私が壊したんだ
『愛してるんだよ。』
鈴の音のような声が穏やかな緑の中でよく響いた。それは、傍から見ても響いて聞こえたのか、僕の心に記憶に、ただそう響いて刻まれているだけなのかはもう分からない。
あなたの事が分からない。
『君はさ』
声も顔もよく分からない。
あなたの声が僕の心に残っているのか、あなたのくれた言葉が僕の記憶に刻まれているのか。
『大好きなんだよ』
ねぇ、あなたは誰?
僕にきっと色んなことを教えてくれた人。それはいつ?どこで?
思い出そうとすると頭に痛みが走った。頭の中に黒い靄がノイズのようにかかる。
どうして?
きっと大切なことを伝えられた気がするんだ。
とても淡くて優しい記憶。微睡みのような、甘ったるくて、柔らかくて、今の自分では甘すぎて飲み込めない記憶。
おかしい。
いつの記憶だ?そもそもこれは、僕の記憶か?
痛い痛い痛い。
頭が痛い。鼓動にあわせて痛みが走る。目の前が霞んでゆく。
嫌だ、もう少しだけこの世界に浸っていたい。
だって、だって、
「……っは」
⸺今がとても苦しい
朔は目を覚ました。
その瞳は小さく小刻みに揺れている。
何かとても大切な夢を見ていた気がするが、彼はもう忘れてしまっていた。
この違和感は何だ?この綻びは何だ?
追求したくなる気持ちとは反対に、もし違和感の正体がわかってしまったら日常が崩れてしまう気がした。
「……」
守るものなどこの手に一人しかいないのに、日常が崩れることを恐れている。いつの間にか、手を汚すこと以外の出来事に心が敏感になって、この日々を大切に思っていたのかもしれない。
陽月の微笑む顔や、褒めてくれるときの優しい瞳や、何故か憐れむような、同情するような瞳。
例えば守るものが一つでも、その人がくれる温かいものは、優しい日常は、残酷な悲劇よりも鮮明に覚えるものだ。
だから、壊さないでと願う。
都合がいいことは承知の上で。
「……人殺し」
口に出してみてもその言葉は何の重みも持たずに空気に溶けていった。
人殺しは、悪いこと。
「それは、わかるのに」
実感がまるでない。
ただ、彼の記憶に、心に、苦しいほどに刻まれたのは、たった二人の人物。
『……紫苑……様っ……』
その最後の時まで主人へ忠節を尽くした護衛と、
『ごめんな、苦しかったよな……俺でよかった……君のことも、愛してやる……神様にそう言っておく……』
自分を殺した相手に泣きたいくらい優しい言葉を掛けたのは、家族を持つどこにでもいるような強い父親。
嗚呼、その記憶がただただ苦しい。
そして朔はその二人を殺してしまったことを酷く後悔し、自分の心にヒビが入っていくような感覚を覚えた。
彼はまだ、気が付かない。
とても大切なことに気が付かない。
このままずっとその大きな罪に気づかなければ彼はまだ壊れないのかもしれない。
***
ブラウンの髪は光に当たると稀にオレンジ色に輝く。陽月の髪色はそんなブラウンだった。
今日は一つに纏めているだけの至ってシンプルな髪型だが、そのアーモンド型の瞳の持つ星空がキラキラと輝くのに髪型と釣り合いを取っていた。
彼女は今日も書類に目を通していた。仕事はいつも山のようで、当主に成りたての頃は全く慣れるわけがないと、一人で処理できるわけが無いと思っていた。
しかし当主になってもう数年も経つと、今となっては当たり前に日課の一部となっていた。
山積みの書類をバラバラと雪崩のように崩すこともなく、どこに何の書類が重なっているか分からなくなることもなく、一人でやったほうが分担するよりも早く終わるほどに彼女は日課をこなすようになっていた。
今日もそんな書類を熟している。万年筆の頂点が時折光を反射してきらりと輝きを放つ。万年筆の動きは滑らかで迷いがない。
「……」
書類を熟しながら何かを考えることも容易い。
例えば今の時期は何の花が咲くか、明日の気温はどうだ、次の会食ではどのドレスを着ていくか、等々。頭の片隅でそのようなことを考えながら仕事を熟すことができるようになったのだ。もう右も左もわからなかったあの頃の陽月とは違うのだ。確実に成長しているし、当主としての威厳も十分であろう。
そんな陽月の頭の中を最近占めているのは朔であった。いや、最近とは言ってももう2年前からになる。
2年前とは、朔の雰囲気が昔の彼から変わりだした頃である。
(……わからない)
頭の中が少しずつ淡い紫色に染まってゆく。
(朔が、わからない……)
温かくて、淡くて、優しくて……。
(……どこへ行ってしまったんだ……)
記憶の中の朔が陽月の方を振り向き、優しく微笑んだ。
***
『陽月様、見てくださいこんなに硬い地面にきれいな花が咲いています』
髪型は一緒だが今より背が低く、優しい声で陽月に話しかけるのは今よりも少し幼い頃の朔。
彼の指差す方向には淡い紫色を持つどこにでもありふれた花がいくつか、凛と咲いていた。
『朔、それはなスミレと言うんだ』
陽月は朔に同じように優しい声色でそう返した。
そうまるで、スミレのような日々だった。
小さな幸せを一つずつ数えては二人で共有し、二人で微笑ったり、深く考え込んでみたり、本をいくつも引っ張り出して調べては答えが見つかれば嬉しくて、見つからなくても自分たちなりに答えを出す、それが幸せだった。
当主であるため仕事が忙しかったが仕事の合間にはそんなささやかな幸せがあった。
朔は日常の中で些細なことを疑問に思った。時にはとても抽象的なことも聞いてきた。
子供というものはとても無邪気で純粋だが、決して何もわからない訳ではなく、幼い頃の朔は陽月でもはっとするようなことを質問したり、答えたりしていた。
幼い頃の朔はそんな子だった。
優しくて、時々いたずらをするようなそんな子だった。
しかし二年前のいつからか朔は変わってしまった。
当主として軌道に乗ってきた頃、仕事が立て込んでいたがここが踏ん張り所だと陽月は必死に仕事を熟していた。毎日がとても忙しく、本当の事を言えばその頃の朔の様子が記憶になかったりする。
明確にいつから変化したとか、何がどのように変化したとか、そういう理由はなく、ただ、そうただ、
『陽月様……私にも仕事をください』
声が冷たく、金属のように無機質で、
『仕事って……』
瞳はどこか違う場所を見ている気がした。
『陽月様の道を塞ごうとする者を』
もう優しく微笑う君は居ないのかと、
『排除させてください』
あの白くて柔い手は、温かった手は、もう触れられないのかと、
『それは……つまり……』
傍を付いてくる君は、どこへ?
『暗殺なり、なんなりと』
私にはそれが、とても、
『あなたが望むなら、仰せのままに』
寂しかった
寂しかったのだ、きっと。
子供のままでいてほしかったとかそういう自分のエゴかもしれないが、いいや、そう思ったから、
『……少し……考えさせてくれ』
受け入れることにした。
朔の手を汚すことを、あのスミレを指差していた手を紅く染めることを許した。
自分のエゴで朔を縛ってはいけないと、今思えば馬鹿みたいな話だが、そうしてしまった。
そして今朔は、みるみる変わってゆく。
教えていないはずの、人を殺す術。陽月の周りの人間の中でも2番目に優れていたその能力で、朔はどんどん手を汚していく。
しかし血まみれの彼はとても綺麗で、陽月は初めて朔が人を殺し帰ってきた姿を見て見惚れてしまった。
『陽月様……ただ今帰りました』
月明かりに照らされて、くっきりと浮き出る輪郭と、赤みがかった瞳。そんな美しい姿に大胆にもべっとりと赤がぶちまけられている。
なんて美しいのかと。まるで芸術作品だと。
そう思う自分が汚くて醜くて朔からすぐに離れたくなった。
『対象が息絶えたのを確認しました。ですが、念の為、何度か』
『分かった……』
朔の瞳は少し揺れた。
自分が何か失態を犯してしまったのではないかと不安そうにしていた。
ただ陽月は、そんなことをする朔から少しでも早く離れたかった。まして、話など聞きたくなかったのだ。
『……ご苦労だった……お疲れ様』
そう言うと陽月はすぐにその身を翻し、自室へと戻っていった。
そこでやめておけばよかった。
そこで朔の手を汚すことを禁じていればよかった。しかしできなかった。
朔があまりにも有能だったから。適任だったから。
数年前に、朔のような仕事をする人間が空いてしまったばかりだったから。
都合がよかった。
『……朔、仕事だ』
だから次も頼んだ。
その次も、次も……。
『陽月様、ただ今帰りました』
帰ってくるたびに朔は美しくなっていった。
少しずつ返り血も減っていき、殺し方が洗練されてゆくのが見て取れるようになった。
無駄に何度も対象をめった刺しにすることはなくなったし、服を汚すこともなくなった。
しかし少しずつ、朔の様子がおかしくなっていった。
たまに朔の任務が終わる頃に仕事が終わり、朔を迎えに行ってみると、もう口の聞けないモノに向かってずっと視線を向けていたり、自分からソレの流す血溜まりにその身を浸していた。
血溜まりに両手を擦り付け、血まみれになった両手で胸を抑えながら深呼吸をし、恍惚な笑みを浮かべている朔を見たときは鳥肌が立った。
『朔……?』
しかし私が呼ぶと朔はすぐに気がつくのだ。そして急いで私のもとに駆け寄ってくる。
『スミレって言うんですね、綺麗です』
嗚呼、
『陽月様、いらしていたのですね、任務は完了しました』
淡い記憶の中のあの子はどこへ?
『僕、あの花のほうが好きなんです』
重なって、ブレる。
『次の仕事はいつですか?』
しかしもう、重なることもなくなった。
あの頃の朔と今の朔が重なることはない。
もうあの日常は戻らない。
***
「私が壊したんだ」
陽月は呟いた。
呟いた言葉が遅効性の毒のように陽月の心にゆっくりと確実に響き、胸を抉る。
しかし陽月は、
「でも、朔といたい……」
と、口にしてみる。
神様が朔の死を見逃してから数年、未だ神様はそれに気づかず朔は人を殺していた。神様が決めた数より多くの命が失われている。たまたま朔の死を見逃してしまったばかりに。
いつか、気がついてしまうだろう。もう、気がついているのだろうか。
そうなったら朔はもちろんのこと、陽月もきっとろくな死に方をしないと本人が自覚している。
ならば、とただ強く願う。
「死ぬ時まで一緒にいたい……」
責任を持って朔の最後まで傍にいることを、朔を拾ったあの雪の日の夜から心に決めていた。
白くて綺麗な朔。
でもあまりにも綺麗だから、この狂った日常が皮肉にもよく似合ってしまう。
ねぇ、神様。お願い、まだ気づかないで。
朔は無実だ。私のせいだ。
叶うなら、私が身代わりになろう。
「……もう夕方か……」
1日の仕事が片付いてきた頃、陽月はふわりと揺れるカーテンの外を見つめた。
橙色と碧の混じった空は、中途半端に月が見えた。
闇の帳が落ちればすぐにその輪郭をくっきりと映すそれに、朔を重ねた。




