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メガネ販売店で働く

2012年の秋ごろ、近所のショッピングモールの中にある眼鏡屋でパートタイム労働をやっていた。


パートタイムといっても、週5日、一日8時間働くフルタイムである。待遇がパートなのである。


時給が900円。仕事はきつかったが、人間関係は悪くない。


店長さんが親切でユーモアのある方なので助かった。


しかし、1日8時間、ほぼ立ちっぱなしで慣れない仕事をする。


パートは長くは続かず、店の売り上げ不調のリストラにより3か月でクビになった。


いつもくたくたで休日はだいたい寝ていた。






 ここで考えたいのは、いわゆる「感情労働」についてである。眼鏡屋であるから一番安い眼鏡でも5000円。高い眼鏡になると、フレーム5万円、プラス、レンズが5万円、合わせて、10万円にもなる場合がある。高級商材なので接客にも気を使う。もっとも、そんな接客をしてもらえなくても、決まりきった眼鏡を安く買えれば問題はないと考える人も多いだろう。そんなわけで、安売り眼鏡屋が出現し、繁盛するようになっている。眼鏡の単価は下がるばかり。私が、パートを3か月でクビになったのも同じショッピングモール内にある某有名安売り店に押されたからである。私の販売実績は接客下手で落ちこぼれ扱いされている社員より多かった。私は口はうまい。私が売った最高額の眼鏡は49600円の高級ブランドフレーム、レンズにも防傷や疲れ目軽減コーティングなどのオプションをつけてもらって7万円近くになる商品である。




 こういったわけで、接客にもいつも細心の注意が要求された。一番重要なのは、なんといっても、実になんといっても「笑顔」である。




 私は、会社の都合で、3か月でクビになったが、パート募集要項には「6か月以上働ける方」とあった。はじめは、長く雇う気があったのだろう。それで、私はインテンシブな研修を受けていた。8時間働いた後に、1,2時間眼鏡販売や商材の知識を身に着けるのである。私はかなりやる気があったから、着任前に『眼鏡学』や『傑作眼鏡大全』などの本も買って読んだりしていた。




 それでも初めに教わったのは『笑顔』の作り方である。単に、笑顔であればよい、というわけではない。いついかなる時にも、笑顔を作れなければならない。普通はそうはいかないので訓練してそれを身に着ける。例えばこんなである。割り箸を咥えて、鏡の前に立ち、両頬を上げる、不自然にならないように気を配る、などといったこと。まさに人工的に作り上げられた、何ら面白いことも喜ばしいこともないのに笑顔でいる術を身に着けるというやや無理があることである。私は、実は当時のマニュアルをコピーして持っている。「社外秘」と書いてあるのに、後々、参考にしようと思って、手元に置いておいたのである。笑顔だけで相当なページを割いてある。だいたい書いてあることといえば、いついかなる時でも笑顔でないといけないということ、それが、病気や精神的、肉体的に不調な時でもである。「笑顔などすぐできるではないか」と思っている方は「感情労働」に関する考え方が甘い。これがいかに厳しいか、というより、非人道的な商業慣習なのか分っていない。




 事実、微熱があって仕事をはじめ、8時間、一日中働いていた女性社員も笑顔。嫌な客がいて「店長をよんで来い」と言って店長をよんで来させ、1時間近く説教して、何も買っていかない「客」を見送る店長と私も笑顔なのである。




 パートに入って早い時期にこんな事態があると、私は「えらいことになった」と思い、「顔面筋トレ」を始めたりしていた。休日でも笑顔を作る顔の筋肉が疲れ切らないように、また、笑顔が容易にできるように、両側の頬を意図的に上げ下げするのである。100回ぐらいやると、頬が痛くなってくるが、何ぶん、1日8時間、笑顔でいなければならないような繁忙期もあるわけで、気を抜くわけにはいかない。




 こんな風に、感情労働をずっとしていると、イライラするのであろう。男性社員の多くは喫煙をしていた。タバコ臭い店員は嫌われるので、食事後にタバコを吸った後、リステリンで口臭を抜き、ファブリーズで体のタバコ臭さをとって、また店頭に立つのである。

アメリカの社会学者アーヴィン・ゴフマンが表局域、裏局域という概念を案出して、前者を人前に出て自分のいいところを見せるところ、後者をホンネが出る舞台の裏側と定義づけ、この概念を使って様々な場所の社会分析を試みた。これは実際に現場を見てみないと「なるほど」とは思えない。表局域である売り場と裏局域であるバックヤードでは相当な落差があるのだ。表極域の売り場では、作り笑顔でニコニコしているが、裏極域の社員用食堂では疲れ切って暗い顔をして昼食をとっている社員などは「メリハリが効いてるなあ」とか「すごい落差…」と実感する。「ゴフマンは単純な概念を作ったもんだなあ」と軽く見ていたのだが、いざ表極域と裏極域で同じ人間を見ると、別人を見るようなことが多いのである。



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