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魔剣幽鬼 続・巌流島決闘篇

 慶長十七(一六一二)年、豊前小倉藩某所にて。

「む?」

 夜道にて、浪人が一人。その進む先には一つの影。

「剣客とお見受けいたす……」

 影が腕を伸ばす。手には長尺の得物。月光を浴び、光るその形からそれは刀とわかる。

「ほほう、拙者と手合わせをしたいと申すか……」

 浪人も応じるように腰に差す刀を抜く。

「では受けよう。拙者はいずれ、かの宮本武蔵を越える者。いかなる勝負であろうと受け――」

「武蔵?」

 影が呟く。その声は先程のような低く透き通る声でなく、地獄の釜が煮え滾るが如き怨嗟のしゃがれ声。

「武蔵、武蔵、武蔵武蔵武蔵武蔵武蔵むさしむさしむさし――」

「な、何だ?」

 目の前の存在の変わり様に浪人が気圧される。

 影が長刀を振るう。

 己がいるは長尺と言えど、間合いの外。斬られることは――。

「あれ?」

 視界がずれる。ずるり、と影が遠退く。ずるり、と目の前に自身の背中、腰、足。

「あら?」

 視界がいきなり低くなり、目の前には横たわる自分の身体。

迫ってくるは構えを解いた影。眼前へと迫ってくる影の足。

それすなわち蹴り。蹴鞠の如く、浪人の意識はこの世から消え去った。

「武蔵、むさし、武蔵むさし……」

 呟き影は消えていく。

 舟島――後に巌流島と呼ばれる島で決闘が行われた、数日後のことであった。




「舟島での決闘?」

「ああ、聞いたことはないか?」

 場所同じく小倉藩。時は昼時、人里離れた野道を歩く二人の男女がいた。

 女は一見どこにでもいそうな、それこそ城下町を歩く町娘のような見た目をしていた。ただ目が刃のように鋭く、彼女が町娘でないことを感じさせる。

 男の方は容貌すべてが特徴的であった。まずは髪。うなじで一つ結びにまとめた長髪は白と黒の二色。瞳は赤く、肌は血色が薄く白い。道ですれ違うものたちも奇異な目を必ず向ける。

 男の名は幽哭ゆうこく。ある界隈にて『妖魔斬り』と呼ばれる浪人である。伴侶探しの旅をしている。

 女の名は飯綱いづな。明智に仕えていた忍の残党の元くのいちの情報屋である。情報集めの旅をしている。

 彼らの関係を一言で表すならば、腐れ縁である。

 簡潔に言えば、幽哭は明智光秀の死に深く関わっており、ゆえに明智の者たちからは恨みを買っていた。そして忍の残党たちが挙って命を狙いに来ていた。幽哭はその刺客をことごとく撃退。つい四、五年前にその残党も一人を残して潰えた。

 そしてその残った一人こそ、飯綱である。彼女は残党の頭領の娘であった。しかし彼女が物心つく前に明智は衰退し、彼女はよく知らぬ主のための敵討ちにてんで興味がなかった。父や仲間の死も同じく。無意味なことに執念を燃やし、無意味に死んだとしか思っていない。ゆえに幽哭に対して思うところは特にない。

 飯綱は特に敵意なく、幽哭は襲わぬのなら斬らず。そんなこんなで腐れ縁。此度も旅の道中、小倉に入ってすぐの茶屋にて偶然再会した始末。

 せっかくなのでと幽哭は初めて訪れるこの地の話を飯綱から訊くことにした。

「何だ貴様、知らんのか? 仮にも剣客であろう?」

「生憎、俺は帯刀しているだけで剣術の心得は一切ないのでな。剣客とは言えんだろうな」

「……まぁ、ここで剣客の定義について話す気は毛頭ないからいいが、話を戻すぞ」

 ここ最近での豊前小倉、その話題となれば一月前の舟島の決闘。

 宮本武蔵と佐々木小次郎。剣豪二人による果し合い。それが行われたのがここ豊前小倉藩にある舟島であった。

「はぁ、そんなことがあったわけか」

「あぁ。しかしここからが妙な話になっていてな……」

「ん?」

「その決闘翌日からな、毎夜ここ周辺で辻斬りが起こっているらしい」

「辻斬り?」

「あぁ、辻斬りだ」

 曰く、舟島での決闘以降剣客が毎夜斬られることが続いている。

 曰く、標的は剣客全てらしく藩士、浪人関係なく斬られている。

 そのような様々なことが囁かれていた。

「はぁ、そいつぁ、くわばらくわばら」

「怖れているようにはまったく見えんが……」

「それなりに修羅場は踏んでいるからな。辻斬り一人どうとは思わん」

「なるほど。だが、どうもこの辻斬りはただの辻斬りではないらしい」

「ほう?」

「何でも、その辻斬りは怨霊である、と言われているらしい」

「ん? ちょっと待て。何だ? その辻斬りから生き残ったやつでもいたのか?」

「いや、これは辻斬りにやられた者と同行してた女の話だ」

「そいつは斬られなかったのか?」

「あぁ、この辻斬りは剣客だけを狙っているらしい。それで、その生き残った女の話によるとだな……」

 その辻斬りの姿は夜闇に溶ける影のようであった。しかし月光に照らされ、微かながらに容貌を見ることもできた。

 服は絢爛な羽織。それがところどころ血や土に汚れ、裾は破れボロボロとなっていた。

 顔は見えなかったが、髪は長く肩を越える長さ。その髪もまた汚れ乱れていた。

 そして手に持っていた一振りの刀。月光を浴び、月のように輝く刃。それは通常の刀より長く、鋭く、美しく、禍々しかった。

「……ということらしい」

「何だ? えらく細かくわかってるじゃないか」

「まぁ、その女というのが私だからな」

「……」

 飯綱の話を聞きつつ足を進める幽哭。しばらくして分かれ道へとたどり着いた。

「さて、私はこちらに用があるが貴様はどうする?」

 飯綱は右への道を指差す。幽哭はそれに対し、顎に手を当てしばし考える。

「ふむ……。まぁ、着いていく理由もなし。オレは左へ渡るとしよう」

「そうか。ではな、怨霊にご用心をな。『妖魔斬り』殿」

 そう言って飯綱は右の道へと足を進めていった。

 幽哭もまた左の道を進んでいった。


・・・・・・・・・・・・


 飯綱と別れ、しばらくして夜のとばりが下りた頃。

「……何でこうなるか」

 道の先には月を背にこちらへと仁王立ちをする影。おそらくこれが件の辻斬り怨霊であろう。

 否、幽哭には間違いなく怨霊であると分かる。何故ならば、この気迫、気配の禍々しさ――これを彼は知っていた。このような、人から蘇り化外魍魎となった存在を知っている。目の前の存在はそれと同じ気配を放っていた。

「剣客と、お見受けする……」

 怨霊が問い掛けてくる。違う、と言っても無駄ではあろう。何せ、今自分は帯刀しているのだから―怨霊の物差しは知らぬが―剣客としか見えないかもしれない。

 怨霊は返答を待たず、得物を構えた。抜身の刀、その刃は長く、刃渡りは目測で約三尺(九十センチ)。月光の後光で表情は暗く、影になっている。しかし、幽哭にはその表情が見えた。

 怨霊は嗤っている。嗚呼、斬れる。嗚呼、殺せる。まるでそのように充血した眼は湾曲し、口は三日月のように。

 幽哭は何も言わずに、腰に差した刀を抜く。曰く、天狗から授かりし無銘の名刀。長き時を共に旅したこの愛刀。いかに怨霊、化外、怪異と言えど遅れることはなしと自負している。

 幽哭が抜刀すると、怨霊はその表情をさらに歪ませる。柄を両手に持ち切っ先を目線に――構えは正眼。

 表情の変化を視認しつつ、幽哭もまた構える。両手で柄を握りしめ身体の右へ――構えは八相。

「幽哭」

「――むっ」

「名乗れ、怨霊。命かけて仕合うなら、礼儀だろう」

「あぁ――」

 その言葉に、さらに愉悦に歪む。

 名乗り。死してなお、人を捨てなお、辻斬りに堕ちてなお、この瞬間はとてつもなく誇らしい。

「佐々木、小次郎。いざ、参る」

 瞬間、切っ先が幽哭の眼前へと迫る。一足飛びで距離を詰め、長刀の長さを利用し、一気に間合いへと入れられた。

 幽哭は突きを咄嗟に右に避ける。鼻先を掠めるが、怨霊―佐々木小次郎の背後へと回る。

 背後へと八相の構えからの薙ぎ一閃。突きの勢いはそのまま。一瞬にて勝負を付ける。

――ガキィンッ

 しかし幽哭の一閃は上へと弾かれる。視線を下げれば、小次郎の愉悦に歪む笑み。

 突きの勢いのまま、避けられた瞬間に足を浮かせ一回転。そしてその勢いで切り上げ、否、地にわざと刃を刺し、その反動を利用して斬り上げた。

 その刹那の空中、さらなる追撃。小次郎は回転の一瞬の勢いで幽哭の左腹へと刀を薙ぐ。幽哭はその斬撃を差した鞘で受け、勢いに流され飛び退く。

 小次郎はそのまま着地。幽哭は飛び退き、地に片膝をつく。

 鞘で防ぎ斬られなかったとは言え、衝撃はそのまま腹に、内臓にと届いていった。腹からせりあがる血が一筋、口の端に流れる。弾かれた刀を握っていた両手も微かに痺れる。

(なるほど……剣豪となれば、化外となった際の膂力も違うか)

 口元の血を拭い、立ち上がる。小次郎はそれを待っていたかのように、先ほどのように正眼の構えを取る。人でないと言えど、一応は果し合い、正々堂々の勝負をお望みらしい。

 しかし、それは幽哭にとって不利であった。今までに幾度となく命を懸けた斬り合いをしたことあれど、それは全て素人からそこそこの腕を持つ者に対してのみ。武芸者相手もせいぜい合戦に繰り出される兵ぐらいである。

 この化外、佐々木小次郎はおそらく今までの相手とは違うと本能的に解る。この男は間違いなく剣豪と呼ばれる達人。剣技もその域へと達している。早い話、自身の力量では足元にも及ばない。己の剣は雑魚と妖魔専門である。しかしその妖魔が自身の上を行く剣士であればどうであろうか。

「あぁ、くそ……っ」

 悪態をつきつつ構える。それと同時に繰り出される剣戟。

 切り落し、切り上げ、横薙ぎ、突きと続く剣閃の紡ぎ。一見、互角に見える。しかし実際のところは、幽哭が不利になっていた。剣の達人とでは技量がまず違う。それに加え、相手へと踏み込み、斬りこむことが出来ないでいた。

三尺の長刀――備前長船長光、「物干し竿」と呼ばれる佐々木小次郎の愛刀。

 三尺という刃渡りが生み出す剣戟の間合いはある種の結界。間合いに入りし刃は弾き、人は斬り伏せる。その一閃には無駄がなく、確実なる斬撃が組み込まれた動き。舞踊が如き、刀剣芸術。

 得物と技術。その二つが合わさり、攻防一体の剣技となり、幽哭は攻めあぐねていた。そして押され、防戦に。

「――ぐっ!?」

 そして勝負の流れはそのまま、勢いを増していく。

 小次郎は構えを上段へと瞬時に変え、そのまま雷が如く切り落す。幽哭は頭上へ落とされる刃を刀で受け、押し返すように止める。

「…………っ」

 剣戟の受け流しから鍔迫り合いへと。しかしそれも幽哭には不利でしかない。小次郎は上段から下段へと刀を下ろし、幽哭は下段から上段へと刀を上げる。幽哭が己の膂力のみで対抗するに対し、小次郎は己が膂力に加え、体重を乗せていき徐々に幽哭の刀を押していく。

 このままでは押し負ける。幽哭は柄から右手を離し、刀身を殴りあげる。

 ――軽い。しかし、軽い。

鍔迫り合いは己が膂力と相手の膂力を刀に与え、一歩も引かぬという立ち合い。引けば死ぬ、故にその刀身への力は重きもの。故に膂力だけでは押し負けると、無理矢理にでも押し上げんと刀身を殴り上げた。

この膂力のぶつかり合いゆえに、拳の抵抗は重いもの。だが実際は軽く、己が刀もあっけなくバネのように上がった。

見れば小次郎は刀を左へ、下段に構えていた。幽哭が殴り上げる瞬間に、刀身を離し構えていた。抑えていた刃が失せ、抵抗なく刀は殴り上げられた。その反動は大きく、幽哭の胴はがら空きとなる。

狙いは胴の右。刀は大きく上に逸れ、刃を防ぐ鞘もなし。

振るわれる一閃。

幽哭はそれを咄嗟に右腕で防ぐ。

しかし、それは無駄なこと。胴を両断せんとする一閃を、右腕一本が防げることはなし。刃は加速し、薙ぎ払わんと振るわれる。

刃は防ぐように構えられた右腕へと到達する。

皮膚を破り、肉へと食い込み、血が噴き出る。幽哭の表情が苦悶に歪む。

物干し竿の刃は進む。幽哭の右腕の肉を切り、骨を断――。

「っ?」

 断たない。骨が断てない。肉から骨へと到達する僅かな狭間。そこで刀身が止まった。否、止められた。

 その一瞬、幽哭は右腕を振るい食い込んだ刀を弾く。左手に持つ愛刀を振るう。

 小次郎は後退し、振るわれる剣戟を避ける。距離を取り、物干し竿の刃を怪訝そうに見る。刃こぼれはなく、血は付着している。では、なぜ斬れなかった。

(否、それはどうでもいい)

 斬れなかったならば、今一度斬るのみ。己が絶対の技にて。

 幽哭は再度構える。剣戟の連続の受け流し、鍔迫り合い、そして右腕への斬撃。腕が痺れ、右腕からは流血。これ以上長引くのはまずい。

「ちぃっ……」

 感覚の薄れる右手へと力を込め、小次郎を見据える。

 小次郎もまた構える。その構えは中段でも上段でも下段でもない。刀の切先を幽哭へと向け、刀と己を並行に。腰を落とし、刃を天に向ける。

 一見、それは突きの構え。幽哭との距離は完全なる間合い外。ならば考えられるは突きと同時に駆け出す刺突。化外となりし膂力からの突きとなれば、おそらくそれは一点を斬るのでなく一点を破壊する威力となろう。

 ならば、と幽哭は両手に力をさらに込め、その一撃を待ち構える。小次郎の膂力を受けるは愚策。であれば、その膂力の勢いを利用するのみ。突きとともに放たれるその身体を避け、刀を薙ぎ肉を両断する。

「行くぞ……」

 小次郎の気迫が変わる。強くなる。

 来る、と幽哭は目を限界まで見開く。回避の瞬間を違えてはならない。違えれば、己は死ぬ。幾度となく死線はあったが、これほどまでに死を意識せざるを得なかったのは、これで三度ほど。ならば今宵もまた生き残らんと心中に期する。

「――――」

 だが、小次郎は動かない。気迫が増す。もはやそれは剣豪ではなく剣鬼。尋常ではない殺意がまさに刃のごとく、視線を通して貫かれる。

「――っ」

 小次郎が動いた。しかし、それは足ではなく腕。

 その動きは突きではなく、薙ぎ。幽哭の立つ間合い外へとは当然届かぬ動き。

 だが、それに幽哭は死を感じた。浮かぶは幻影。首から血が溢れ、落ちる自身の頭。

「魔剣――」

 不味い。と動いた時には既に遅かった。

 一閃。その場から動かずにいた小次郎の放つ一閃。それは既に、無意識に背後へと動いた時には放たれ――。

「――燕返し」

 右腕が斬り飛ばされた。思わず後退し、体勢を崩し首の位置は無意識にずれた。その結果、右腕と刀が肉体と分断させられた。

「……っ」

 右肘から先が軽くなり、灼熱がじわりと染み込むように、激痛が走る。

 その一瞬、小次郎が迫る。一歩、二歩、飛ぶように。

 幽哭は咄嗟に地に落ちた右腕を蹴り飛ばす。

 小次郎は蹴り飛ばされたそれを、刀を持たぬ左腕で弾く。

「ぬっ!?」

 その瞬間、右腕が爆ぜた。風船のように、ではなく内側から弾け飛ぶように。視界が赤で染まり、小次郎は動きを止めてしまう。

 すぐさま血を拭い、幽哭を見据える。しかし、幽哭の姿はなかった。

「……あ?」

 幽哭、生き残るために勝つのではなく、逃亡を選択。


・・・・・・・・・・・・


 右腕を斬り落とされた瞬間から、勝利し生き残る、ということは不可能であるとすぐさま理解した。どのように策をめぐらせ、どのように不意をつこうと、あの剣豪化外には無意味であると直感からわかった。

 故に右腕を犠牲に逃走し、駆けることどれだけか。

「…………どこだ、ここ」

 知らぬ天井が見えた。畳が敷かれ、襖に囲まれた旅籠の一室らしき場所。幽哭はその一室で横になっていた。薄い布団の中で、右腕も傷口には包帯が巻かれている。

「目覚めたかな、妖魔斬り殿」

 声のした方へと首を動かし、目を向ければ飯綱がいた。

「……何でいる?」

「それはそっくりお返ししよう。今朝方、騒がしいと思えば見知った顔が右腕を失くし旅籠の前に倒れていたのでな。捨て置くのも夢見が悪いから、簡易的に治療ぐらいはしてやった」

「……かたじけない、感謝する」

 礼を述べ、刀を取ろうと上体を起こす幽哭。

「おい、俺の刀――」

 ひゅん、と。

 眼前をクナイが通過した。

「……何だ?」

「おいおい、妖魔斬り殿。礼を言って終わり、というのは寂しいじゃないか。この命を助けた借りは返してもらわんとな」

 飯綱はクナイを片手で弄りながら幽哭へと歩み寄る。そしてクナイを幽哭の右腕へ、右腕のあった個所へと落とす。

 とすっ、と布団を突き破り、畳に突き刺さる。

「この貴様の状態と、そうした者に関して話してもらおうか」

「……まぁ、いいが」

 幽哭は言われたとおりに昨夜のことを話す。

「――というわけだ」

「なるほど。かの怨霊は、あの佐々木小次郎であると……。しかし、まぁ、そういった化外相手に敵前逃亡とは名前負けじゃないか?」

「知らん。そもそもあれには俺は勝てん。勝てん戦いに身を投じるほど愚直ではないのでな」

「ふむふむ。かの妖魔斬りでも勝てないと。それほどまでに強いのか?」

「ああ。達人の剣術に加え、化外の膂力。実際に立ち合えばわかるが、この二つが合わさればなかなかに恐ろしい」

 それに、と幽哭は続ける。

「もし俺があの佐々木小次郎以上の技量を持っていようと、あれに勝つことはできん。いや、正確には殺すことはできん」

「……どういうことだ?」

「あの化外は幽霊といった類ではないが、あながち怨霊というのは間違いではない。以前、似たような死者が生き返った化外というのは遭ったことはあるが、あれはそれと違う。あれはまさに遺恨と怨念で動く鬼だ」

 たとえばと続く言葉。

 以前対峙した似たような存在。死人が生き返り、化外となった存在。その時は日本を支配し統一せんとする、魔王のような男とその志に賛同する者たちであった。それらは野望のために復活し、野望を成し遂げんと化外になっていた。それは人間であった頃と変わらぬ原動力。ゆえに斬れば止まり、死した命は潰えた。

 しかし、此度、佐々木小次郎は違う。あれの気迫から感じたのは禍々しい怨念。人間であった小次郎はどうであったかは知らないが、あの気迫は、怨念の濃さは人のそれではなく。一見すれば自我があるように見えるが、あれは怨念による狂気が一周回り、正常に見えるだけである。

「つまりは、その怨念を根本から晴らさんと駄目ということか?」

「ああ。あの怨念があれの意思であり、血であり、魂だ。たとえ、斬ったとしても意味はない」

 であれば、その根本とは何なのかを突き止めなければ――。

「――だそうだ、武蔵殿」

「……はぁ、そいつは参ったねぇ」

 と、そこへ新たな声。見れば飯綱とは真逆の方――幽哭の死角に一人の男。壁へと背を預け胡坐をかき、手には飯綱が投げたクナイ。

「……誰だ?」

 幽哭のもっともな言葉に男はこう答えた。

「宮本武蔵」


 話を聞けば、どうやら飯綱の仕事の依頼主というのが、かの舟島の決闘の勝者――宮本武蔵であったとのこと。

 その依頼とは、小倉――舟島周辺で起こる辻斬りのこと。武蔵は不穏な予感を感じて、調べてもらったとのこと。

「そしてまさかの予感的中、というわけだ。まさか巌流のがねぇ」

「武蔵殿、心当たりはあるのか?」

「さぁて。真剣勝負をやらずに木刀で頭を割り、隠して弟子を連れて行き介錯をさせたぐらいだが……」

 たぶん、それだろう。幽哭は武蔵の話を聞きながらそう思う。至極当然か、飯綱も同じく。

「存外、姑息な手を使いますな」

「いやいや、オレは兵法家でな。勝つために死力を尽くしているに過ぎんさ」

「物は言いようだな。わからんでもないが」

 それはさておき、と武蔵は続ける。

「とにかく、要はオレがその怨霊となっている原因であるかもしれないのだろう?」

「まぁ、端的に言えばな」

「で、あれば解決するにもオレの腕が……おっとすまん」

「ん? あぁ、気にするな。とりあえず腕云々ではなく、お前という存在が重要ではある」

「で? どのようにすればいい?」

「えらく乗り気ではあるな……」

「もし此度の辻斬り騒動がオレのせいであるとなれば、オレの剣名に傷がつくかもしれんしな」

 なるほど利己であったか、と納得し幽哭は方法を教える。

 重要であるのは人物、場所、そして行為。

 人物は今しがた言った通りに宮本武蔵。次いでは場所は、死に場所であり決闘の場であった舟島。行為は無論、決闘そのもの。

 要は舟島にて、再度決闘を行ってもらうということである。人間、宮本武蔵と化外、佐々木小次郎の再決闘。

「……それ、オレが勝てば解決するのか?」

「いや、要は決闘すればいい。お前が勝とうが負けようが結果はどうでもいい」

 そうかい、と武蔵はぼさぼさの髪を掻く。幽哭にしてみれば、元はと言えば原因の男がどうなろうがはあまり興味がなかった。

「で、どうやって巌流のを舟島まで?」

「それは説き伏せる他ないな」

「誰がだ?」

「それもお前がやれ、と言いたいところだが無理かもしれんな」

 怨念の標的が目の前に現れ、怨霊は落ち着いて話を聞くであろうか。否、聞かないだろう。

 では、と飯綱へと目を向ける。

「断る。私は怨霊には関わりたくないのでな」

 即答であった。


・・・・・・・・・・・・


 結局、また小次郎と対面する羽目になった幽哭。昨夜の斬り合いの場へと向かい、そこから自身の血の匂いを追って足を進める。血で染まった白い着流しは旅籠や道中すれ違う者から奇異な目で見られるが気にすることなくゆるりと歩む。そして血の匂いを辿り、道を外れた雑木林を歩くことしばらく。

「ああ、数刻ぶり」

「……」

 すぐに佐々木小次郎は見つかった。雑木林の木々のうち一本の根元に腰を下ろし、幹へと背を預けている。幽哭の声に閉じていた目を開けるが、幽哭の姿を見てまたすぐさま目を閉じる。

「おや、今度は斬りかからんのか?」

「……逃げ出すような輩は斬るに値しない」

 興味が丸っきり失せたというように口にする小次郎。

 その姿を幽哭は意外に感じられた。昨夜の一戦や件の辻斬りなどは言うなれば八つ当たりのようなものと考えられた。怨霊が、怨念を晴らすことができず周りへと被害を及ぼす傍迷惑なもの。だからまた下手すれば一戦交えることになるかもしれない、と幽哭は考えていた。しかし実際には、勝手な基準ではあるが斬るに値する云々というものはあるらしい。怨念の中にも意外と人間であった名残はしかと残っているようだった。

 であれば、話は早い。とっとと要件を伝えることにする。

「舟島」

「…………っ」

 微かにだが反応を示す。

「かつての決闘の場。今宵、そこに来てもらいたい」

「…………」

 小次郎は言葉を発さない。しかし何故だ、と言わんばかりの雰囲気は見て取れた。

「宮本武蔵」

「――――」

 その名に、小次郎は目を見開いた。

 その目に映るは、怨念、遺恨、そして狂喜。

「その男もまた、今宵舟島に現れる。再決闘をしてもらうというわけだ」

 ではな、と幽哭が伝えるべきことは伝えたと踵を返す。

「待て」

 それを小次郎は止める。

 小次郎の呼びかけに幽哭は振り返る。その眼前に、刀の切っ先が迫っていた。

「……何だ?」

「貴様の言葉を信じて、今宵向かってやる。もし虚言であれば、今度こそ殺すが……一つ、話を聞け」

 眼前に刃があってはこちらに選択肢はないだろう、と幽哭は小次郎の話を聞くことにした。

 そして話を聞き、数刻後。

 夜の帳が下りる頃合いにて、幽哭、武蔵、飯綱の三人は舟に乗り、波に揺られながら舟島へと向かっていた。

「……お前、怨霊とは関わりたくないのではなかったか?」

 幽哭が舟を漕ぐ飯綱へと訊ねる。

「何、あの宮本武蔵と佐々木小次郎の再決闘を目にするのはなかなかに面白そうであるしな。侍でないにしても、見てみたさはある」

 それに、と言葉が続く。

「武蔵殿には仕事の延長を頼まれたのでな。いざという時には決闘に介入してほしい、と」

「…………」

「まぁ、保険だよ保険。オレはこんなところで死にたかないし、使える手は全部使う兵法家だし」

 兵法家とは便利な言葉だ、と幽哭は思わずにいられなかった。

 それからしばらく波に揺られ続け、舟島へと到着した一行。

 その浜には影が一つ。佐々木小次郎であった。

「ふむ……巌流の、なかなかに雰囲気が変わったな。以前は鋭い刀のような男であったが、今ではよく斬れる錆びついた刀のような男よ」

「…………」

 小次郎は仁王立ちで待ち構えている。唯一の違いは髪を結っていること。それ以外は皆、幽哭が立ち合った時と同じで抜身の「物干し竿」を手に殺気立っていた。

 武蔵も歩み寄り、距離を縮めながら腰に差す二本の刀のうち、一振りを抜刀する。

 武蔵の後ろに控える飯綱もクナイを取り出せるように――。

「おっと、そこまでだ」

 幽哭が左腕で刀を抜き、飯綱の喉元へと翳す。

「……何のつもりだ?」

「佐々木小次郎に頼まれたのでな。決闘に一切介入をするな、と」

 だから介入するのであれば止めさせてもらう。幽哭は喉元に刃を立てたまま移動する。当然、飯綱も同じく移動する。

 決闘の邪魔とならぬように、武蔵と小次郎の二人から離れ見えぬ場へと移る。浜から内陸、内陸の木々の中へと。

 木々の蔭へと入った瞬間、飯綱は刀を手にしたクナイで弾き、一足飛んで距離をとる。

「おいおい、そう警戒するなよ。こっちは余計なことをしなければ何もせん」

「ああ、そうだな。だが、せっかくだ」

 そう言って飯綱は殺気立つ。明確な殺意を幽哭へと向ける。

「……何のつもりだ?」

「おいおい、妖魔斬り。まさか貴様、私の父を殺したことを忘れたのではないだろうな?」

 父を殺した。無論、幽哭は忘れることなく覚えていた。覚えていた上で飯綱との腐れ縁を続けていた。今まで殺意を向けられるということも無かったから。

「そういったものには興味がないのではなかったか?」

「私は忠義による敵討ち、それに興味が無いだけだ。だが、父を殺した者への仇討ちに興味が無いわけなかろう」

「そのような素振りは今まで見せていなかっただろう……?」

「ああ。諦めていたからな」

 二人の腐れ縁も最初こそは血生臭いものであった。

 幽哭の命を狙い、殺し合いへと発展していた。

 しかし何度やっても殺せず、逃げられ、不意打ちをしようとも生き延びられ、いつしかこの男を討つことを諦めていた。

 しかし、今はどうであろうか。この男は万全の状態ではない。右腕を失い、左腕のみで振るわれる刀。右腕がないことで身体のバランスもまた難しくなる。故に戦闘においては今この時は飯綱が有利。そう思い、有利であるならば今こそ仇討ちの時と身構えた。

「ふむ、俺としてはこの腐れ縁は悪いものではなかったが……」

「ああ。私としても悪くはなかった」

 だが、それとこれは別だ。

 飯綱は構えを解かずに幽哭を睨む。

幽哭もそれ以上は何も言わず、左腕一本で刀を構える。腐れ縁であったが、敵となるならば斬るのみ。

ここ舟島で、伝えられることない放浪者とくの一の殺し合いが始まった。


・・・・・・・・・・・・


 一方、浜にて武蔵と小次郎。

「あらあら、行っちまったね」

 姿を消した二人に、武蔵はそのようなことを一人口走る。

 浜にいるのは武蔵と小次郎の二人。しかし、小次郎は武蔵の言葉に反応することなく、ただ睨んでいる。

 その様子に武蔵はやれやれというように溜息をつく。

「巌流のよぉ、前もそうだったが……今はよりつまんねぇな」

「…………」

「同じく剣を高めるものとして悲しいね。オマエは人を捨ててまで執着するとは――」

「黙れ」

 武蔵の言葉を遮り、小次郎がやっと口を開く。

「宮本武蔵。貴様は、俺の死に様に泥を塗りおった」

「ほう? どのように?」

「真剣勝負。俺はそういった筈だ。だが貴様は真剣ではなく木刀で俺と戦い、決闘を侮辱した」

「ああ、だから今度は真剣を手にしている」

「一対一であると言った筈だ。立会人以外に邪魔者は無しであると」

「ああ、だからこそ今はその一対一で対峙している」

「貴様は、弟子に俺を殺させた」

「ああ」

「貴様は、真剣で挑んだ俺の誇りを踏みにじり、決闘の作法を違え、己の手で俺の首を取らなかった……」

 小次郎からすれば、決闘の始末は侮辱のようなものであった。

 武蔵自身が己の手で小次郎の命を絶っていたのならば、彼は敗死を受け入れた。だが、実際に小次郎にとどめを刺したのは隠れていた武蔵の弟子たちである。

 木刀で頭を割られ、血を流しながらも一命を取り留めてしまった。命を絶たなかったのは己に対する侮辱なのか、武士の情けなのか。どちらにせよ、今となってはそのようなことはどうでもよかった。

 だが、決闘相手の弟子、言うなれば決闘を行った者よりも格下の者。そのような者に命を絶たされる。己が力量を上回る敗北を心から認める相手ではなく、己が力量と同格の好敵手でもなく、決闘を行うことなくただ盗み見ていただけの野盗が如き者に命を絶たれる。

――そんな死(終わり)が認められるのか?

 それに対して黒い声が、脳内へと響いた。

――否、認められない。

 と。ならば、一体どうするのか。認めない、認めない。このような決闘の終わりは認めない。今一度、戦うために。この黒い声に従い、怒りのまま、怨みのまま。

「だからこそ、俺は貴様を斬る。斬れば俺が生き返るわけでも、決闘の勝敗が変わるわけではないが、俺は貴様を斬らねばならん」

「随分と勝手なことで……だが、ま、確かに。オマエにはそうする理由も、十分にあるな。巌流の」

 武蔵は無精ひげを撫でながら、然り然りと頷く。次いで言葉を口にする。

「で、それがどうした?」

「……何?」

「ああ、オマエの怨みはよくわかる。だが、それがどうした? オマエは所詮、死んだんだろう? 死ねばそこで終わりだろう? それを執拗に受け入れずして、一体オレはそれに対し何と言えばいい?

 すまなかった、と謝ればいいのか? 勝手なことを、と憤ればいいのか? オマエがただ周りに八つ当たりしているようにしか見えなくてな、どうすればよいのか――」

 轟、と風が唸った。浜辺の波が不自然に斬られたかのように爆ぜた。

 小次郎は手にした刀を波へと振り、接することなく切り裂いた。今の音はその斬撃。

「殺す」

「うん?」

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」

「ほう?」

「宮本、武蔵」

「何かな?」

「貴様……貴様は、剣客とは到底呼べない……下賤な輩だ。貴様なんぞ――

「ああ、だろうな。オレは剣客とは呼べんかもな」

 小次郎の言葉を遮り、武蔵は語る。

「オレは兵法家。剣の道を究めんとする兵法家だからな」

「黙れぇいっ!」

 その言葉に小次郎は怒号を上げ、斬りかかる。

 放たれる一閃は切り落し。柄を両手に、浜という砂一面の足場の悪さを物ともしない一気に距離を詰める膂力を以て、全体重を一閃に。

 その勢い、重さは爆ぜるように上がる砂柱を見れば一目瞭然。

「ごっほ……こいつぁ、凄ぇ」

 武蔵はその一撃を避けていた。砂埃に紛れ、咳込んでいる。

 小次郎はすぐさま刀を横に薙ぐ。舞い上がり周囲を覆う砂埃は空間ごと分断されたかのように一刀両断。その晴れた先に武蔵はいる。

 その怨敵目掛けて、小次郎は怒りのまま、怨みのまま刀を振るう。

 武蔵は今の一撃で膂力では間違いなく押し負けると、その斬撃、一閃一閃を確実に躱す。

(しかし、足場が悪い)

 浜辺であれば足場は当然砂となる。

 駆けようと、避けようと、足に力を込め動かんとすれば砂塵はずれ動き、己が体勢は砂と同じく崩れていく。

 それは小次郎も同じだが、足場の悪さなど問題にならないほどの膂力があるらしいあちらは攻撃の速度をさらに上げていく。

「せぃらぁぁぁぁっ!」

 小次郎が雄叫びを上げ、空間を穿つような突きを放つ。

 武蔵はその刺突を刀で受け流すように避ける。しかし、逸らした一撃は人外の威力。刃の摩擦は刀身から肉へ、肉から骨へと雷撃の如く走る。

 やはり流すと言えど、受けるのは悪手。武蔵は瞬時にそう理解し、刀を左手一本に持ち替え、刃と刃を掠り走らせる。小次郎の懐へと入り、右手で腰に差したもう一振りの刀を抜刀。

「シャァっ!」

 踏み込み、一閃。狙うは首。

「ッ!」

 しかし狙いは外れた。小次郎はすぐさま身を引いた。裂いたのは首ではなく、胸元。羽織を切り裂き、血が一線。流れるそれは赤ではなく、黒い。闇夜に溶けるような黒。人でない証が溢れ出る。

 武蔵は追撃せんとするが、逸らした物干し竿が力任せに振るわれ押し飛ばされる。

「ぐっ!?」

 二人の間に距離が空く。武蔵はまずい、と咄嗟に体勢を立て直し相手へと迫る。

 幽哭から舟島への移動中、小次郎の剣技について聞いていた。

 その場から動かず、間合いの外にいた相手を斬り伏せる技を使っていた、と。

 耳にすれば珍妙な話だ。要は、間合い外へと斬撃を飛ばしているということ。まるで「かまいたち」、そんな技があるであろうか。

 しかし、実際に幽哭はその剣技により右腕を失っていた。応急処置として簡易的に包帯を巻く際に傷を見ていたが、あれは単純に切断されたものではなかった。

 まるで抉られたかのような刀傷。斬るのではなく、抉る。突き様によってはそのような傷も刀でできるかもしれない。しかし、それを腕一本失うという芸当ができるか。おそらく己にはできない、という結論に至った。

 その剣技が如何なるものかは武蔵自身はわからない。しかし、これまで培ってきた果し合いによる感覚が告げている。

 その技は、使わせてはならない、と。

(果たして、その技とやらは妖術か何かなのか……)

 剣戟を躱しながら、武蔵は考える。距離を詰めればそのような技を使う隙も与えまい。ならば距離を話すことなく、さらには至近距離での剣戟を避けつつ、斬り伏せるしかない。

 達人にとってのたかが剣戟。しかし振るうは化外の膂力。その速さは疾風の如し、避けきらなければ両の刀で受け流す。

(埒があかん……)

 躱し、流し、踏み込み、斬る。先程からこの命をぎりぎりで保つ攻防戦を続けている。

 躱し流す武蔵に対し、小次郎は避けない。相手の命を肉体ごと絶ち斬ることに意識、技量、信念をすべて注ぎ、怨みのままに得物を振るう。流れる黒い血はまるで無限の如く。傷から溢れ滴り、砂を黒く染めていく。

 小次郎の目も砂と同様、闇が濃くなっていく。目の前の男、宮本武蔵を殺すのならば如何様にもなろう、と。この怨みこそが今の己の、化外となった己の信念であり執念。果たせば今ある霊のような血肉ごと消え去ってしまう。しかし、構わない。信念が斬れと頭に響く。執念が斬り伏せと肉体を動かす。怨念が斬り殺せと得物を振るわせる。

 躱し斬る武蔵とは対極に斬り結び続ける小次郎。しかしこの男もまた埒があかないと感じていた。

 今まで辻斬りの餌食となった剣客や昨夜の幽哭と違い、兵法家と嘯く武蔵の剣はまさしく達人。化外と成り果てる原因であったと言えど、果し合いで己を打ち負かしたその腕は認めざるを得ない。

 それに先程から距離を空けようとしないのは己の愛刀が長物であることだけでなく、おそらくは「魔剣・燕返し」を幽哭から聞いた故と気付いていた。

 化外となり、己の奥義であった秘剣。その技を昇華させた魔剣。幾人もの剣客を仕留めた、己が新たな剣技。

 それを武蔵は、この怨敵は警戒している。

――ならばくれてやろう、見せてやろう。その技によって屠ってやろう。

「――ッ」

 大振りな薙ぎ。武蔵は後方に咄嗟に避け、小次郎もまた後方に跳ぶ。己の膂力を活かした一足跳び。開いた距離は十分にある。

「行くぞ、宮本武蔵ィっ!」

 この一手にて、決める。そう怒号を上げる。

 その気迫は幽哭が対峙した時の比ではなく、怨みが狂喜と歪んでいく。

 構える小次郎に、武蔵は迫る。

 しかし、遅い、と小次郎は嗤う。今ではもはや何もかもが遅く感じる。

 武蔵の動き、波の動き、空気の流れ、溢れ出る血液。その何もかもが遅く感じるほどに、意識は洗練され感覚は研ぎ澄まされる。

 発する気は怨霊そのもの。まさに怨霊発気なるもの。

 この一刀にて、己が敵を斬り伏せると心中に期する。

「宮本武蔵――」

 見せる技は、秘剣を化外の膂力により昇華し、邪道と化した剣技。決して人では為し得ない奥義。

 それは切り払った刃を返し、さらに切り払うという単純な往復剣戟。しかし小次郎のそれは神速の域へと達し、己が腕にてのみの秘剣と化した。

その剣術の名は、燕返し。

「敗れたり――」

 それは二連の斬撃。切落からの切上、胴からの逆胴、またその逆も然り。いかに早く振るえど、その動作は二連斬。ゆえに二閃。

 しかし、今この怨霊、佐々木小次郎はその二連斬を一閃にて為した。限りなく零の瞬間に、同時に真逆の斬撃を一閃にて繰り出した。

 その一閃の二連斬は空を斬り、虚空を生み出し、疑似的な飛ぶ斬撃を作り出す。それはまさに「かまいたち」。

 虚空を作り出した斬撃は、虚空とともに放たれ、過ぎ去る真空の刃。故にただ斬るではなく抉るように斬り飛ばす。

 これこそが人の剣技を魔になりし、研鑽させた技――魔剣・燕返し。

「魔剣――」

 いざ、その魔剣術を死して今、生前よりも満たされた、剣と気迫に満ちた瞬間を繰り出す。

 この一刀にて、倒す。

 この一刀にて、斬り伏せる。

 この一刀にて、決着をつける。

 この一刀にて――。

「――――」

 一刀を振るう。

 速さ、力、動き。すべて完全であった。

 しかし、魔剣は失敗した。

 ストン、と刃の切先が重みを増す。

 重みを増した切先が見えない。鞘に納まっている。

 その鞘は物干し竿のものではない。長さも反りも合わず、刀身のほとんどは露出している。

 ではこの鞘は――無論、武蔵のものである。

 何故、武蔵の鞘が物干し竿の切先を納めているか。単純に、武蔵は腰に差した鞘の一本を抜き、投げたのだ。

 燕返しが構えから突きからの薙ぎであることをこの男は理解した。そしてその技の初動に合わせ、鞘を放った。そのような不可能と言える芸当を、武蔵はやり遂げた。

 しかし、だからと言ってこれがどうした。大道芸の如き真似をして一体何になる。

 否、これにて魔剣は一瞬、この一連だけ防がれた。

 燕返しは高速の斬り返し。薙いだ刀身を返し再び薙ぐという単純な動きであるが、その速度は下がらず、むしろ下げずに上げなければならない。

 魔剣・燕返しも同理論。むしろその上を行く。

 この魔剣の主軸は二連の剣戟を一閃と化す速度。故にその速さは通常の燕返し以上のものが求められる上に、緩めること、阻害されることあっては、技の柱は崩れ不発となる。

 それこそ、放たれた反りの合わぬ鞘というわずかに阻害されるものであっても。

 その速度という重要点であり、弱点であるそれを武蔵は瞬時に見抜いた。それゆえに、武蔵を斬らんとした魔剣は今この一度だけ、刹那に止められた。

 しかし、その刹那で十分。その魔剣の勢いで鞘が砕けるが、それで十分であった。

―ドッ

「な」

 己の絶対の自信のあった技。それを瞬く間に、ほんの一瞬でも止められたことに小次郎は思わず止まっていた。

 その隙に武蔵は間合いを詰め、両の刀を小次郎に突き刺す。右の刃は心の蔵を貫き、左の刃は水月を突く。

「シャァっ!」

 右は上へ、左は横へ。薙いだ刀は肉を切り裂き、骨を断つ。

「あ――」

 己の絶対としていた技を止められ、その刹那に肉体を断たれた。表面だけでなく、内を貫き内を切り裂き。核を貫き切り裂いた。

「が――」

 それにより、身体から力が抜けた。

 小次郎は浜に刀を突き立て、膝をつく。

 先の攻防とは比較にならないほど黒い滝が傷や口から流れていく。

「――な」

 敗北した。技を破られ、斬られた果てに怨念がそう行き着いた。

 その瞬間に、ぷつり、と何かが己が内側で切れる。

「な、ぜ――また――」

 また、敗北した。

 それに対し、武蔵は平然と答えを口にする。

「決まっている。オレはオマエより強いからだ、巌流の」

 そう言って、膝をつく小次郎へと刀を振り下ろす。

 その一撃に、怨霊は確かに斬られた。

 斬られ、肉体が崩れていく。溢れていた血も乾いていく。それは黒い砂塵のように。

 浜に混じり、小次郎の愛刀だけがそこに残る。

 ここに、舟島の再決闘は決着がついた。


・・・・・・・・・・・・


「まぁ、勝って死ぬ奴より、勝って生き残る奴が強いのは道理だな」

 刀一振り、残った鞘へと納めた武蔵にそのような声がかかる。

 振り向くとそこには幽哭。口元が赤く染まり、羽織っている白い着流しにも、穿いている黒い脚絆にもところどころ赤い斑点がついている。

 その左肩には担がれた飯綱。否、飯綱だったもの。

「妖魔斬り殿かい」

「幽哭でいい。で、あの怨霊は?」

「ああ、敗北を認め、消えた」

「そうか」

「ああ」

「それで、俺に何故殺気を向ける?」

 幽哭の問いに武蔵は表情を崩さず答える。

「口元を血で汚し、死体を抱えているとなればな。いくらオレとて警戒はする」

「そうか」

「で、貴様。何だ?」

 その問いは暗に、今しがたの小次郎と同類、化外かと訊ねている。殺気は緩むことなく発せられ。

「混血」

「……何?」

「混血だ。異邦の鬼とのな」

「鬼、か。じゃあ、あれか? 人食いか?」

「いや、肉は食わん。血を飲む」

「飯綱殿は? 何をした?」

「父の仇を今になって討とうとしたのでな。こちらも生き残るため、後腐れないよう血をすべて貰った」

 何ともないように、幽哭は答える。まるで何度もあり、慣れたかのように。

「では、もう一つ答えてくれないか?」

「構わないが……」

「貴様にとって人、人間は何だ?」

「糧――」

 答えた瞬間、幽哭の視界が足元へと落ちる。身体が倒れる。視界が赤く、暗くなっていく。

「……やれやれ」

 武蔵は刀に突いた赤い血を振り落す。たった今首を落とした幽哭を見下ろしながら息を吐いた。

「まさか一夜に人でないものを二人、いや二体、か? まぁ、斬ることになるとは……」

 人間は糧。その言葉に思わず咄嗟に抜身の刀を振るってしまった。

「異邦の鬼……ここが大江山ならオレは源頼光か何かだな……」

 そう言いつつ、倒れた首のない幽哭の身体の上の飯綱の遺体を抱える。

 その首筋には血の跡と噛み傷のようなもの。特に二つの牙らしきものの痕が深く残っている。肌は冷たく、すでに死してだいぶたったようである。

「人の仏様を放っておくわけにもいかねぇか……。仕方ない、戻って寺かどこかで念仏でも唱えてもらうとするか」

 武蔵はそう呟いて飯綱の遺体を舟に乗せ漕ぎ出していく。舟島には佐々木小次郎の愛刀と幽哭の頭と体を残して。

 武蔵は船頭を雇うべきだったと後悔しながら、舟島には二度と戻ることはないだろう、と舟を漕ぎ続けた。


・・・・・・・・・・・・


 武蔵が舟島を去り、数刻。

 夜闇は朝焼けに燃え、空は暗い青から暖かい白へと色が移り変わる頃。

「――ッ、と……」

 幽哭が身を起こす。首はしっかりと繋がっている。しかし、少し真正面を見るつもりが斜めを向いている。

「あぁ、まったく……」

 幽哭は首の左側を左手で押さえ、顎を右手(・・・)で掴む。

――ゴキンッ

 骨がずれ、嵌まる音が肉体に響いたが、首は真正面を向くように治った。

「あぁ、くそ。宮本武蔵……いきなり斬るか」

 首を撫でながら起き上がる幽哭。

 首に問題はなく、次は右腕。切り落されたはずの腕はしっかりとあるべき場にある。

「やはり、一人分飲めば早く治るな」

 一人分とは血液のこと。

 彼の父――異邦の鬼は血を求める鬼であった。父曰く、この鬼の血は他者の血があれば滅びることはない、と。既に滅びた父の言葉ゆえに幽哭はあまり信じていなかったが、ある日を境に真であると分かり、今までこうして生き残っている。鬼の血と人の血が混じっているゆえに白と黒の混じった髪や赤い瞳など特異な容姿であるが、齢六十八にして肉体は二十五あたりの時を保っている。

「ん?」

 起き上がり首を回したり、右腕を回したりしていると浜に突き刺さった一振りの長刀を見つけた幽哭。

「佐々木小次郎のか……」

 右手に持ち、引き抜く。やはり刃渡りが長く、鋭く美しい。

「だが、鞘がなくてはな」

 この刀には鞘がない。対峙した時から小次郎は抜身の物干し竿を手にしていた。では果たして鞘はどこにあるのだろうか。

「鞘のない刀なんぞ、行き場のない殺意も同然。そこいらの剣客を斬り、やっと目当てを見つけても鞘がなくては納まりが悪い。……それ以前にこれは使いこなせんだろうな、佐々木小次郎以外には」

 では、と幽哭は手に持つ物干し竿――備前長船長光を投げ捨てる。波の揺れる海の方へと。

 それなりの全力で投げた刀の飛距離もまたそれなり。刀身の重さから浮かぶことなく沈んでいった。

「まぁ、混血であるが化外同士。合掌ぐらいはしてやるさ」

 そう言って幽哭は目を閉じ、合掌。化外・佐々木小次郎に対して。化外となりながら、怨霊と成り果てながら、あの剣技は美事であった、と。

「――さて」

 合掌を止め、辺りを見渡す。

 砂に固まった血の跡。砂。島を囲う少し荒れ始めてきた海。

 来るときに使った舟は見当たらない。ちなみにこの男、カナヅチである。つまりは舟島から出る手段がない。

「……どうしたものか」


 幽哭が島を脱出して、後に江戸・明治・大正という時代を生きていくのはまた別な話である。



魔剣幽鬼~続・巌流島決闘篇~完


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