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あの人は死んでよかったのか

 明け方の空、降り注ぐ眩しい朝日の光に街中が照らされる。時計塔の鐘、建物の壁や屋根、レンガ造りの道、郵便配達のバイクのハンドルは一際煌めき、牛乳配達の自転車は牛乳瓶による水滴だろうか、きらりと前篭の一部が光った。

 朝が早いと言えばパン屋だろう。パンが焼ける香ばしい香りが街中に広がると、それは人々に朝を告げた。どこからともなく鳥が鳴き、早起きが得意な者は早々に朝の散歩といったところだろうか。噴水のある広場のベンチの上で、開いたばかりのパン屋で買ったパンを小さく千切って小鳥にやる者や、長旅だろうか、始発に乗ろうと大きなバックと共に駅に向かう人、健康志向のジョギングをする夫婦、そしてそんな街中に溶け込むような音を奏でるヴァイオリニストの卵。

 早朝を有意義に過ごせる者にしか分かることのない穏やかな世界が広がってゆく。あぁ、今日も一日が始まったと、新たな人生が始まったと新鮮な気持ちで冷えている空気を肺いっぱいに吸い込むときっと、何処から何処を通って空気が体中を流れてゆくのかが分かってすっきりするだろう。

 しかし、残念ながら何処の家もそうとはいかない。寝坊した人のこと?いいや、違う。

 大切な人が亡くなってしまった者のことだ。

「……っ……ぅ……」

 とある洋館も他の建物と同じように朝日のきらきらとした光を浴びて高潔さを纏っていた。しかしながら、この街の澄んだ空気の中で1人の苦しそうな嗚咽が零れた。

 その瞳の色は、涙で濡れてしまっているが紫苑色。目の周りは腫れていて、その手には瞳の同じ色のハンカチが強く握られていた。

 泣いていたのは、紫翠 紫苑であった。紫翠家の次男で、その年は15歳。彼が竜胆と出会ったのは、5年前。物心ついてからずっと一緒に居たのだから情くらい湧くだろう。いいや、きっと情程度では無かっただろう、絆だ。強い絆で彼らは結ばれていただろう。紫苑色のハンカチがそれを証明しているし、竜胆の死に顔がそれを証明しているし、何よりも、紫苑の涙がそれを証明している。

 紫苑の持つネイビーの髪が微かに揺れて、彼の肩は震えている。もう冷たくなった彼の一番の理解者の片手を、温かい両手でハンカチと共に握ると、切ない声色で穏やかな表情の竜胆に訴えた。

「……なんで……なんで……なんで……なんでなんでなんでなんでっ……! ……置いて行くなよ……っ………何でこんなに……冷たくなって……っ……ぅ……」

 掠れた声で、そう言った。

 冷たい手を温めようともっと強く握るが、竜胆の手は硬くて冷たいまま、時は止まったまま。

 心地よい朝には不釣り合いな血塗れの館の、綺麗な部屋で、血も流さずに眠る竜胆を見れば、紫苑はもう一度竜胆が起きるのではないかと淡い期待を抱いてしまう。何かのいたずらであってほしいと、どれほど思ったのだろうか。

 紫苑に付いて来た護衛たちはそんな彼の様子に息を呑むしかできなかった。確かにそこにある絆に口出しなんてできない、それを壊すことなんて誰もできない。

「……早く……起きてよ……いつもみたいに叱ってほしい……褒めてほしい……笑ってほしい…それだけの願いが……っ……何でこんなに難しい……?」

 穏やかな顔の竜胆に、いつものように問いかける。

 当たり前のように一緒に笑って悲しんで、時々喧嘩して、悩んで。そんな当たり前が今では宝物のように熱く心を焼くのだ、無性に大切にしたくなるのだ。

「……休暇……って……言ってただろ……? 何でそんなに……っ……優しい顔で眠ってるんだよ……ぉ……起きてよ……っ」

 少しの休暇、いつもとは違って少しだけ寂しい一日だった昨日は、すぐに会えると思っていた。でももう会うことはできても、話すことも守ってもらう事もできない。

 紫苑はずっと泣いていた。今までに無いくらい、きっと竜胆も知らないほど酷く泣いていた。

 そんな紫苑の嘆く声が、朔の耳に届いた。

 ような気がした。

 朔はゆっくりと重い瞼を開いた。

「……」

 アイスブルーの瞳が、まだ少しだけ充血している。眩しすぎる朝日に顔をしかめて、訪れてしまった朝に絶望した。朔が今日迎えた朝は、どうやら誰かが切望していた朝らしい。そんな言葉を朔はどこかで聞いた気がした。だったらあげたいな、と朔は切望する。

 その誰かが切望していた朝は、朔が絶望していた朝だから。朔があの人から奪ってしまった朝だから。

「眠れない……」

 枯れた声でそう言うと、よろよろとベッドから降りて、水と共に救いを飲み込んだ。

「足りない……」

 まだ渇いている様子で、何度も何度も彼は飲み込んだ。

 朔はよく水を飲む。中毒になるほど飲んでいるわけではないが、意識して飲んでいるようだ。何故そんなに水を飲みたがるのか彼自身も分かっていない。ただ一つ、手掛かりがあるとすれば、誰かが朔に言ったのかもしれないということだけだった。

 “水は大事だよ、喉が渇くっていうのは大切なことなんだよ”

 誰かがそういった気がするのだ。声も、瞳の色も何もかも忘れてしまったけれど、どこかの誰かが朔に言ったこと。そもそも言われたのかも怪しいけれど。

 でも、体は覚えていた。水を飲むことに体が反応している。飲みたいと、体が訴える。

「……っ」

 しかし、目覚めて直ぐに多めの水を飲み込むとなると、求めていたはずの体も少しばかり拒絶をするようで、一瞬嘔吐いた。

 そうしていると、ドアをノックする音が部屋に響いた。ノックした者は何も言うことなく躊躇なくドアノブを回してドアを開く。

 朔が視線をそこに寄せていると、出てきたのは濡れタオルを持ってきた白くて黒い、渚だった。

「朔、入るよ」

 その足は既に部屋の床を踏んでいたが渚はそう言うと、起きている朔に気づいて少し驚いた様子で、

「朔……起きたの?」

 と言った。

 心配そうに優しく眉を下げ、朔の様子を確認しだした。熱はないか、怪我の具合はどうか、他に痛みはないか、どこか不調はないか。

「……よかった、朔が無事で」

 安堵と共に放たれた渚のこの一言は朔の心臓を貫いた。朔は一瞬息を吸うのを止めた。

「……」

 その瞳がゆらゆらと揺れ始める。光は取り込まない。そこには何も無い。青みがかっていて、冷たくて、絶対零度な瞳。唇が震えて、肩も、小刻みに揺れる。

 渚は朔の様子を不審に思い、

「……朔……? 寒い……?」

 と不安そうに語りかける。

 すると、震えながらどこか違うところを見つめる朔は小さく首を横に振った。

「……」

 震えでカチカチと歯が当たる音がする。

 少しだけ固まった後、急に渚の方を見つめる朔は顔を歪ませて下唇を噛み締めながら、何かが詰まったような声でゆっくりと言葉を吐き出した。

「……ちが、くて……

 僕……は、無事……じゃ、ぁ……駄目で……」

 目が燃えるように熱くなったと思うと同時に涙が零れ落ちた。喉元に力を込め過ぎて痛い。視界がぼやけてしまって、見えるのは記憶に焼き付いた竜胆の穏やかな表情。

「……優しい、顔……僕、は……できない、っ……

 ……あの……人は……死んじゃって……良かったの……?」

 愚問だった。

 死んでいい人間などいないのに、誰かが誰かのかけがえのない存在なのに、朔は初めて疑問に思ったように渚に問う。

「き、のうの……渚、の言葉……

 ……考え……てた……」

 昨日の渚との会話で、自分の心が本当は、罪を自覚しているのではないかと、考えていたのだ。

『おんなじ、人殺しです』

 今まで思いもしなかったのだろうか。写真を見て、顔を覚えて、殺す。それだけの事に対して朔は何も思わなかったのだろうか。どうしてこの人を殺すのか、とか、殺していいのか、とか。機械的に無機質にただ淡々と仕事をこなすだけだったのだ。彼にとってこの仕事は食器洗いのように何も考えることなく淡々と遂行させるものであったのだ。

「……僕は……僕は……」

 しかし、今まで考えもしなかったのではなくて、考えないように無意識にしていたとするならば、今の彼の心は傷一つないガラスにヒビが入ってしまっている状態だと言えるだろう。このまま考え続ければいずれガラスに一つ、また一つとヒビが入ってガラスは粉々になる。しかし当然の報いだ。

「……こんなに……重い……罪を……重ねて……?」

 そんな朔を見ながら渚はただ涙を拭き続けることしかできなかった。だって予想もしていなかったから、殺すことに対して罪の意識一つ持とうとしない朔の倫理観を。気づかないなんてことがあるのだろうかと、驚きのあまり言葉も出ない様子であった。だって朔は心が無いわけではないし、道徳心が無いわけでもなさそうだったのだ。何故なら昨日確かに朔は苦しんでいた、朔の心は少なからず迷っていたのだから。

 しかしながら根本的にどこかが違ってしまったのかと渚は驚きを隠せないでいた。

「……朔……?」

 ようやく出した言葉もひどく震えていて少しだけ声が裏返った。

 朔は息を荒くしながら何かをブツブツと呟いて、ひたすら今までしてきたことを思い出していた。

「……何で……何で……殺しちゃった……の……? 僕が……僕……が……」

 すると突然、朔は体をビクッと震わせて固まった。

 渚は脳内が混乱したまま、朔から目を逸らせないでいた。

 朔は俯いたまま何も言わなくなった。震えも止まっていた。

「……」

 唐突に静まり返った部屋に少しだけ聞こえる外の音。時が止まったようだった。ここは外とは違う、だから無邪気な子供の声はここではあまりにも場違いだった。

「……」

 ずっと前から違和感があって、昨日渚と話して少しずつ考え始めていた。

 穏やかな竜胆の顔。

 最後まで大切な人のことを考えていた彼の声。

 それらすべてに胸を焼かれていた朔は、急に様子を変えて黙り込んでしまった。

 すると、

「……ぃ……」

 静かに朔は何かをつぶやいた。

「ぇ……何……?」

 渚は動揺しつつ聞き返す。

 すると朔は渚の方を見た。

 その瞳はとても冷静で、冷たくて、感情を押し殺していたようだった。

 目の前の朔がゆっくりと渚の事を瞳の中に捉える。朔の瞳に写った渚は、少しだけ怯えているようだった。

「……朔……? 朔……だよね……?」

 疑ってしまうほど、先程とは様子が明らかに違う朔は、

「何でもない……何でもないです」

 他人行儀に言葉を放った。

「ご心配をお掛けしました、もう大丈夫なので、出て行ってください。」

 その言葉に心は篭っていなかった。吸い込まれそうな瞳、何も無かった。そして、朔の放つ異様な雰囲気に渚は圧倒されたのか、黙って部屋から出て行ってしまった。 

 バタン

 ドアの閉じる音が異様に大きく聞こえた渚は、ドアを閉じた後に少しだけ慌てた様子でドアを見つめた。

「……」

 ドアの前でしゃがみこむ。

 両手で顔を覆って、長く小さくため息をついた。

「……」

 暫くそのまましゃがみこんでいた。廊下を通りすがる召使いたちが不思議そうにそんな渚に視線を寄せた。

 そんな事も気にしてられないくらい渚の心臓の音は、いやにうるさく彼の頭に響いていた。

 すると渚はようやく立ち上がって、苦しそうに息を吐くと、ゆっくりと一歩進んで歩き出した。

「……」

 静かに陽月の部屋まで歩いて行く。

 一際大きな扉の前で、脳内を整理しながらゆっくりと腕を伸ばした。

 コンコンとノックをした。

 ドアの向こう側から陽月の声が聞こえた。

「……渚です……今朝の報告をしに参りました」

 渚は至って冷静な様子でそう言い放った。

 

 *****

「……それで、竜胆の主人は?」

 陽月は他の仕事の書類に目を通しながら渚に昨晩から今朝の一連の出来事について聞いていた。

 今日は髪を一束に纏めて、白のシルクでできた襟無しのブラウスの上から淡い灰色の大きめなカーディガンを羽織り、ボトムスであるウエストの辺りがタイトな白のハイウエストジーンズにブラウスの裾を入れているという比較的カジュアルな格好をしていた。

 今日は何処へも出掛けないで篭りっきりなのだろう。出掛ける日は何となく気合が入っていたり、スーツだったりドレスやワンピースだったりするため、カジュアルな格好だと出掛けないのだと周りの者は判断するのだ。

「精神的負担が大きいと思われます。恐らく暫くは竜胆程の親しい護衛は付けないと思われますが、紫翠家の主人がそれを許すかどうかは、まだ……

 ですが今は紫苑への護衛や護りが厚くなっているようです。今朝の護衛の中に長男の護衛であった者が二人ほど見えましたから、暫くは長男の護衛が手薄になるのではないかと……」

 渚は報告書を出しながら大まかな説明をする。

 陽月は一旦他の書類は近くに置いて、渚からの書類に目を通し始めた。

「……ん〜……」

 陽月は何かを考えながら書類に目を通す。

 そんな陽月の様子を伺いつつ、渚は

「長男を始末するなら今でしょうか……?

 それとも、小鳥遊(たかなし)家や、(すめらぎ)家の方々に手を回してもらいますか……?」

 などと案を出してみる。

 しかし陽月は“皇家”と聞いた瞬間に苦虫を噛み潰したような顔をした。そんな様子を見て渚ははっとする。

「……渚……皇家は……」

「申し訳ございません……失念しておりました……」

 直ぐに謝罪を入れる。

 しかし陽月は何かを思い出したように一瞬瞳を大きく開いてから大きく肩を落とした。

「ぁ〜……明日だ……明日皇家に行くんだった……思い出したくなかったのに……」

 明日がテストであることを思い出してしまった子供のように、陽月は心底残念そうにため息をついた。

 渚は少々苦笑いをして話を戻そうとするが、陽月は悲しそうな声と渚に助けを求めるような瞳で

「明日……何とかなんないか……?」

 と聞く。彼女自身も分かっているだろうが、当然その答えは

「無理ですよ……」

 否だ。

「……」

 陽月は拗ねたように机の上に突っ伏した。

「……明日…隕石とか落ちないかな……」

 ぼそっと呟く。

 渚はそんな陽月に呆れた様子で

「縁起でもないことを言わないでください……」

 と言った。

 そんな渚の様子に気づいたのか陽月はちゃんと座り直してから弁明…というか言い訳を開始した。

「私が嫌ということではなくて、ただ……ほら、朔が少しだけ機嫌悪くしちゃうかなって…可哀想だろう?知らない所で、変な奴に絡まれそうになったりしてさ……」

 途中から渚の呆れの色をした瞳から目を逸らしつつ爪を弄りながらそんな事を言う。そんな陽月に渚は更に呆れつつ

「“変な奴”は失礼ですよ……

 それに、いいじゃないですか、泉宮家に良くしてくださっているんですから……」

 と何故か皇家のフォローに回った。

 陽月はそれにも納得のいかない様子であったが渚が無理やり

「そんな事より……如何するんですか? ……紫翠家のことは」

 と話を戻した。

 陽月は思い出したように、そうだったそうだったと言って再び考え始めた。

「ん〜……まだ早いな……」

 なんて言いながら書類や、今朝の新聞を眺める。

「ですが、もう今までに時間も結構かけてきましたし……そろそろ……」

 と渚は意見する。

 陽月はそんな渚の瞳を見つめて、怪訝な顔をした。

「……渚はさ……」

 少しだけ声のトーンが変わった。

 部屋の空気が引き締まる気がする。

 陽月の一挙手一投足に目が離せなくなる。これが家を支配する者の力であろうか。

「……殺して解決すると思う……?」

 至って簡単な問いを渚に投げかける。

 アメジストの瞳に星の様な光は無かった。

「……それは……解決……しないんですか……?」

 渚は少しだけ声を詰まらせてそう問うた。こんな問いが来る時点で、この問いの答えはノーに決まっている。

 しかし渚はてっきり、陽月はバレないようにゆっくりと護衛などの戦力を削って最後に一気に攻め込むのかと、それで紫翠家を落とすのかと思っていたのだ。だって泉宮家には朔と言う最終兵器のような人物がいるから。それに、こんなに時間をかけても、時間や金の無駄ではないかと思っていたのだ。

 更に、紫翠家は最近成り上がってきたばかりで、情報がまだ少ないため、何処かで取っ掛かりを見つけて関係を築いて潰してゆくことも難しいと思った。だから、少ない情報で確実に制圧できるように他の泉宮家に友好的な家に手を回してもらおうとした。

 しかし、陽月はそうでは無いと言う。

 それではあまりにも非効率的な道を選ぶことになってしまうではないかと、渚は動揺していた。

「……渚はさ……情報が少ない相手に対して確実に勝つ方法があると思う?」

 その瞳は何かに似ていた。

 渚は固まって首を傾げた。

「……相手は人間でさ、誰かの大切な人で、一気に攻め込んで落としたとして、(うち)がやったってバレたらさ、バレるだろうけど……バレたらさ、いつか復讐しに来るのは分かるよな?」

 渚は少し間をおいて頷く。

「……相手の規模がわかってる場合ならいいんだ、たとえこんな非人道的な手段で潰したとしても

 でも、紫翠家はなんだ? 規模がまるで謎だろう?

 いつから何処で大きくなって、どれくらいの人と繋がりがあるのかわからない」

 陽月は書類を机に置いて空いた片手で頬杖をつきながら渚のことを見つめる。

「竜胆の件に関しては、紫苑は恐らくこっちの犯行であると伝えられていないと思う、紫翠家主は気づいているだろうがな……

 もし紫苑にそう伝えたらきっと紫苑は復讐しに行くだろう? (うち)に」

 そうだ、確かにそうだと渚は思う。

 紫苑と竜胆の絆は計り知れない。竜胆の死をひどく嘆いていた、あの様子ではきっと竜胆を殺した人間のことを恨んでいるに違いない。

 しかし泉宮家に復讐するのはあまりにも無謀すぎる。紫苑と竜胆の二人だけの関係の話では。つまり、護衛などが例えば殺されたとしても、彼らは復讐しに来ないだろうが、紫翠家そのものや、血縁のあるものを殺せば復讐しに来る規模がぐんと大きくなるために、泉宮家は紫翠家を把握するまでは総攻撃を仕掛けられない。

「さて、じゃあここで問題

 紫翠家をすべて把握するのと、粘り強く取っ掛かりを見つけるのでは、どちらが早いでしょうか」

 陽月は冷たい声でそう言い放つと、立ち上がってドアの方に歩き出した。渚が突っ立っていると、陽月がドアの方から

「だから(うち)はこれからも周りだけを攻めて徐々に弱ってゆくのを待ち続ける

 次にやるのはもう少し先になる…それまでは相手の掃除屋からの対策を」

 と陽月はそう言って部屋から出て行った。

 その直後渚はようやく気づいた。

「あの瞳……」

 陽月の瞳は朔に似ているな、と思った。感情を押し殺している感じや、話す内容の無機質なこと。そんな瞳は冷たい温度を持たない朔の瞳と似ている気がした。

「……」

 渚は少しだけ間をおいてからドアノブに手を掛けた。

 苦しそうにゆっくりと息を吐く。そして彼も部屋から出て行った。

 バタン

 

 *****

 朔はいつものように窓から見える空をベッドの隅に座りながら眺めていた。至って変わった様子はなさそうだ。しかし、あいも変わらずその瞳は冷たいままだった。きっと指先も冷たいまま。そう、まるで昨晩のように。

 心が空っぽな気がした。まるで何も無かったように確かにそこにあった何かが零になった気がした。でも不思議と、心は穏やかだった。しかし穏やかなのは彼の表情だけで、その手の甲からは血が流れていた。その血のせいか、純白だったベッドのシーツは所々にべっとりと赤い血が滲みていて、朔とその周りの物の関係は歪に見えた。渚が手当をして、手の甲の傷に巻いた包帯は乱暴に外されていて、無理やり引っ張ったのか手の甲は血以外にも紐状の紫の痣ができていた。しかし朔は何事もなかったかのようにただぼーっと窓の外を羨ましそうに眺めるだけで、手の甲の痛みを気に留める様子はなかった。そんな惨状のベッドの上には空の瓶が一つ転がっていた。床には水が撒き散らされていて、何も無い同然だった部屋が滅茶苦茶になっている。

「……」

 朔は眠くなるまでずっと窓の外を見ていた。他のものには目も向けないで、広い広い空を四角で区切った青色を見ていた。

 時がゆっくりと進んでいる。

 心が静かになってゆくほど、彼の精神は蝕まれてゆく。それにすら気付けないのは、彼が彼を守ることに必死だから。弱い自分を守ろうと、自分で自分を救おうと必死だから。

 カーテンが僅かにゆっくりと揺れた。

 少し冷たい澄んだ風が微かに朔の髪を揺らした。

 静かになればなるほど、胸が冷たくなって、何も感じないように心に蓋をする。

「……おやすみなさい」

 朔は誰に言うでもなくそう呟くと、血塗れのひどい惨状のベッドの上で死んだように眠った。その姿はあまりにも歪な美しさを持っていた。

 

 *****

「紫苑様……守ってあげられなくて……ごめんなさい」

 穏やかな表情の彼は少しだけ悔しそうにそう言った。

「……なんで……なんでなんでなんでなんで……竜胆が殺されなくちゃいけないんだよ……」

 紫苑色の髪を持つ少年が腫れた目で苦しそうに息をする。

 これはなんだ。

 これは夢か、と朔は思う。

 どうしても消えなくなった記憶が何度も再生されて、その度に胸を焼けば、何故か消えたい衝動に駆られる前に自傷行為をしてしまうのだ。衝動や感情よりも先に気がつけばそうしてしまっているのだ。夢の中で自分を殺す夢を見た。そんな自分の顔が穏やかだったから、死んではいけないと感じた。こんな顔をしてはいけない、こんなに温かい気持ちになってはいけない、何処かで苦しみ続けなければいけないと、何故か感じた。

 嗚呼、暗闇にゆっくりと沈んでゆく。

 再度朔は認識する、これは夢だったと。

「……っ……」

 目を覚した。

 朔は苦しくて息を思い切り吸って起きた。

 うつ伏せで眠っていたのだ。

「……」

 ゆっくりと周りを確認した。窓から見える空は紺色で月が淡く輝いている。そしてここは自分の部屋だ、何も無くて静かな落ち着いた部屋。いいや、それではおかしいではないか。そうだ、眠る前にこの部屋は血塗れのベッドや水やらが撒き散らされていたのだ。なのに、どうしてこんなに綺麗なのだと朔は動揺しつつ耳鳴りを覚えた。急に起きたせいで目眩がした。

「……あれ……?」

 情けない声を出して首を傾げた。

 何となくぼーっとするのだ。寝起きのせいか頭が上手く働かない。ここ最近は毎日そうだ。酷い夢を見て起きると目眩がして、ぼーっとする。

 焦点が上手く合わない、それくらい精神的に弱っていたのだろうか。

「……うぅ……」

 頭に声が響いた。竜胆の声が。夢の延長線のように、穏やかな顔が脳裏に浮かんで、悔しそうな声で優しく話す竜胆の声が頭に響いた。

 朔はそのまま蹲り、暫くそれに耐えていた。

 すると、ドアの向こう側から人の気配を感じ取った。暫く後にノックの音が朔の部屋に響いた。

「……はい……」

 朔は朧な意識でそう返事をした。

 するとドアの向こうから

「朔……入るよ」

 と、渚の声が聞こえた。

 何故だか朔はその声にひどく安堵した。渚がドアをゆっくりと開いて静かに部屋に入って直ぐにドアを閉めた。

 朔の体調を気遣っているのだろうか。どうして体調が悪いと気づいたのかは分からないが。

「……朔……大丈夫……?」

 渚は頭に響かないような優しい静かな声で朔にそう囁いた。当の本人は渚の顔を見た途端にひどく安心した様子を見せた。そして頭を抑えていた手を離して、渚の方を向いてベッドに座り直した。

 もう頭痛や目眩は治まったようだった。

「……うん、大丈夫……」

 朔は、渚の目を見てそう言ってから暫く後に、どうして部屋が片付いているのかが気になり出した。

 そんな朔の様子を見て察した渚は優しく答える。

「朔のことがやっぱり心配でさっき部屋を見に来たら血塗れだったから色々片付けておいたよ……ほんと、びっくりしたよ……」

 渚は不安そうな顔で朔の顔色を伺いつつそう話した。そして朔が特に何も言わないまま、暫く沈黙が続くと、渚は少しだけ緊張した様子で話しかける。

「……朔……本当に大丈夫……? なんか……して欲しいことがあったら言ってくれないと……わからないよ?」

 朔はその言葉を聞いても、うん、と言うばかりでそれ以外は特に何も言わなかった。体調は良くなったようだがまだぼーっとしている様子だった。

 するとそんな朔が急に渚の目を見て問いかける。

「ねぇ……眠いから寝てもいいかな……」

 そう許可を得ようとする。渚は唐突なその問いに驚きつつも戸惑いながら

「いいけど……どうして俺に聞くの……?」

 と問いを返した。

 朔はまだ何処か違うところを見つめながら、瞳をゆっくりと開けたり閉じたりさせて、頭が船を漕ぎ始めた。

「……それ、は……眠れ……ない、から……」

 そう言うととうとう朔は倒れるように眠った。

 渚は朔の答えに対して頭に疑問符をうかべつつ、相変わらず朔のことが心配そうな顔で見つめてから、部屋を見渡した。

「……」

 その赤い瞳は直前までの優しげな心配そうな感情を灯さず、ただ光を拒絶していた。口元はこれと言って弧を描いているわけでもないため、彼の表情は、(ゼロ)になった感情を顕にしていた。

「……」

 そして暫くしてから朔の部屋を後にした。

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