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最初の徒歩通学

 ーー放課後。

逸る気持ちと歩幅を抑えて、一組へ深月さんを迎えに行く。

「だって、姫にお声掛け頂く機会なんて滅多にありませんのに、編入して早々に、しかもお友だちになんて・・・羨ましいですわ」

そんな声が、一組の中から聞こえてくる。

「それは、私の編入試験の成績がを吹聴した方に仰るのがよろしいかと・・・そもそも、私自身どの程度だったのか、報されてもおりませんのに」

「そうですわね。深月さんにしても、いきなり青天の霹靂へきれきではあったのでしょうけれど・・・」

私が扉を開けると教室の中では、深月さんが女生徒たちに囲まれていた。

「ーーあら、それならば皆さんからわたくしに話し掛けて下さればよろしいのですわ」

転入初日だから、クラスメイトたちに質問責めに合っているのだろう・・・そう、私もすぐ気が付いたのだけれど。

「えっ、姫さま・・・!?」

私が声を掛けた瞬間に、周囲がざわめいた。

「ひっ、姫・・・!」

「姫っ!いらっしゃったのですか・・・!」 

そして、私は尋ねる。

「失礼いたしますわね。深月さん、いらっしゃいますか」

「ええ。ここに」

深月さんのクラスメイトたちは、それこそ霹靂に打たれたかのように、ひれ伏すような勢いで左右に分かれて、私と深月さんの間に道ができた。

けれど、私はそこを歩きたいとは思わない。

「わたくしも、深月さんのようにクラスメイトたちに囲まれてみたいものですわね」

「ごきげんよう、姫依さん・・・そうなのですか?私は、貴女はきっと毎日、こんな風に皆さんに囲まれているのかしら、と思っていたのですが」

「それが、どうにも『姫』という称号が重いらしくてーー皆さん遠巻きにされるだけで、わたくしとしては少々寂しい思いをしているのです」

「それは、ちょっと意外ですね」

深月さんも気が付いている。もう他の人たちは遠巻きになって、私と深月さんを見守っているので・・・彼女たちが私に話し掛けることはないのだろう。

「深月さん、姫とお帰りになられるのですか!?」

「噂は本当でしたのね・・・すごい!」

予想はしていたものの、心地の良い雰囲気ではないーー少し深月さんに申し訳ない心持ちになった。

「・・・一緒に、帰って頂けまして?」

「ええ、ご一緒させてください」

それでも深月さんは臆することなく微笑み、凛として立ち上がる・・・それだけのことなのに、私は少しだけ目頭が熱くなる。

「ありがとうございます。参りましょう・・・では失礼」

「あっ、はい!ごきげんよう・・・」

「すごいです。姫のことをお名前で呼ばれるなんて・・・」

「姫のご友人にというの、本当でしたのね・・・」

彼女たちには勿論、悪気があるわけではないのだけれど。

否応なしに、自分がこの場所から切り取られていく、この気持ちの重さ・・・それには変わるところがない。

私たちが出た教室からは、黄色い歓声が響いていた。

彼女たちは、きっと今の出来事を面白おかしく話すのだろうーー飽くまでも、私たちがいないところで。

「・・・嫌な思いを、させてしまったかしら」

私は笑ってみたけれどーーもしかしたら、不快さが、やや顔に出てしまっていたかも知れない。

「いいえ・・・ただ有名税というのは、思っていたものとは違ったかしら、と」

深月さんは気にする風でもなく、自然に、私の横を並んで歩いてくれる。

「そうですわね。なりたくてなったわけでもないと云う辺りが、芸能人などとは違うところなのですが・・・そうして笑って頂けるのは、有り難いでしょうか」

深月さんにも思うところはきっとあるのだろう。けれどそのことは口にせず、ただ和やかな微笑みを向けてくれる。

「深月さんは、躊躇ためらうことなく席を立ってくれましたね・・・それだけで、わたくしは貴女に声を掛けて良かったと思います」 

「そこまで大したことではありません。単にあの場所に居づらかったというだけですから」

ーー深月さんのその言葉だけで、私は安堵することができた。

「いいえ。それは深月さんが、『彼女たちと同じ場所にいる』ことを望まず、わたくしと同じ場所に立ってくれたと云うことーー感謝して、それから歓迎いたしますわ」

そして、私たちは並んで並木道を歩く。

「初めは、成績を競える方がいらっしゃったと聞いて声をお掛けしたのですが・・・今はもっと、深月さんのことを知りたいと思うようになりました」

最初出逢った時の不思議な予感は、容姿や成績ではなく、ただその心に惹かれたのかもしれないーー今はそう勝手に思っておくことにしよう。

「そうですか?そんなに大したものではありませんよ、きっと」

「そんなことはありません。いいえ、そんな風に思いたくありません・・・折角、マリア様の見守る学び舎にいるのですから。是非」

私は、貴女をーー。

「貴女を、神に遣わされた天の配剤だと思わせて頂きたいものですわ」

深月さんは、少しだけ目を見開いて驚いたようだったけれど・・・その後、わずかに首を傾げて微笑んだ。

「私の意志は、関係なしに・・・ですか?」

「・・・どうでしょう?」

ーー私は、あまりちゃんと神さまというものを信じていないけれど。

貴女という人が、ここに現れてくれたことを感謝するなら、やっぱり相手は神さましかいないのではないかしら。

だって、祈りから目を開いてーー振りかえったその先にいたのは、貴女だったのだから。

「ふふ、いきなり困らせてしまいました」

「困る・・・まあ、困っているのでしょうか。云われたことが抽象的すぎるという意味では、そうですね」

のんびりと、二人で学院前の坂道を下っていく。まだ晩春の風は長閑。

「ずっと、車で通っていたんですよね・・・徒歩での経路はもう調べてあるのですか?」

「抜かりは無いーーと云いたいところなのですが、やってみないと判らないことは多いでしょうね」

そう。解らないことは多い・・・と云うよりも、私は恐らく、一般の社会というものに対して無知なのだろう。

「それで思い出しましたわ・・・わたくし、行ってみたいところがあるのですが、少々お付き合い頂いても?」

「・・・何でしょう?」

そう思ったら、少し深月さんに甘えてみたいーーそんな悪戯めいた気持ちが心の底から顔を出していた。

そして、私たちは街へとやってきた。

私は目的のお店の前で足を止める。

「それで、どこに・・・って、まさか」

「実は恥ずかしながら、入ったことがなくて・・・付き合って頂けるでしょうか」

ーーそれは、ファーストフードのお店だった。

「牛丼とハンバーガー、どちらにしようかと迷ったのだけれど・・・制服が汚れる可能性を考えて」

「ハンバーガーを選んだわけですか・・・」

「ええ」

丼物よりは、洋風なものの方が敷居が低そうーーなんて算段も少しあって。

「けれど、出逢ったばかりの私をどうして相棒にしようと思ったのですか?寧々さんとか、こういう時には適任だと思うのですが」

「彼女、意外とーーではないですわね、思い切り面倒くさがりですし。そもそも付き合ってくれるかどうかも怪しいですから」

それは本当。寧々さんは興味がなければ1ミリも人の為には妥協をしてくれない・・・。

本人が云うには、天性の面倒くさがり、なのだそう。

「まあ、確かにそうかもしれません・・・でも、初対面の私に付き合わせて、明日あることないこと云いふらすかも知れない、とは?」

深月さんは優しい。そう云って下さるだけで、私の方が嬉しくなってしまう。

「それも少し考えていました。ですがたった今その可能性もなくなりましたし」

「えっ・・・!ああ・・・」

云われて気が付いたのか、深月さんは困ったように笑うーーもしかして、癖なのでしょうか。

「解りました。お付き合いしましょうか」

「ありがとうございます」

そんな優しさに付け込んで、深月さんに初めてのバーガーショップでの案内人をお願いすることに。

「いらっしゃいませー。お決まりでしたら、ご注文はこちらでお伺いしまーす」

レジの女性が云う。

「深月さんはこういったお店、慣れていらっしゃいますか?」

「あまり使いませんね・・・けれど、まったく来店経験がないというわけでもありませんから」

深月さんには余裕がありそう。これなら、私がミスを犯してもフォローをして貰えるかしら。

「そうですか。では間違っていたら教えてくださいね・・・テレビドラマなどで観ているから、そこまでおかしな行動はしない、と思いたいのですが」

「そうですね。まずはやってみる、でしょうか」

とは云え、初体験です・・・やっぱり、緊張してきてしまいました・・・!

「お待たせしました、クリームチーズバーガーとホットコーヒーになります」

「ありがとう。その、お手間をかけさせましたわね」

「い、いえ・・・こちらこそっ」

店員さんからトレーを受け取り席に着く。

「・・・ふぅ」

ーー失敗してしまいました。

私は思わずため息をついた。頬の熱さで、顔が赤いのが判る。

「やはり、耳学問では駄目ですわね・・・コストの面から考えれば当たり前のことでした」

「まあ、そういった所は、やはり肌で感じないと・・・でしょうか」

何をしたかーーと云えば、私は総てを店員に訊ねようとしてしまった。

それはレジでのこと・・・。

「いらっしゃいませー。ただいまこちらのクリームチーズバーガーセットがおすすめとなっております」

「ありがとうございます。その商品は、こちらのデラックスチーズバーガーとはどのように違うのでしょう。チーズ以外にも、何か違いはあるのかしら」

「えっ・・・あの、ええと・・・」

「・・・?」

「そういのはちょっと・・・」

「ちょっと・・・?もう少し正確に説明して頂けるかしら」

「す、すみません・・・店長、店長ー!」

「待ってください、姫依さん、ここはですね・・・」

ファーストフードと云えば、代表的なマニュアル対応のお店・・・そんな私の質問攻めに、バイトの女子店員では対応ができなくなり、店長が呼ばれる事態に突入してしまった。

「そうですね。必要な恥だったと思う事にいたしますわ」

深月さんに諭されてーーようやく私はその間違いに気付いたのだった。

「商品のコストを下げるために、一番早いのは人件費を削ること・・・それは知識として持ってはいたのですが、削った結果までは考えていませんでしたわ」

店員が売っている商品の知識を正しく学んでいるということは、そこにちゃんとお給料が出ているーーということなのね。

「売る側が、自分の売っている商品の正体を知らないーーというのが当たり前なのですね。そうですよね。彼女たちはその為のお給料を貰っていない、ということなのですから」

「そういうことになってしまいますねーーとはいえ、削られているのは人件費だけではありませんから」

「はっ!そうでした。そうすると、肝心の商品の方も・・・」

私は、深月さんの言葉に戦慄すると、トレイの上に置かれたハンバーガーの包みを眺めた。

そうだ。本当の戦いはきっとここからなのね・・・。 

「・・・取り敢えず、珈琲を飲んで落ち着きましょうか・・・うっ」

まずは落ち着こうと、紙コップの珈琲を一口すする。だけれど、それが闘いの火ぶたを切る行為になるとは、私は全く思っていなかった。

・・・薄い。確かに珈琲の味だけれど、匂いもほぼほぼ感じられない。

「お、面白い味ですのね・・・お湯で薄めた、というわけでもなさそうですが。砂糖とミルクで誤魔化してしまうのがいいかしら」

付いてきた砂糖のスティックを折って入れ・・・そこまでは良かったのだけど、ミルクが見当たらない。

「深月さん、これはどうすれば良いのですか?」

「ああ、ミルクですか。それはここにある爪の部分を折ってですね・・・」

深月さんは、小さなキャップ状の容器を手に取ると、出っ張った爪の部分から包装を剝して、珈琲に注いで見せてくれた。

自分でも、見よう見まねでやってみる。

「なるほど。これは便利です・・・あら?」

注いでから、自分の知ってるミルクとは違い、何だか色が薄いことに気が付いた。

ちょっとお行儀が悪いかもと思いながら、少し残ったミルクを指にとって舐めてみる。

「っ!?」

何かしらこれ。少なくとも生クリームではないみたいだけど・・・困った顔をしていると、深月さんが気持ちを察してくれたのか、苦笑いをしていた。

「・・・深月さん、これはミルクではありませんわね?」

「えっ・・・ああ、はい。そうですね、厳密には違いますね」

厳密には・・・?どういうことなのですか。

「結論から云うと、この液体は生クリームの代用品です」

「代用品・・・!」

食べるものに、そんな単語が使われるなんてーー私にとって、その衝撃は小さくはなかった。

珈琲には生クリームを入れる。そういうものだと思っていたのだけれど。

「つまり、生クリームは保存が難しくて、提供するのにコストがかかるので・・・その代用品として生まれたのが、この白く着色した植物性の脂肪です」

「・・・牛乳由来ですらないのですか」

冷静な深月さんの説明というか追撃?に私は愕然とする。確かに、舐め取った時に油の味しかしなかったから、何だろうとは思っていたのだけれど。まさか色まで合成物だったなんて。

けれどーー。

これは面白い・・・自分の知らない世界だと、そう思えてきた。

「脂肪分のコクだけがあればいい。だから日持ちのする植物性の油脂を使うーー合理的ですわね」

人間は、合理性のためにこんな偽物までわざわざ用意するものなんだ・・・そう思うと、何故だかすごく愉快になってくる。すごく面白い。

「なるほど、ミルクの風味はありませんが、油分のお陰で呑み口はややまろやかな感じになるのですね。この珈琲とならバランスは悪くありません」

薄い珈琲と、代用品の植物油ーー合わせて見ればほんのりと、本来の珈琲とミルクを合わせた時のイメージが淡く透けて見える。

「・・・ちょっと、肩の力が抜けましたわ。では」

ちょっとがっかりしていたけれど、こうなると逆に面白くなってきて、今度はハンバーガーに興味が出てくる。

「包みから出してしまっても良いのですの?」

「いえ、出すと手が汚れてしまうので・・・こうして」

包みを開くと、開いた包み紙が大きく拡がる。

「開いたままで齧り付くと汚れてしまうので、私は・・・こうしていますが」

深月さんは、その端を軽く内側に織り込んで、そのまま指で押さえてしまう。

開いた部分がかさばるのも邪魔ですし、油やソースは包みの内側に付いているから、そのままにしていると服や顔が汚れてしまいますものね。

「ああ、なるほどですわ」

私も同じように・・・なるほど、これなら大丈夫そう。

口を頑張って開くと、意を決してハンバーガーに齧り付く・・・ある程度の予想もしてあったので、これは舌に興味が勝った。

「・・・そうですね。それなりに美味しいですわ」

あまり質が良いとは云えないお肉と油だけれど、不思議とそれが楽しいーー少なくとも、不味いという形容には当てはまらない気がする。

「それは何よりです・・・あ、口の端にソースが付いてますよ?」

そう云って深月さんは紙ナプキンを取ると、私の唇の端を拭ってくれた!

「いやですわ・・・その、ありがとうございます。申し訳ありません・・・」

「ああ、私こそ世話を焼くような真似をしてしまって・・・気にしなくて良い思います。これは口の周りを汚さずに食べるのは難しいですから」

「た、確かにそのようですわね・・・」

齧ると、その力に押されて、口の左右からソースが溢れだすのですね・・・それは確かに避けられないかも。

「割り切って、そこを楽しむのが良いと思います」

深月さんにそう云われて、やっと私にも平静さが戻ってくる。

「材料のクオリティは最初から諦めるという前提で、調理法や味付けを頑張っているところに好感が持てますねーーそのせいで大分味が濃いですが」

何とも身体に悪そうな味だけれど、このトマトソースやマヨネーズに直接舌が殴られるような味覚は、不思議と嫌いになれないものを感じさせる。

「そうですね。その辺を揶揄してジャンクフードなんて云われたりしますから」

深月さんが笑いながらそんな風に教えてくれる。

ジャンクですかーーきっと一般的な丁寧な調理に対して、粗雑であったり、大味であったりという意味なのでしょうけれど。

「ん、このハンバーガーになら、この珈琲は合いますわね。強い味付けの邪魔にならないし・・・」

「ふふっ、そうですね」

面白い、というのは食事の感想としては不適切かもしれないけれどーー世間知らずな私としては、それが新鮮な体験なのは間違いない。それにしても・・・。

「思ったよりも量が多いですわね。これは夕食がいらないかしら」

「そうですね。お家の方に怒られたりはしないのですか?」

歩いて帰ると連絡はしたけれどーーそう云えば、そこまでは考えていなかった。

「どうかしら?買い食いなんてしたことがありませんでしたし・・・多分、お抱えの料理人が悲しむくらいではないかしらね」

一瞬、うちのシェフの小林さんの悲しそうな顔が浮かんで、ちょっと笑ってしまったけれど・・・さすがにそれは申し訳ないかしら。

「そうですわね。落胆させるのも可哀想ですしーー家に電話を入れておきましょう。少々失礼しますわ」

「ええ」

店内でスマートフォンは迷惑になるだろうと思って、私は店の外に出た。

「・・・ええ。では小林さんにごめんなさいと伝えて・・・ふふっ、そうね。ええ、では」

電話を切ると、目の前に二人の男性が立っていた。店に用があるのかと気にしないでいると、どうも私の前から動くつもりがないようだ。

「何かご用でしょうか?」

「その制服、ルチアナの子っしょ。あそこの子がこんな店使うなんて珍しいからさー。良かったらちょっと話でもどうかと思ってさ」 

「そうそう。俺ら面白いとこ一杯知ってるからさー。良かったら案内とかしちゃうぜ?」

何のことかと思ったが、つまり社交辞令の一種ということだろうか。ルチアナの制服は目立つとは聞いていたけれど・・・。

「声を掛けてくる蛮勇は大したものですが、わたくしにしてもこの店にしても、そこまで莫迦にされるものではないでしょう・・・退いてくださいます?」

「はぁ・・・?」

私の言葉に、男たちの表情が不機嫌そうに歪むーーテレビドラマでしか観たことがないような醜い表情に、正直気分が悪くなる。

「どーゆー意味だそら、あ?俺たちがこの店以下だとでも云うつもりか?」

「見ず知らずの女性に向かっていきなり凄んで見せるような人間が、真面目に営業している店舗と同等かくらい、少し考えればわかりそうなものですが」

「ってんじゃねぇぞこのアマァ・・・!!」

次の瞬間、激昂した男が腕を振り上げたーーさすがに恐怖で目を瞑ったのだけれど、何故か殴られる衝撃は訪れない。

「ーー見ず知らずの女性に手を上げるなんて、一体どういう了見でしょうか?」

ーーその声に恐る恐る目を開くと。

「深月ーーさん」

眼の前には、殴りかかってきた男の腕を掴んで、危なげもなくひねり上げる深月さんの姿があった・・・!

「ぐぁ・・・あだ、あだだっ・・・!!」

「大丈夫ですか?姫依さん」

「え、ええ・・・」

何なの、これ・・・私は夢でも見ているのでしょうか・・・?

「良かった。では、110番に電話をしていただけますか」

「え?あ、はい・・・っ!」

そんな一瞬の呆然も、深月さんの笑顔で吹き飛ぶーー握りしめていたスマートフォンに慌てて跳びつく。えっと、110番を・・・。

「くっそ、フッざけんじゃねぇぞ・・・!」

スマートフォンを持った私を見て、男が乱暴に腕を振るうーーすると拘束が解けて、男たちは慌てて走り去ろうとする。

逃げ出す男たちを深月さんは眼もくれず。私にそっと微笑むと、私がダイヤルしようとしていた指を包み込んだ。

「え・・・っ!」

「もう大丈夫です・・・警察を呼ぶと云ってやれば、まあ普通は逃げますから」

「あっ、は・・・はい・・・」

私は、自分に突然巻き起こった、その不思議な胸の高鳴りに戸惑っていた。

男の醜悪さにさらされて、怯えるように打ちがなった早鐘とも違うーー何か、居ても立ってもいられなくなるような、それはそれは奇妙な高鳴りだった。

「・・・姫依さん?」

「はっ、はい・・・っ!えっと・・・?」

深月さんに顔を覗きこまれて、私は思い切り取り乱してしまった。

「いえ、食べ掛けをテーブルに置いてきてしまったのですが・・・どうしましょうか」

「あっ、そ・・・そうですわね。えっと、ですが・・・」

お腹より、も胸が一杯でーー私は何も考えられなくなっていた。

「あの・・・もう、良いですわ・・・」

「ん、そうですか・・・じゃあ、ちょっとテーブル、片付けてきますね」

「はい・・・あっ、いえ、わたくしも參りますわ・・・!」

店の中に戻る深月さんに驚いて、私も店に、慌てて付いて戻ることにした・・・。

深月さんは、私を気遣ってか、一緒に駅まで送り届けて下さって・・・それがとても嬉しかった。

「どうですか。徒歩での通学、まだ頑張ってみますか?」

「ええ。寧ろ、やってみなくてはと・・・そう思いましたわ。だって、半数以上の生徒は普通に徒歩で通学しているのですから。つまりそれはわたくしに隙があったということなのでしょう」

「・・・そうですか」

「それよりも、深月さん・・・今日はありがとうございました」

「いいえ。私も楽しかったですし」

「わ、わたくしも楽しかったです・・・いえ、そのことではなくて・・・」

そうではなくて、私の為に深月さんを危ない目に遭わせてしまって・・・私は、それを謝りたかったのだけど。

「・・・ああ、さっきのことでしたら気になさらず。寧ろ、この場にいられて良かったです。姫依さんが嫌な目に遭わずに済みました」

「深月さん・・・」

「私、以前の学校では痴漢が多いと悪評高い路線で通学していましています・・・痴漢よけにと習ったのです。護身術を」

何事もなかったかのように微笑まれて・・・どうしてなのだろう、こんな人がいるなんて。まるで・・・。

「そうなのですか・・・凄いですわね、女の身空で」

「ええと、女だてらに武道なんて、やっぱり引いてしまいますか・・・?」

私の言葉が足りなかったのか、深月さんはちょっと困ったようなお顔をされて、違うの、そうではなくて・・・!

「え・・・っ、いえ・・・その、まるで王子さまのようで素敵だったな・・・って・・・!」

「は・・・い・・・?」

はっ!?いま、私は一体何を・・・?

「ぃひぇっ!すみませんっ!わっ、忘れてください・・・っ!」

「あ、いえ・・・はい」

何か、おかしな声が出てしまった。深月さんは首を傾げていた・・・き、聞こえなかったのかしら?そうよね?きっとそうよね!?

ああ、私・・・もう、恥ずかしくて・・・。

どうして、こんなに頬が熱くなって・・・。

「あ、あの・・・深月さん、その」

「・・・・・・・?」

どうしよう・・・けれどどうしても、もう一度言葉にしておきたい。いいえ、今度は本気で、私がーー私から、お願いしなければ。

でも、私の我儘で迷惑までかけてしまったのに・・・嫌だと云われたら。

ーーそれでも。どうしても。

「わっ・・・わたくしと、おっ、お友だちに・・・なって下さい・・・っ!」

「・・・姫依さん」

ーー驚かせてしまっただろうか。

だけど、本当に仲良くしたい、一緒にいたいって・・・そう思ってしまったのです。その気持ちに嘘はつきたくない。

声を張り上げて、みっともなかったかもしれない。深月さんは困っているかもしれない。

そんな恥ずかしいくらいに必死な私を見て、深月さんは。

少しだけ、表情を崩して、優しく微笑んでーー。

「・・・何を云っているんですか。私たちは、もうお友だちでしょう?」

「っ・・・・・・!!」

その言葉を聞いて。

安心と喜びで、胸が溢れたような気がした。

「泣かないで、姫依さん」

「あらっ、わたくし・・・泣いて・・・?」

気付けば、深月さんがハンカチーフを出して、私の頬を拭ってくれる。

自分の頬を零れ落ちた涙の雫に、ちょっとだけ驚いたけれど・・・夕暮れの紅い光に照らされた、深月さんの優しい微笑みがたまりに嬉しくて。

私は、ただ声もなく俯くことしか出来ずにいた。

「ごきげんよう、深月さん」

「ごきげんよう」

ーー駅の改札で、深月さんと別れを告げた。

切符の買い方まで教わって、少し恥ずかしかったけれど。

ですが、それさえも嬉しくて。ドキドキして。

別れたばかりなのに、直ぐに逢いたくなってしまう。

こんな気持ちになったのは、きっと初めてなのではないかしら・・・。

・・・今は。

深月さんに云われた通り、家への最寄り駅で、降り損なわないように気をつけなければ・・・だって。

私ったら、こんなに足元がふわふわして。

まるで、雲の上を歩いているようで、全くおぼつかないのだから。


 「ごきげんよう、深月さん!」 

「ごきげんよう、姫依さん」

ーーそれからというもの、私の世界の色はすっかりと塗り変わっていた。

「どうですか。徒歩での通学に変えてしばらく経ちましたけれど」

「ええ。やっぱり車の硝子に仕切られて見る景色と、実際に歩いて見る景色には、大きな隔たりがありました・・・たかが硝子と侮るべきではありませんねーー景色だけの問題ではなくて・・・自分の足で歩くと、これだけ時間がかかるとか。こんなに天気が良いのに、朝方はまだ肌寒いのね、と云ったような。人として暮らしていれば当然に持っているはずの知識が、幾ばくか私には欠けている・・・そのことを、徒歩での通学はわたくしに教えてくれていますわ」

「なるほど。便利にも不便なところはあるのですね・・・ちょっとおかしな日本語ですけれど」

「便利も不便も、範囲と集合を表すことばですわーーだからどちらの範囲にも入る事象が存在することは、決しておかしなことではないと思いますわよ?」

ーーそんな、深月さんとのちょっとした言葉の遣り取りが本当に楽しくて。

「ですが、それを知る事ができたのも深月さんのおかげですわ」

今更なのかもしれない・・・けれど今、私の毎日は驚くほどに輝いている。

それは深月さんのおかげであることに間違いはないーー口にしたら、貴女はまず間違いなく、首を横に振るでしょうけれど、ね。

そして、休み時間ーー。

「・・・深月さん、こんなところにいらっしゃった!」

「姫依さん」

それでも、どうしても伝えたい。

「ね、深月さん」

「なんでしょうか」

「ーーわたくしは今年一年、思ったことを素直に実践してみようと思うのです!」 

「姫依さん・・・」

「自分の足で登校してみて、思ったのです。わたくしはあまりにもものを知らなすぎる。自分に嘘をついて良い子ぶったところで、わたくしにもお父様にも、きっと良い事は何もないとーー解っていたつもりでした。けれど、そうではなかった」

深月さんに『何もしなくても良いのではないか』そう云われるまで、私は結局、『お父様の為に何かをしなければいけない』・・・そんな気持ちに囚われていることにすら気付かなかったのだから。

「お父様がわたくしに求めていることは、きっと『思い通りに動く人形』ではなくて『考えて動くわたくし自身』・・・それが今なら、深月さんと出逢った今ならーーきっと、実現できる気がするのです!」

ーー大分、身勝手なことを云っている。それは理解している。

元々深月さんには何の関係もないことなのだから。

「私はそんな大層な人間ではないと思いますが」

私が吐き出した、総ての言葉をゆっくりと受け止めて、深月さんは微笑んだ。

「そばで話を聞くくらいなら、私にもできるかもしれませんね」

深月さんが柔らかく微笑んでくれたその瞬間に、鐘が響き、鳥たちが羽ばたく。

それはまるで、ここから始まる何かを予見させるような、そんな光景だったーー


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