精神疾患症状を売る人
上述のような理由から、彼女にはうち解けた雰囲気があり、しゃべり上手であったので、おしゃべりで客を楽しませながら眼鏡を説明していく、という技能があった。彼女は高額な遠近両用レンズを売るのがうまかった。遠近両用レンズは高額になるほど視野が広くなり、遠くを見るときと近くを見るときの切り替えが容易であるから、確かに金をかけるだけの価値はある。しかもレンズにカネをかけるのなら、フレームもそれに合わせて耐久力のある、かけていて飽きないデザインのものを、となる。一本十万円の眼鏡とはこのようなものである。だが、客は通常、商材に関する詳細な知識は持ち合わせていないので、こう高額な眼鏡を勧められると、「だまされているのではないか」と構えてしまうことが多い。そこをこの女性店員が説明すると、人格的信頼ができあがっているので、売りやすいわけである。
とはいえ、彼女がいくら商品を売れてもパートであることに変わりはない。異動できないし、時間をかけて客としゃべりながらじっくり売るので、ほかの業務ができない。仕入れや人材マネージなどはできないのである。そのようなわけで、社内での地位は低いままである。彼女なりに思うところはあるだろう。だから、彼女が仕事を楽しむことができて、それで自然に笑顔が作れているわけではないことは明らかだった。この女性パートも、きちんと笑顔を「作って」いたことは言うまでもなく、表局域と裏局域を使い分けていた。裏局域では決して同僚とはしゃべらないし、いつも喫煙していた。「自然な」感情を作っているからといって、本当に、自然な感情丸出しにして感情労働ができるわけはない。「自然な」感情労働は限定的なものにとどまるのである。
そう考えてみると、どんな種類の感情労働も所詮は非人間的で不自然なものにならざるを得ないのではないか。およそいかなる理不尽なクレーム、過酷なノルマ、低下していく売り上げ、自分自身のストレスにも対応していかなければならい現代の企業業務の過酷さを考えると、完全な形の感情労働への適応はやはり、自分の「本心」を押し殺して、とにかく笑顔を作っておく、ということになりはしないかとも思われる。
私は、一度だけ、そのような適応に成功してはいるが、深く考えさせられる販売員に出会ったことがある。近所の紳士服やの女性店員だったのだが、見た瞬間「あっ!」と思った。その作り笑顔があまりに「作られた」ものであり、そして、笑顔が顔に張り付いたようで、それが精神科病棟内で見た「抑うつ顔貌」「仮面様顔貌」を即座に思い出させるものだったからである。それは確かに「笑顔」ではあった。だが、それは笑顔の内側にある喜びや陽気を一切排した仮面、まさに能面のそれだったのである。能面には笑顔の顔貌はあれど中身はない。それを「営業スマイル」でやってのけている女性店員を前にして私は、驚かずにはいられなかった。ここまでやるヒトがいるのか…。私は、その女性店員から一度しか接客を受けたことがないにもかかわらず、その接客が今でも忘れられない。
私は、あっけにとられながら、スーツを一着買ったのであるが、その間中彼女は案の定、仮面のように笑顔を顔面に張り付かせていた。私の閉鎖病棟入院経験は過酷なものだったからそれが思い出されて、何かその笑顔に恐ろしいものを感じつつ店を後にした。