状態はまだ綺麗であった。

 だからだろうか、きっと目の前で泣いている“それ”は、母親がまだ生きているのではないかと何度も何度も起こそうと試みては母親の死を嫌でも頭にねじ込まれ続けて、疲れ果てて泣いてしまったのではないだろうか。

 『涙は優しさの証ですよ。泣くのは悪いことではないんです、むしろ、良いことなんです。だから、たくさん泣いて、その後にたくさん笑いましょうよ』

 ふと、思い出した言葉。

 いつもそうだ。日常生活のどこか1片から、陽月は大切な人のことを思い出していた。

 しかし、特に今は目の前の“それ”が必死に涙を細い手で拭い続けているので、その言葉を掛けられた時の自分と重ねてしまって思い出した。

 その時は、ちょうど陽月は泉宮家の当主になったばかりで、自分の無力さに嫌気が差して泣いていたのだ。泣きたくて泣いたのではなかった。ただ涙が勝手に出てきて止まらないのだ。

 自分にそうやって泣く権利なんか無いんだと思いこんでいた。しかも当主という立場では、涙など誰にも見せてはいけないのだ。しかし陽月はその時大切な人の前で泣いてしまったのだ。だから、必死に涙を拭っていた。

 そんな自分の姿を目の前の“それ”に重ねて思い出した。その言葉を言われてとても、嬉しかったことを。

 ただそれだけを思い出したのだ。それだけなのだ。

「……たくさん、泣いたらいい。その後にたくさん、笑ったらいい」

 自分が誰かに慰めの言葉を掛けてあげる理由などではなかったのだ。なのに、何故かつい、そう口にしていた。言われて嬉しかったことを、他の誰かに言っていた。

 そうやって、陽月は陽月の大切な人のことを証明しようとしていたのかもしれない。

「……今はただ、泣くといい。心がきっと、楽になる」

 そう言われた“それ”は泣き続けた。

 その間、陽月は“それ”の背中をずっと擦っていた。

 とても小さな背中は大きく震えていた。

 

 暫くすると“それ”は泣きやんだ様子であった。

 二人とも、目の周りが真っ赤で、それに気づいた二人は少しだけ微笑む。

 一面に広がる銀世界は、音がなくて、この世界には二人以外どこにも人がいないような感じがした。

 二人だけの世界、二人だけの時間。

 出会ったばかりだが、空っぽという共通項があった。

「……」

 陽月は“それ”をこれからどうしようかと、少し考えると“それ”に問うた。

「……母親は」

 と。

 わかってはいたが、一応聞いてみることにした。

 すると案の定“それ”は後ろに転がるものに指をさした。

 そうして首を横に振った。

 揺れる髪から鈴の音が鳴りそうだった。

「……そうか」

 アイスクリスタルの瞳がまた潤み始めている。

「……同じだな」

 涙を止めたくて、いや、それよりも悲しみを止めたくて。

 少しだって話したくはない自分の話を、ほんのちょっとだけ挟んで共感を示した。

 すると白銀の青混じりの瞳が反応した。

「……あなたも?」

 と、少し子供っぽい話し方で問われた。

 そう問うた時の“それ”は、今まで陽月の瞳の周りが赤いのは寒さのせいだと思っていたのか、泣いていたせいだと気づいた様子で、少しだけ、手を伸ばした。陽月の目元へと。

 その手は細くて小さくて冷たかったが、不思議と温かかった。

 陽月はその手を捕まえると悲しそうに微笑みながら

「……母親ではないが……私は大切な人を……失くしたんだ」

 同じだけの苦しみを持っているとは思わないが、お互いに心にポッカリと穴が空いてしまっているのは同じだから。言おうと思ったのかもしれない。

「……大切な、人」

 白い息を吐きながら、小さく震える“それ”はそう呟いた。そう呟くと、その瞳を閉じて、穏やかな顔で崩れ落ちた。

 長い間雪の中裸足で泣いていたせいだ。

 その赤みを帯びた顔に触れるととても熱かった。

「……まずいな」

 陽月は緊張の色を帯びる声色でそう呟くと、両手で“それ”を抱き上げて、足早に歩き出した。

 “その子”の穏やかなその表情は、いつかの陽月の大切な人の表情に似ていた。

 助けなきゃ。

 雪の中、早歩き程度だったのがどんどん歩幅が広くなって、走り出してゆく。

 

 

 きっとあのまま消えてゆく運命だった。

 そんな運命をたまたま陽月は抱きかかえて大事に育てた。

 神様はまだきっと気づかない。その取りこぼした命に。

 どうかお願いだから気づかないでくださいと。陽月は“その子”が眠っている間に必死に祈り続けた。

 真っ白な雪は二人を神様から隠した。

 そんな不確かな存在にもしも名前をつけるなら、

「……朔?」

 きっと母親が生前の朔に付けたであろうネックレスに刻まれていた名前。

 それは“その子”の名前を表すとともに、陽月と“その子”の関係を象徴した。

 

 

「……陽月様?」

 朔を拾ってから一年が経った。

 この子はとても穏やかで優しい子へと成長している。そして中々いたずら好きの自由な子になった。

「……ん」

 疲れて仮眠していた陽月のことを起こすと、嬉しそうに笑いながら

「髪の毛、邪魔そうだったので可愛く結んでおきました」

 と言うととっとと陽月の部屋から出ていってしまった。

「……?」

 陽月は寝ぼけ眼を擦りながら鏡を見てみた。

 その3秒後には泉宮邸に陽月の声が響きわたった。

「朔!!」

 なんとも変な髪型になっていたのだ。

 もはや芸術の粋なのではないかと疑ってしまうようだった。

 後世に残るそんな作品を創り上げた朔はもうとっくに何処かへと逃げてしまったようだ。

 この作品を後世に残してたまるか、と陽月は朔がいるであろう場所を探し始める。

 きっと朔も陽月も楽しかった。

 こんな時間が何時までも続くんだと思っていたのだ。

 

 ***

「……」

 そんな5、6年程前のことを陽月は思い出していた。

 その膝にはまだ幼さの残る朔の寝顔があった。

 『僕はずっと、幸せなんです』

 そう言った後朔はふっと人が変わったようにいつもの冷たい瞳になって、陽月の事をちらりと見てから出会った日のように倒れて眠ってしまった。

 そうして今に至る。

 時計を見ると、もう帰らなければ明日の仕事や今日中に片付けなければいけない仕事に支障が出てしまうような時間が迫っていた。彩葉の起こった顔が容易に想像できてしまった。

「……じゃあ、そろそろ」

 と陽月が切り出すと、零士は思い出したような顔をしてから、低めの声で陽月に

「北の小鳥遊に気を付けて」

 とだけ耳打ちをした。

 そしてすぐに笑顔に戻ると声色も明るくなって

「じゃあ、途中まで送るよ」

 と名残惜しそうに言った。

 陽月は珍しく素直に分かった、と頷く。そして陽月が椅子から立ち上がると渚がドアを開く。

「朔……は、」

 どうしようか。起こしたらなんだか可哀想に思えてきた。すると渚が朔の元へ行き、軽々と抱きかかえた。

「行きましょう」

 と渚はそう言った。

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