一歩を踏み出す勇気
そして、私と深月さんは中庭へやってきた。
「良い陽気ですね」
「ええ、本当に」
少し陽射しが強いくらい。お陰と云うべきか、中庭には人影もない。
これなら生徒たちの耳を気にすることもないかしら。
「そう云えば、昨日はここで随分と熱心に祈っていらっしゃいましたね」
ああ、そうでした。
私は、深月さんとお友達になりたいのでしたわ。まずは私から。
「・・・ご興味、ないかもしれませんが少しわたくしの話を聞いて頂いてもよろしいでしょうか?」
ーーだから、私を伝えるべきだ。そう思ったのだ。
「私で、よろしいのですか?」
深月さんから、気遣うような素振りが窺える。それはそうだ、何しろ会ったばかりなのですから。
「深月さんに聞いていただくのが良い。そんな気がするのです」
私を知ってもらい、深月さんを知るためには、この話を思い切ってするのが良い・・・不思議と、そんな確信が浮かんだから。
「ご存知かもしれませんが、わたくしの父は花桜グループという企業体の、総帥のような立場におりますの・・・」
昨日悩んでいたことを、初対面同然のこの人に打ち明けてみることにした。
「父は『好きにしていい』と云いましたが、わたくしは父の後継者候補です。言外にわたくしを試しているーーいえ、わたくしと云う人間を見極めようとしているのだと、そう直感しました」
私は深月さんに、『今年一年好きにしていい』という言葉について、素直に打ち明けてみた。
「・・・面白いお父様ですね」
深月さんは穏やかにそう答えると、黙り込んだ・・・考えて下さっているのだろう。
私と深月さんの暮らしている世界には、きっと大きな隔たりがあるのだから。
「・・・それで、姫依さんは自分が特にしたい事を思いつかないのですね」
「ええ。お恥ずかしながら」
「・・・してみると、姫依さんはお父様がお好きなのですね」
やがて、何らかの解を見つけたのか、深月さんは私の顔を見つめながらそう答える。
「え?ええ・・・確かに父は好きですが」
「これはただの想像ですから、吟味は姫依さんにお願いしたいのですが・・・今悩んでいるのは、『姫依さんご自身の為』ではなくて、恐らくは『お父様の為』ではないでしょうか」
「深月さん・・・」
云われてみて驚いた。何となれば、確かに云われている意味を理解できたから。
「お父様にどう思われるかを気にしなければ、お父様のご下命には、特にしなければならない『何か』がありません。つまり、何もしなくて問題はなさそうです」
「そう、ですわね・・・」
「だから、姫依さんが本当に気にかけているのは『何をすればいいか思い浮かばない』ではなくて、『何かをしなければいけないけど、どうしよう』ということではないでしょうか。つまり本当は、『お父様に喜んでもらうために、何をすれば良いのか』という悩みなのではないか・・・そんなふうに思えるのです」
・・・確かにそうだ。
『好きにしていい』ということは、つまり『何もしなくてもいい』ということーーけれど、私の頭の中にはその選択肢が最初から存在していなかった。
『父からの評価をどう受けるか』という、隠された目標が、私の眼を最初から覆っていた。
私は、父に嫌われるような行動を最初から除外して考えてはいなかっただろうか?
「深月さんは、明晰な方ですのね」
目から鱗と云うのは、こういう事を云うのだろう。私が感心していると、当の深月さんは困ったように笑った。
「そういう大層な話ではなくて。庶民の私としては、何もしなくて済むのならその方が楽かしらって・・・それだけなのですが」
「まあ・・・」
それが謙遜であれ、和ませる為の冗句であれ、深月さんは私にとって好ましい人だーーそう思えた。
「ですが、どうして『庶民としては』なのですの?」
「・・・お買い物に行くと、お金がかかりますよね?お洋服にせよ、食べ物にせよ」
「え?ええ・・・」
「ですが、家で読書をすればお金は本一冊分で済みますから。さらにお昼寝をしてしまえば今度は本代すらいらなくなります。実質無料です」
「ふ、ふふっ・・・」
そんなことを、自信満々に云うものだから・・・私はつい笑ってしまった。
「姫依さんが、お父様の為に悩むようにーー庶民というのはお金に縛られてるものですから」
「いやですわ、もう・・・絶対、狙ってやってらっしゃいますわよね、それ・・・」
言葉に馴染まない、優美な顔でそんなことを云うものだから、私は笑いが止まらなくなる。
「はぁ・・・もう、深月さんはいじわるですわね。ですが解ったような気がいたします」
ーー私は、口では自分に素直にと云いながら、心の奥では父様にとっての良い子を演じていたかったのですね。
いえ、それが素直な私・・・と云うことなのかもしれません。
「ですが、それもわたくしが飼い慣らされた証なのかもしれませんね・・・うん!」
・・・決めました。
「わたくしは、もう少し我儘になってみようかと思います・・・庶民ではありませんから」
「姫依さん・・・」
深月さんは、ただ微笑んで・・・自然に私を認めてくださるのですね。
ありがとうございますーー。
「まずはわたくし、深月さんと同じ目線に立ってみたいですわ」
「えっ・・・それって」
「わたくし、いつも車で通学していたのですが・・・今日は、歩いて帰宅してみようと思いますーーずっと、気になっていたのです」
「大丈夫なのですか?お父様がご心配になるのでは」
「父にとっては、きっと織り込み済みであろうと思います・・・でなければ、あの人がこんなことを許すはずもないでしょうし」
「姫依さん・・・」
私は、まず『本当の自分』を見つけるところから始めなければいけないのだとーーそう思う。
「わたくしの、最初の徒歩通学ーー宜しければ、付き合って抱けませんか?深月さん」
それを、深月さんは気付かせてくれたのですわね。
「・・・きっと、それは光栄なことなのでしょうね。解りました」
「ふふっ、ありがとうございます」
ーー父の問いに対して、やっと一歩を踏み出せた・・・私は、そんな気持ちになれたのだった。