一滴の変化
次の日の朝。
爽やかな風が優しくカーテンを揺らす。部屋に一つだけある窓から一番遠い場所に大きな白いベッドが置かれていた。
白い日差しが少しだけベッドの端にかかる。窓の外から子供の声や犬の鳴き声、鳥のさえずりが聞こえた。この部屋以外は至って普通の日常が流れているようだ。部屋のドアの外から足音や話し声が聞こえた。
しかしそんな中ベッドの上で窓側に背を向けて脚と腕を曲げ、丸まって眠る者がいた。
「朔、起きているか」
ドアの外側からノックと同時にそんな声が聞こえた。
ベッドの上で丸まって眠る朔は微動打にしない。
「……起きていないな……」
ドアの外から聞こえる声の主はアンティーク色のレバーハンドル型のドアノブにゆっくりと手を掛けた。
板チョコのようなブラウンのドアが年季の入った声を上げながら開く。
ドアの正面、向かい側に窓があり、朔の眠るベッドはドアから左手にあった。
声の主はゆっくりとベッドの方に歩み寄る。すると、
「……」
朔の白銀の睫毛が微かに揺れた。
彼は眉間に皺を寄せてから、ゆっくりと瞳を開いた。
アイスクリスタルの瞳は朝の光に紛れてしまう。彼の桃色がかった白銀の髪も、睫毛も、病的に白い肌も。
「……んぅ……?」
感情を灯さない瞳とは至って違って、寝ぼけた声を上げた。何度も瞬きをする。そしてゆっくり、のそりと起き上がった。
彼のニュートラルヘアは起き上がるときに光と反射しながらサラサラと揺れて、ウィンドチャイムのような音が鳴りそうだ。ありえない話だが。
中性的、と言うか“どちらでもない”と言うのが正確な描写であるように思える。
「……起きたか……朔、早く風呂に入りなさい」
声の主は起きたばかりの朔に呆れた様子でそう言った。しかしその声は朔の世界に色彩を与えた。
「……はい……陽月様……」
と朔は従順に頷いた。朔の姿は夜のまま変わらず、白いシャツは返り血がしっかりと染みになっていた。彼の睫毛も少しだけ赤みがかっているのがニ、三本見える。そのまま寝たせいで、白いベッドは少し赤く染まり、包まっていた厚めのグレーのブランケットも鮮血の色を暗く移し取っていた。
そして声の主は“泉宮陽月”といった。
彼女の姿は昨夜のスーツ姿とは打って変わって今はブルーブラックのワンピースに腰の辺りまで入った切れ込みから白いプリーツが覗き、切れ込み元には小さなリボンがあしらわれているような、しゃきっとしたスーツ姿とは少しばかりかけ離れた、ふわりとした格好をしている。
陽月の瞳はアーモンド型で、夜空のような紫と紺が混じった色で、光が照らすと夜空で星が光っているように見える。その瞳に少しだけ掛かる前髪は長めで、掻き上げられて緩やかに流れる。ブラウンで透明感のあるその髪はセミロングで、髪をかけた耳には銀のアンテナヘリックスピアスが付いている。もう片方の耳も同様になっていた。髪型や、目の色が、服をバランスよく着こなしている。
しかし話し方は見た目とは反して少しばかり堅いように思えた。
アメジストの夜景のような瞳は少しだけ切なそうに朔の事を捉える。
しかし朔はそんなことに気付くことはなく、おぼつかない足取りで部屋の外に出て行ってしまった。
「……」
陽月は朔が出て行った後の部屋を特に意味もなく見渡していた。
「……」
すると何かを見つけたのか、朔が居なくなったばかりの、まだ人並みの温もりを持つ血のついたブランケットを上からスタンプを押すように手を付けては離している。
そしてその手の動きが止まったかと思うと、ブランケットの中に手を入れて何かを取り出した。
「……」
それは片手で掴めるくらいの空のガラスの瓶だった。
陽月は銀色の蓋を回して開く。
開いた瓶を鼻に近づけて匂いを嗅いでいるようだ。
「……」
暫く考えた末に、首を傾げることしかできなかった。
「……まずいものじゃ無ければいいけど」
小さくそう呟いてから、瓶を持ったまま陽月も部屋から出て行くのだった。
*****
白い指が、冷たい指が、小さなワインレッドのルビーのピアスに触れる。特に意味もなくそれに触れている。
片方の瞳から透明が零れた。
頬には伝わらずに、そのままこぼれ落ちた。
朔は自分のそれに、また気づかないでいた。なぜなら彼の髪が濡れていたから。その水滴か何かだと思った。
タオルで髪を拭いている。その瞳は無機質だった。
髪を拭きながら彼は廊下を歩き、自分の部屋へ向かう。足取りはゆっくりで、時折廊下の大きな窓から外の様子を眺めたりして足を止めていた。
彼の瞳には外は眩しそうに映った。子供の無邪気な笑い声や、喧嘩をする声、犬の散歩の様子、それらを見ること、聞くこと、全部が眩しそうだった。
「……」
すると
「……っ……」
“愛してる”
と、また彼の頭に響いた。
心臓が大きく動いた気がした、目の前が一瞬ぐらついて、息ができなくなる。
「……ちがう……」
彼はまた片目から涙を流す。しかし今度は一滴では止まらずに、流れ続けていた。温かくて、生温くて、
「……ちがう……」
彼は両目から涙を流していた。顔も歪ませて、確かに心が泣いていた。
その瞳には温度があった。
「……僕は……僕は……」
苦しそうに両手で頭を抱えながら、濡れた髪をくしゃりと掴む。大きな怪我をしたときだってこんなに苦しくはなかったと思った。
肩で息をする。
そんな朔は窓からの光に照らされて消えそうになる。
「……こんな優しい言葉を……知らない……っ」
泣き出しそうな声でそう小さく叫ぶ。濡れた髪から手を離し、今度は白いシャツの胸のあたりをくしゃりと掴んだ。苦しそうに胸を抑えている。
「……っ……僕……は……」
朔は立てなくなってゆっくりとその場に座り込む。
するとそこに、
「……朔……?」
聞けば心が軽くなるような、慣れ親しんだ声を耳が捉える。
陽月が朔を見つけたのだ。
すると、陽月は朔の様子がおかしいことを心配したのか、朔の元へ駆け寄ってくる。
「……ひ……づき……様……?」
朔は瞳の色を変えながら苦しそうに彼女のことを見る。
「朔? ……立てそうか……?」
と陽月が朔の腕を自分の肩に回して朔を立たせる。
ドクン
その瞬間朔の瞳の温度がゆっくりと冷めてゆく。
しかし、体調は依然として良くないのか、冷や汗を額に滲ませている。
「……陽月様……私は……大丈夫ですから……」
声も言葉も冷淡に響いた。
そして朔は陽月の肩から離れて、アイスクリスタルの瞳で何処か違うところを見つめながら言い放った。
「……私から……離れてください……」
涙の跡が光に反射して見えた。
陽月は少しばかり怯んだように固まっていたが、すぐに朔の方に優しい柔和な輪郭の白い手を伸ばした。
「……でも朔が、泣いている……」
温かい手が冷たい手を握る。
「……なぜ……泣いているんだ……?」
陽月は朔の目を見てそう言った。
朔は温度のない瞳で、しかし困惑した声でこう言った。
「……私も何故かわかりません……」
その声色は嘘をついていなかった。
*****
朔は部屋の白いベッドの上から窓を見ていた。そんな彼の手元には空になった瓶が力無く握られていた。
毎日ベッドの上でぼーっと、眠くなるまで窓の外を眺めていた。そして眠って夜が来たら仕事をするのだ。
夜の闇は彼の輪郭をくっきりと映し出すのに、太陽の光は眩しくて白くて、彼の輪郭をぼやけさせた。昼に消えてしまう、いるのに見えなくなってしまう、まるで何かの亡霊のように。
「……どうして……」
静かな部屋にその言葉は空虚に響いた。
朔はまた特に意味もなく真紅のピアスに優しく触れていた。
「……」
涙の理由を、自身で探している。理由もなく胸が苦しかった。理由もなく息が苦しかった。流れ続ける日々に違和感を感じながら生きていたが、その違和感も胸の苦しさも人を殺めることから自分の心がどうかしてしまっているからだと思っていた
「心はわかるのに……」
彼はぼーっと窓から溢れる光を見つめていた。
すると手を光に翳してみる。
光に透ける手のひらの輪郭を見つめている。
「……空っぽだ……」
何だか沢山詰まっていそうな手のひらが意外と光に透けることに対してそう言ったのか、彼の胸の痛みに対してそう言ったのかは定かではない。
そうしてそのままいつものようにベッドに潜り込み、そのまま意識が遠のいていくのを待とうとしていた。
しかし、朔のいつも通りに一滴、変化が零れ落ちた。
ドアを叩く音が静かな部屋に大きく響いたのだ。
朔は肩を少し震わせてから返事をする。
「……はい」
ドア越しに、篭った男の声が響いた。
「朔さん、今お時間よろしいですか?」
その声色は気さくな印象を与える。優しく、あまりかしこまらずフランクな話し方だ。
すると朔は数回瞬きをしてから、
「……はい」
と返事をした。
ガチャ
と、年季の入った音とともにドアが開くと、日光に包まれた淡い部屋の空気が変わった気がした。
“彼”は革靴を履いていたため、コツコツと足音が部屋に響いた。紺のスラックスにグレーのシャツを着ていた。その髪色は漆黒の闇で、光に当たると毛艶の良さがはっきりと分かる。瞳の色はあまり光を取り込まないワインレッドだ。
彼は闇にまぎれてしまいそうだった、それはつまり、この白くて淡い優しい空気の部屋の中では文字通りの黒一点だった。その輪郭がはっきりと分かる。
すると“彼”は開いたドアを閉めて、
「……朔さん、お話があります。」
と、見た目とは対照的に朗らかに微笑んだ。
夜が似合いそうな、怪しげな男だった。
“彼”はベッドの上に座っている朔の目の前にやってきて恭しく跪いて、微笑いながら自己紹介をした。
「私は一之瀬渚と言います。10年ほど前から陽月様にお仕えしておりまして、先程陽月様から頼みごとをされましたので、聞いてくださいますか?」
と、渚はなるべく易しい言葉遣いでそう言ってから、朔の様子を伺おうと目を合わせる。
ポツリ
「……ぇ……」
渚はスピネルの瞳を小さくして、目を見開いた。
朔はまたもや流れるそれにまたもや驚く。
「……どうしたのですか…?」
渚は立ち上がって朔の肩に触れようとする。しかし、朔はそれを受け入れようとはしなかった。
「……触らないで」
渚は小さな声でそう言う朔の肩が小さく震えているのを確かに見た。
(あぁ……)
なんだか、少し前の自分に似ていると思って、渚は自分と朔を重ね合わせて無意識に言葉を溢していた。
瞳の色より少し明るい赤い唇が微かに動き、言葉を紡ぐ。
「……自分が……汚くてしょうがないから……」
朔は少しだけ瞳を揺らす。
「触らないでほしい……」
その言葉に朔はパズルのピースがはまるような感覚を覚えた。
渚はそう言ってから暫くぼーっとしていたが、急に意識が戻ったかのようにはっとして愛想笑いで誤魔化そうとする。
「……すみません、変なこと言ってしまって…はは…初対面なのに……」
と、首のあたりを触る。
そして思い出したように朔に
「あの、それで…どうしたんですか?」
と優しく問うた。
朔は渚の顔を見るたびに涙を落とす。そして朔は渚に
「……わからないんです……」
とだけ言った。
わからないのに涙が出てしまう。わからないのに胸が苦しい。涙が熱い。
渚はその答えをそれ以上追求しようとは思わず、黙って頷いてから話を切り替えた。
「……それで、ええと、陽月様から頼まれごとをされたので聞いていただけますか?」
となるべく自分の顔が見えないようにと、渚は立って、座っている朔の目線より高い位置から話す。
すると朔は頷いてから、苦しそうに言葉を紡ぐ。
「……な、っ……なんですか……」
渚はそんな朔の様子を心配そうに見つめてから、朔の手を優しく握る。
次の言葉で重苦しい気持ちは一変する。
「……私と友達になりましょう」
彼はそう言うと優しく少し幼げにいたずらっぽく笑った。
朔は思わず渚を見上げる。
何を言っているんだ、と瞳が語っている。ひどく動揺している様子だ。
あの冷淡な冷たい瞳はもう色を変えていた。
「……」
絶句しているようだ。しかし、朔の心臓はうるさく時を奏でる。展開が急すぎて頭が追いついていない。
“友達”という言葉の意味が分からなくなる。
“友達”なんて彼の人生とは全くもって無関係なものであったし、彼は陽月以外の温かい人間とは関わってこなかったから、ただでさえよく分かっていなかったその言葉の意味が、更に分からなくなる。
目の前にするのはいつも既にぬるくて冷たいモノで溢れる動かない“モノ”で、それと話しをしようなんて思ってもいなかった。生きている人間ならなおさら話そうとは思わなかった。友達なんてもってのほかだ。
しかし、彼は友達なんて要らないのだと思って作らないわけではなかった。
「……友達……なんて……」
と朔は咄嗟に自分の本当の心を隠そうとする。本人も意識しないうちに。
しかし渚は握った朔の両手をぐいっと引っ張って朔をベッドから立たせる。
「『友達なんて』?」
いたずらっぽく笑う渚は朔の瞳を見つめる。朔は自分の心が見透かされているような気分になる。
自分でも気づかない心を、見透かされていた。
「……友達なんて要らないですか?」
朔は何も言えなくなっていた。
「……要らないんじゃなくて、怖いんでしょう?」
そう言われてしまったから。
なんだか気づいていたような気がしていた、しかし目を背けていたような気がする。
朔はきっと怖かった。人に触れられるのも、結局彼には自分の手が真っ赤に染まっていて、汚いから避けていた。
友達だってそうだった。汚い自分が誰かと触れ合うことは許されないと思っていた。
だから作ろうとも関わろうともしなかった。
「……でも、私も同じようなもんですよ」
と渚は自分を嘲笑う。
「私の手も朔さんと同じようにもう消えない証がこびりついていて、」
朔は握られている自分の手のひらと渚の手のひらが同じ色をしているように見えてきた。
「……もう、戻れないですね、私達」
まるで共犯者のように彼は怪しく笑った。
「っ、でも……」
朔が言いかけると
「殺している数が違う、ですか?流した血の量が違う、ですか?」
と渚は朔が言おうとしていた事を言い当てる。
朔は驚きつつもゆっくりと頷く。
「……確かに、私は“ほんの”数人です。もうやめましたし。……朔さんは何十人“も”……?」
と渚が聞くと朔は無言の肯定をした。
「……変わらない」
渚は寂しそうに言い放った。
朔は驚いたように握られている手を震わせた。
そんな朔を渚は悲しそうに見つめて言う。
「……変わらないんですよ。もう、一人目から……
どれも重さをはかれない…その人間がどんな人間であろうと…命の重さははかれないし、全部同じです」
「……ゃ……」
朔は小さく音を洩らす。
しかし渚は続けて朔に言い放つ。
「おんなじ、人殺しです」
「っ、やめろっ!」
朔は叫んでいた。
苦しい、苦しい、息を吸っても変わらない。そのうち彼は崩れ落ちた。座り込んで、震えていた。
「……わかってる……わかってます……」
声も震えていた。でも涙が零れることはなかった。
「もうずっと……わかっていたけど……目を瞑ってた。」
たとえ相手が陽月を狙う刺客であっても、人殺しは人殺しだった。たとえ命令だとしても、たとえ守るためといっても、同じ重さの命だった。
わかっていた。
きっと、最初からわかっていた。気づかないふりをしていた。隠していた。アイスクリスタル瞳は“今”ではなく“過去”でもなく、自分の事を見つめていたようだった。
「……わかってたんです……」
そう言ったきり、朔は黙り込んでしまった。
渚は暫く朔を見つめていた。
「……」
そして渚は座り込んでいる朔の隣に座った。渚は朔の手を優しく握って、小さな声で囁いた。
「……一番してはいけないことは、自分の犯した罪と苦しみから、目を背けることです。」
朔は静かに頷く。
「……やっと……胸が苦しい?」
渚が優しく問うと朔はまたも静かに頷く。
「今はきっと…それが分かれば…大丈夫」
すると朔は小さな声で渚に言う。
「……どうしたら……この罪は……償えるんでしょうか……この先もきっと……人を……してしまうから……対処法を……」
と、救いを求めるように渚に問う。
すると渚は一瞬だけ苦しそうに息をしてから、
「……私にも……わかりません……ただ……
わかってしまったら人は……私達は……際限無く罪を重ねるでしょうね……」
と、困ったように笑った。
この先もきっと朔は人を殺め続けて、彼自身を真っ赤に染めてゆくのだ。分かっていても、いま心が苦しくて、焼けるように体が熱くて、喉が熱くても。
「……そうなんですか……わかりました」
と、朔は渚の言葉をゆっくりと呑み込んだ。
そして、暫く沈黙が続いた。空は変わらずに流れてゆく。時計もカチカチと時を刻む。遊んでいた子供の声も、昼時だからか気がつけば無くなっていた。
すると朔は急に渚に口を開いて言った。
「……敬語は、やめてください」
渚はわからない様子でぽかんとしている。
「……友達は……敬語はいらない……と思います……」
と朔はポツリと言った。
「……っ」
渚はようやく合点が行き、陽月の頼みと言ってもイエスとは言ってもらえないと思っていたのか予想外のその答えに言葉を失ったが、すぐに嬉しそうににこっと笑って、
「……朔もね」
と喜びを隠しきれない様子でいた。
朔は自分で言った割に、渚にそう言われると少し驚いてから、
「……わかった」
とそう言った。
*****
「それじゃあ、そろそろ行くけど、呼んでくれたらすぐ来るから」
と、あれから少し話をして渚は仕事があるのか行ってしまった。
朔は小さく手を振っていた。
「……」
暫くの間、彼は空を眺めた。
ずっと心に違和感があるのだ。渚を見ると心が苦しくなるのだ。
しかし今はそれよりも何よりも胸が苦しくて、唇が震えていた。
「……」
どうして、なんて言えない。苦しいなんて思えない。
「1人目……なんて……覚えてない……」
それが一番苦しいような気がした。
ずっと抱えて生きていくのは
「……きっと……無理だな……」
そう思うと心が楽になる様子で、瞳の色が穏やかになる。そして誰もいない部屋で、誰かに言う。
「……僕は……もう寝る……」
その瞳はゆっくりと閉じてゆく。
「……おやすみ……陽月様……」
そう言って朔は眠った。
しかし次の瞬間アイスクリスタルの瞳は勢い良く開かれた。
「……」
その瞳に温度はなく、少しだけ冷静で反抗的な瞳で朔は窓の外から溢れる光を睨んだ。
そして、瞬きをしてから自分の前髪を気にするように目をやった。すると濡れた髪に白い指で触れる。
朔は立ち上がって窓の方へ歩き出す。その足は手や腕と同じく真っ白で、少しだけ骨ばっていて、足取りはよろよろとしていて危なっかしい。
力ない様子で窓の元まで歩くと、窓からの光に顔をしかめたり、光を手で遮ったりすることなく少しだけ空いていた窓を全開にした。
すると先程まで小さく揺れていた淡い白のカーテンはふわりと大きく翻って、窓から大きく風が吹いていることが見て取れる。
「……」
朔はそれに動じることなく、窓枠に手をかけて身を乗り出すように風を顔から受けている。瞑った瞳を覆い隠す白銀の睫毛が揺れている。
どうやら髪が濡れたまま眠ることが気になったらしい。軽く頭を揺らしながら髪が風に靡いた。
「……なぎさ……」
小さな声で呟いた。
瞑った瞼の裏に映る、闇色の艶のある髪を持つ青年。
自分と歳が近いようだった。
「……もだち……」
初めてできた友人だ。
しかしきっと、と、朔にはわかっていた。
「……」
渚だけが彼の人生で唯一の友人になるだろうと。
朔の瞳はたとえそう思っても、悲しそうに歪むことはなかった。冷たい瞳は冷たいまま瞼の裏に映る友人の姿を覚えようとしていた。
ひと通り髪が乾いたら彼はベッドまでまたよろよろと歩いて、死んだように眠った。
*****
微睡みから落ちると、またこの夢だと朔は思った。
彼は夢を見ている。夢を見ていると自覚できるのに目を覚ますことは夢が終わるまでできはしない。
いつもそうだ、ひどく胸が痛いことしか自分には感じられない。目の前に、顔が見えないが優しく笑っているであろう女性がいる。彼女は首元をさする癖を持っていて、そして耳に、自分の同じピアスを付けている。
朔のピアスは片方だけしか付いていない。彼はいつからこれを付けているのか記憶にない。しかし目の前の女性のピアスは両耳に付いていて、もう片方がどこかにあるような気がする。とは言ってもそんな気は目が覚めたら忘れてしまうのだが。
「……」
何も話せなかった。喉が詰まったようだった。
するとそこからはいつものように目頭が熱くなり、喉元が苦しくなり、過呼吸のようになる。
そして涙か、過呼吸のせいか、視界がどんどん歪んでいって、気がつけば視界が真っ暗になって、深い闇の中に落ちる。
「……!」
それだけの夢から覚めるともう日が暮れていた。
寝た気がしないのはいつもの事だった。
「……」
丸まって眠っていた体勢のままピアスに触れる。
窓からの月明かりが朔を照らした。彼は小さく息をしていた。
するとドアを叩く音が月明かりだけなのに少しだけ眩しい部屋に響く。
「……朔……仕事だ」
陽月の声だ。ドア越しのその声は優しい響きを持った。
朔はその声を聞くと落ち着いた様子になって、はい、とだけ言ってからベッドからクローゼットへ移動する。ガララ、とクローゼットが重々しく開いた。その中には服が数着だけあり、ほとんどが今朔が着ているものと似通ったものだった。しかし一番端に掛かっている服は礼服のようだった。
そのシャツは淡いくすみブルーがベースだが、その濃淡が敢えて分かるようなデザインで、ベースの色が均一でない。しかし袖口の折り返しの部分は逆にベタ塗りのコバルトブルー。ボタンは透明感のある白。柄はあまり大きくはないが大胆に青い薔薇と茨が水彩っぽく描かれている。襟先はキラキラと輝いていて金粉だろうか、あしらわれている。ネクタイはシンプルに黒寄りのグレー。ベストは無く、スーツは漆黒だ。しかし少し長めで、内側の色が紺。ベルトは純白で、スラックスはスーツと同じ黒だ。
朔は一瞬それを見つめてから何かを感じ取ったのかクローゼットを離れドアを開く。
目の前には陽月が立っていた。陽月が怪訝な顔をして
「どうした……?」
と聞くと、朔は冷めた瞳で
「今日は……誰を……?」
と問うた。彼はその相手が誰なのか薄々勘付いていた。朔は耳がとても良い。五感に優れている。
殊更陽月の事となると感覚は鋭く研ぎ澄まされる。先程の「……朔……仕事だ」という優しい声が少しだけ緊張していることに気が付いていた。
陽月はその問に対して予想外だと目で語るが、一応伝えておく。
「今日は紫翠のところの次男の側近の一人、縹の家の縹 竜胆だ」
そう伝えると朔は静かに呟く。
「……紫翠……」
そして陽月の方を見る。
「……丁寧にやらないと……」
そう言い放つ朔の瞳は月に照らされると少し赤みがかっているように見えて、妖しく輝いた。
陽月はそんな朔の様子に少し下唇を噛み締めて黙り込んだ。朔はしかしそんなことは気にも留めずに部屋に戻っていった。
そしてクローゼットの端の例の礼服を取り出して、それを着てドアを開いて陽月の元へ行った。
陽月は朔のその姿を見て少し驚いた様子だったが合点がいったように少しだけ笑った。
「……そうだな……紫翠のことなら丁寧に、美しく、殺してやるべきだな……」
そう言ってから陽月は服の内ポケットから写真を取り出した。
「……朔……今日は彼だ、」
そして何やら地図のようなものを渡す。
「ここに住所と地図が…竜胆は今日は縹の家に居るらしい。そしたら次男が手薄だが…今は早いからまだやらないこと。今日はあくまでも竜胆がターゲットだ。彼は頭も切れる、なかなか手強いようだが……」
そう言いながら朔を見ると特に緊張している様子がないのを確認して小さく笑う。
「……朔には……関係ないな……よし、行ってきなさい」
朔はそれを聞くと静かに頷いて長い廊下を歩いて行き、その闇の中に消えた。
陽月はそんな朔の背中を見えなくなっても見つめていた。