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お茶会

 それを口へ運び、含むと、芳醇な茶葉の香りが鼻腔を通ってゆく。温かさが口から喉へとゆっくりと通っていった。

 仄かに焼き菓子の甘い香りが鼻をくすぐり、満たされた心がゆっくりとため息をつく。

「……はぁ……」

 息一つでその者が満たされたという事が手に取るように分かる。

 ここら一帯はまだ温かい方だが、泉宮家周辺はもう空気が冷たくなり始めていた。夜は特に冷え込みが強くなり、朔はいつも手を赤くしながら帰ってくる。

 まだ木々の葉は全ては落ちていないものの、落ち始めていたり、もう金木犀の香りが広がっていた。

 そんな冷たい朝から遥々車で数時間かけてやって来たのだ、ここらが少し暖かいとは言っても思うのは泉宮本邸での時間だ。

 冷たい朝から目を覚まし、体を無理やり起こして忙しなく準備をして、メイド長に急かされながら急いで食べた朝食は最後の一口しか味がしなかった。

 よって、こうしてゆっくりと時間の流れをお茶の温かさや、並べられたお菓子の減り具合で感じ取るというのは久々に心が満たされるようだと、陽月は感じて息を吐いた。

「そんなに気に入ってもらえた?」

 嬉しそうにそう聞くのは皇 零士であった。

 何度見ても神秘的なその顔立ちや仕草は、お茶会の道具の準備などをしていた間に着替えた紺のスーツによってさらに映える。

「……まぁ」

 しかし陽月は零士のことを見飽きたからなのか、動揺せず、また苦手意識からか、素直においしいと言う事ができずに少し上から曖昧な返事をした。

 だが零士は全く気にすることなく満足気に微笑ってから話を切り替える。

「それにしても、陽月ちゃんが元気になっててよかったよ。新聞とか雑誌でその活躍ぶりは見ているんだけれどね?」

 と心から嬉しそうにそう言う。

 きっと零士は素直なのだ。だが包み隠さずに物を言う事が常に良いこととは限らないし、やりたいと思ったことを後先考えずにやってしまう事はネガティブな事として捉えられることが多い。だからきっと表舞台での零士ではなく、こうして自然体である零士と接した者は彼を誤解してしまうことが多いのだ。

 しかしそんな彼の彼らしさは陽月が一番見てきたため分かっている。だから彼女は零士が悪い人間ではないと頭では理解していた。ただ、幼少の頃のいたずらなどが彼らの関係を少しだけ腐れさせているだけで。

「あぁ……その節はどうも」

 屈託なく微笑う零士に対して陽月はまた素直になれずに、可愛げなくそう言い放つ。

 しかし陽月は本当に“その節”に対しては、零士にとても感謝していた。

 その言葉を聞くと零士は微笑みながら頷き、その視線をゆっくりと陽月から朔へと移した。

 アースアイが捉えるのは芸術作品のような美しい人間。中性的で、顔立ちや仕草は少しだけ幼さを感じさせるが、その瞳は温度がなく冷たい。

 視線を感じた朔は飲みかけの紅茶のティーカップを置きアイスクリスタルの瞳で零士を見つめ返す。

 すると零士は

「……ねぇ、君が朔?」

 と優しく朔に問うた。

 その質問に朔は少し間をおいてから陽月に目線をやった。陽月からの指示を仰いでいるようだ。

「……」

 陽月が朔の視線に対し小さく頷くと、朔は零士の色彩豊かな瞳を見つめながら

「はい」

 とだけ無機質な声で答える。

 すると零士は反応があったことが嬉しかったのか嬉しそうに瞳を細めると、陽月に向かって

「ねぇ、陽月ちゃん、朔借りていいかな?」

 と陽月にいたずらをして喜ぶ時と同じような声色でそう言ったのだった。

 陽月はもちろん怪訝な顔をして、零士が何かを企んでいるのではないかと見るからに疑っている。

「……何をするんだ?」

 アメジストの瞳は警戒の色を隠そうとはしない。

 すると零士は苦笑いをしながら、両手を挙げて自身の無実を訴える。

「別に取って食おうとしてる訳じゃないよ……危ない仕事をさせるとかじゃなくてさ、普通に、今、朔と話がしてみたいんだ……。暫く特定の護衛を持とうとしなかった陽月ちゃんが、護衛を選んだと思ったらそれが、強くて綺麗だって噂なんだから、誰だって気になるよ」

 それを聞くと陽月は一瞬だけ瞳を暗くさせる。

 その後、暫く何かを考える様子で、紅茶を一口飲み込んだ。

「……朔は、いいのか?」

 陽月は決めかねて本人の意志を尊重することにした。

 すると朔は二人の事を一度ゆっくりと見つめてから

「はい」

 とだけ言うと頷いた。

 

 ***

 広々とした部屋には大きなベッドが置かれていて、その様子はできたてのパンのようにふかふかして寝心地はさぞかし良さそうだ。窓は上の方に三つ、ブラインド付きだ。

 あとは、テーブルに、椅子が二つ。その近くにピアノが存在感を放ちながら置かれていた。

 部屋の色は全体的に白、金、青といった派手すぎず、しかし上品な色で纏まっていた。

 朔がそんな部屋を見回していると

「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」

 そう零士が優しく朔に言った。

 ここは零士の部屋だ。

 あのお茶会のあと、渚と陽月、そして他の護衛の者や召使いたちは先程の部屋に残して今は零士と朔が二人で零士の部屋にいる。

「いえ、そういうわけではないです……」

 丸型のさほど大きくはないテーブルに珈琲が二人分用意されており、椅子に二人が座ると距離が近く感じられるため、好奇心旺盛な零士の瞳による一種の圧力のようなものをより一層感じさせる。

「そっか……でも安心してよ、本当に朔と話がしたいだけなんだ、興味があるだけなんだよ。

 ……それで早速だけど、朔は陽月ちゃんといつ出会ったのかな?」

 自然に話に持っていく気はあまり感じられず、どこか焦っているようだ。なぜなら零士が聞いたその質問はきっと一番零士が気になっていることだから。

 陽月と零士はもう何年も会っていなかったが⸺ただ家としては商売や情報交換などで関わりは依然として深いままであるが⸺その間に陽月が朔を護衛にしたのだろう、だから零士は初めて見る朔が陽月の隣にいることに異質さを感じていた。

(だってそこにいたのは……そこにいるべきだったのは……)

 中々特定の護衛をつけなかった陽月がここ二、三年の間に認めた護衛。今日まで実際に零士が会うことができなかったため情報を集めたが、その護衛についての情報はとても少なかった。

 始めは零士の交友関係に詳しい召使いがふと口にした一言。

『そういえば、零士様と親しかったあの陽月様が今度新しい護衛を付けるそうですよ……なんでも、その護衛はとても強くて美しいのだとか』

 気にしないでいることなんてできなかった。

 焦りを感じていなかったと言えば嘘になる。

 その後零士は朔という人物について様々なルートから情報をかき集めた。

 しかし、あまりにも情報が少なかった。

 朔という人物は美しく、時に狂っていて、時に脆く、時に冷たい。そしてあまりにも強い。そんなバラバラな情報ばかりが集まってしまう。

 しかもどうやらその強さは零士が知っている人間の中で当てはまる者が一人しかいないほどということだ。

 そんな朔という人間に零士は嫉妬をした。羨ましかったし、悔しかった。しかし零士はそれでも陽月の元に自分から行こうとは思えなかった。だから今日、今、この時間にようやく出会った朔にとにかくしたい質問がたくさんあった。

「……それは」

 朔は最初にしてはやや攻めた質問に動じることなく話し始めた。

「……私が10歳くらいの頃に陽月様に拾ってもらったのです。」

 アイスクリスタルの瞳は記憶を追う様子で、少しだけ穏やかで、優しい。

「貧困街で人並みの生活もできていなかった私を、冬の、雪の日に拾ってくださいました。ちょうど母が亡くなって、立ち尽くしていた時でした。」

 

 ***

『……お母さん……?』

 沢山泣いて、沢山悲しんで、沢山抱きしめた。

 唯一の家族。

 もう動かないから、冷たいから、これから如何しようかと途方に暮れていた。

 真っ白な雪の中、雪が綺麗だなんて思えなかった。

 子供一人でこんな寒い中、真っ白な世界の中に居るのがとても心寂しかった。

 きっと、あのまま死んでゆく運命さだめだった。命だった。

 

 でも、同じように悲しい色が独り、真っ白なキャンバスのような世界を歩いていた。

 

 その色はアイスクリスタルを見ると暫く固まって、アメジストを揺らした。

 二人はお互いにお互いの視界に入っていることを自覚しながら見つめ合った。

 すると陽月が口を開いた。

 

『……母親は……』

 そう朔は問われた。首を横に振る。

『……そうか……同じだな』

『あなたも、母親を?』

 拙い言葉でそう聞いた。

 

 するとアイスクリスタルは気づいた。

 

 アメジストの瞳の周りが赤く腫れていた。

 

『……いいや、でも、大切な人だ』

 

 それが、出会いだった。

 

 ***

「陽月様は右も左もわからないような、人間以下の私に様々なことを教えてくださいました。感情的で、すぐに泣くような奴だったんです。でも、世界が広がるたびに、少しずつ私の心は軽くなって、救われていった。それが、陽月様との出会いと、私とあの方との関係です」

 出会いだけを聞いたのだが、後々聞かれるだろうと空気を読んで端的に二つの要点を説明した。

 零士はそれを聞いて嬉しそうに微笑った。

「……陽月ちゃんはやっぱり、かっこいいな」

 そう呟くと朔は食い気味にはい、と返事をする。

 そんな朔に笑いながら零士は珈琲を一口飲んだ。

 カップの持ち手の造形がとても繊細で、ソーサーに描かれている金のバラも上品で美しい。

 カチャリ、と零士はカップを置くと、少し落ち着いた声色で

「……じゃあ、次の質問。朔は、どうして陽月ちゃんの脅威の排除に協力しようとしたのかな」

 と聞いた。

 アースアイはどこか奥底で冷たい温度を持っていた。その質問に対し朔は一瞬だけ固まった。

 すると朔のその一瞬の隙を突いて零士は懐から取り出したナイフを朔に突きつけた。

 瞬間、朔の瞳の色は仄かに赤く染まった。

「……は」

 あまりにも速く、何よりも静かな動きは美しい。

 訪れた静寂の後に零士の声が漏れる。

「……っ」

 なぜなら、零士が朔にナイフを突きつけた瞬間か直前には零士の手は痺れて感覚を失っていたからだ。

 カラン、とナイフを落としてしまう。

 朔がすぐに立ち上がって零士の腕を蹴りつけたのだ。

「いっ……た」

 零士は痛みに顔を歪ませる。

「……こんなんじゃあ指の一本も触れられない」

 朔は瞳を不気味に輝かせてそう言うと別人のように怪しげに笑った。

 すると追い打ちをかけるように朔は零士の落としたナイフを拾い上げて零士の白い首筋に当てた。

 冷たい感触が死を直感させる。

 朔はそのナイフをゆっくりとそのまま押し付ける。

 白い零士の首筋から線の様に血が滲みだす。

 誰もが恐怖に陥ってしまうような、そんな状況の中、零士はその瞳の色彩を強めて

「……俺が質問したかったのは、君のソレのことなんだ」

 と、ナイフを首に押し当てられながらも怖気づくことなく朔の怪しく光る瞳を見て言い放った。

 

 ***

 一方その頃、別の部屋で待機させられていた陽月と渚はポツリポツリと少しずつ話をしているようだった。しかし今、話がまた途切れてしまっているようだ。

「……」

 陽月はルビーのネックレスを何となく弄っていた。

「……」

 渚は時々首の辺りを触って静寂を紛らわせようとしているようだった。

 しかし、キラリと陽月のネックレスが光に反射すると、陽月はネックレスから視線を外して渚に問う。

「……渚は、私の事が憎いだろう?」

 静寂を断ち切った言葉はよりにもよって核心に迫るような質問。その口元は嘲笑っているでもなく怒りの色もなく、責めるようでもなく、ただ、心配しているようだった。

「……」

 もちろん渚は瞳を大きく揺らす。

 黒い髪が映えるような白い首をさすりながら紅い瞳はアメジストの瞳を見ることができない様子だ。

 暫くしてようやく言葉を詰まらせながら言い放つ。

「……そんな事はないです」

 その声はいつもよりもトーンが低くて少しだけ悲しそうであった。言い放った本人は俯いている。

「嘘だ」

 そんな回答に陽月はすぐにそう否定して返した。

 アメジストの瞳は微動打にしない、だから渚は俯いてしまうのだ。その視線から逃げるように渚はスピネルの瞳をぎゅっと瞑った。瞑った瞳の端に水滴が滲んだ。

 瞼の裏に映るのは、艶やかな黒髪の女性。

 その表情はあまりにも穏やかで、優しくて、胸が苦しくなった。

 もうきっと、話せない人、触れない人、届かぬところに行ってしまった人。

 ああ、自分の弱さが情けない、と、渚は思った。

 瞳を開く。

 その顔はもう諦めていて、自嘲しているように嘲笑わらった。 

 すると陽月は渚のことを眩しそうに見つめながら唐突に言い放つ。

「……渚も、背が高くなった」

 渚はそれを聞くと案の定首を傾げた。

「……朔も、大きくなったんだ」

 陽月はどこか違う所を見つめながら悲しそうに寂しそうに言い放つ。

「……でも私は、いつもだめで、なんにもうまくいかないな」

 きっと紅茶のせいだ。陽月は思った。

 紅茶のあの芳醇な香りが心を緩ませるからだ。リラックスしてしまってついつい、言うつもりのない事まで言ってしまう。

 きっとそれは、陽月が忙殺されてしまって自分を振り返ることができなくなってしまっているから。今こうしてゆっくりと何もない時間の中を漂う感覚がとても淡くて、優しくて緩やかで、陽月の心は少しだけ素直になりつつあるようだ。

「……もし、もしもさ、泉水がいたら……」

 抱くのは淡い期待。その“泉水”という人物が陽月とどんな関係なのかは定かではないが、陽月の心はその人物と過ごした日々へと溶け込んでゆく。眩しい記憶が優しく彼女の胸を締め付けながら、まどろみの中へ連れて行こうとする。

 しかし、

「いるわけないじゃないですか」

 怒りなのか、悲しみなのか、震える声で渚はそう言い放った。声のわりにその表情は穏やかだった。心を押し殺そうとしている風だ。しかし告げるのは残酷な真実、陽月が何度も告げられた言葉。

「っ……」

 嗚呼、知っているよ。そんな風に否定することないじゃないか。

 陽月はそれを聞くと震える指先でネックレスに触れた。そのルビーのスベスベとした、装飾のゴツゴツとした感触に安堵すると、瞼を伏せながら唇を噛んでいた。

 渚は表情一つ変えなかった。先程までの陽月の顔色をうかがう様子とは打って変わって、妙に穏やかな顔で陽月を見ているようだった。いや、陽月を見て誰かの面影を見ようとしているようだった。

(……嗚呼、私だって分かっている)

(……俺がこんなことを言ってもきっと)

 誰かの影を追いかける様は少し似ているようだった。でも、二人共もう諦めかけている風だ。諦めていて当然のことなのか、まだもしかしたらその影に触れることができるかもしれない事なのかは定かではないが、もう、瞼の裏や夢の中でしかその影を追おうとしない様子からは諦めの色が見て取れる。

 二人は何となく胸の辺りに手を当てる。

 心臓に近くて、温かくて、でも求めている人物とは最も遠いところ。

((それでも、きっと変わらないんだ))

 きっとおんなじ傷を負っている。おんなじ人を探している。おんなじ痛みを、苦しみを、後悔を。

 だから、どちらかが歩み寄らなければその傷は風が直に当たるばかりで、痛いだけだ。

 そう思ったから、陽月は口を開こうと渚の方に視線をやった。だが、目に映る渚も陽月の方に視線をやって口を開こうとしていた。

「「……っ」」

 嗚呼、なんて言おうか。こういう時に最適な言葉を彼らは知らない。例えばそれがありふれた簡単な言葉であっても。

 暫くお互い目を離さずに、何から話すか考えていたが、しかし、

 ガチャ、キィ

 と部屋の扉が重々しく年季の入った音を立てながら開く音がした。

「「っ!?」」

 二人は驚いた様子で扉の方を注視した。

 ドアノブに掛かる白い手は零士のもの。開きかけたドアから見える彼は、足元に視線をやっていて、表情は何となく微笑んでいるような、中途半端な、意思を感じられないものであった。

 しかしドアが開き切って、零士が部屋に入ると彼は気が付いたようにその視線を二人へ向けながらアースアイに意識を乗せた。

「やぁ、お待たせした……ね?」

 と、少し驚いたよう数回瞬きをしながらに二人を見つめる。

 彼の目に映ったのは急に扉が開いて驚いた顔をしている陽月と渚だ。まさかこのタイミングで入ってくると思っていなかった二人は、互いに集中し過ぎていて扉が開いたことにひどく驚いた様子であった。

 陽月は持っている珈琲カップをビクッと動かしてしまい珈琲が少し白いテーブルクロスにこぼれてシミになっていた。渚も渚で急に部屋に入ってきた事に対して身構えようと絶妙な、中途半端な体勢をしている。

 零士がドアを開けたことで張り詰めた空気が何となく和らいだような気がした。

 すると案の定ドアを開けた零士は、

「……ふふっ……あははっ……二人とも……っ変な顔〜」

 と子供じみた様子でからからと笑い出した。

 それを聞いて二人は互いに顔を見合わせて少し情けなさそうに恥ずかしそうに頬を赤く染める。だが次第に、頬が緩んで彼らの表情は明るみを帯びはじめた。

「……ふっ」

「……っはは」

 するとそこで零士の陰から朔が静かに部屋に入ってきた。

「……朔」

 陽月は朔に気づくと彼を不安そうに見つめてから零士の方を見た。まるで、朔に何かしていないだろうなと問うような鋭い視線を零士に向けている。

 零士はその視線に気づくと苦笑いをして首を振り、少し前に立っている朔の背中を優しく押した。そんな零士の首筋には少しだけ血が滲んでいた。

「さあ、行ってきなよ」

 と、小さな声で零士は朔に囁いた。

 朔は「はい」と小さく答えると陽月の元に駆け寄る。

「え……?」

 陽月目掛けて駆け寄ってくる朔に対して陽月は戸惑ったように声を漏らす。なぜ歩かずに駆けてこちらに来るのか、なぜいつもよりも柔らかい表情で陽月のことを見つめるのか、そしてなぜ、

「……陽月様。不安にさせてごめんなさい」

 大切そうに陽月にハグをして謝るのか。

「……へ?」

 陽月は情けない声を漏らす。しかし考えられることは零士が朔に何かを吹き込んだということしかなかった。しかし零士の方を見ても零士はいつものようには笑ってはいない。優しく微笑むだけであった。

「……な……さ、朔?」

 陽月は何となく恥ずかしくなってきたようで、少しだけ耳を赤く染めている。

 伝わるのは朔の体温と、大切そうに優しく背中に置かれたその手の冷たさ。

 陽月が困惑して助けを求めようと周りを見回し始めていると、朔は手を離して、座っている陽月と視線を合わせるためにしゃがんだ。そして、陽月と目を合わせる。そのアイスクリスタルの瞳には陽月にとっては珍しく温度があった。

「陽月様、あの日、あなたに拾われて、僕は幸せなんです。だから陽月様が不安になる必要はないんです。……それだけは、覚えていてほしいんです、信じてほしいです」

 いつもよりも声色が温かくて何となく幼くて、陽月は出会った頃の朔のことを思い出した。

 私が何か朔に不安があると感じさせてしまっただろうかと、陽月はそこに不安を感じた。

 しかしそんな陽月の様子に気がついたのか朔は口を開く、

「……零士様に『陽月ちゃんを不安にさせるなよ』と言われてしまって、それで、考えてみたんです。でも“どうしようもないこと”だったから、あなたを不安にさせる原因は消えることはないと思うから、“今のうちに”あなたに、伝えておこうと思って。

 だから、僕はずっと幸せなんです。陽月様、あの日から、ありがとうございます」

 と言うと、朔は優しく微笑んだ。

「……」

 陽月は息を呑んだ。

 ああ、私だけが特別そう見えるのかもしれないけれど、と。

 まるで天使のようだと。

 この笑顔は陽月を“あの日”へと誘う。

 まだ二人の心が通っていたあの日へと、陽月の心は遡ってゆく。

 あの日は、そう、真っ白な雪の降る日だった。

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