歌う山
精神がまいっている、医者からそういわれた時に後頭部を強く殴られたかのような衝撃を受けた。その医者が言うには、私は仕事の疲労により一種のうつ状態となっており長期の療養が必要とのことだった。
確かにその時の私は激務により体調がよろしくないことを自覚していたし、激務の割には低い給料に悩みを感じてもいた。仲の良い友人からは転職を勧められていたこともあって、私は思い切って仕事を辞めることにした。
多量の仕事を私に回していたのだから、簡単には辞めさせてくれないだろうと思っていたのだが、診断書を見せたこともあってか意外なほどあっさりと職を失うことが出来た。会社を去ると決めたのは私の意思で間違いないのだが、一切引き止めるような言葉が無かったことに落胆を感じたのも確かである。
こうして無職になった私は、都会の賃貸マンションを引き払って田舎の一軒家を購入することにした。使う暇が無かったために予想したいたよりも貯金が貯まっていたし、それなりの資産家だった親の遺産が手付かずのままだったこともある。それ以上に、療養するのなら田舎だという固定観念を持っていたことが移住の一番の理由だった。
そうして私が住処と定めたのは、山の中の盆地にある村だった。限界集落に近い村で、コンビニはおろかスーパーマーケットも存在しない。村にある店といえば、肉屋と主に日用雑貨を取り扱う商店が一軒ずつで、後は田畑が広がっている。盆地らしく、夏は蒸し暑く冬は底冷えのする寒さのある場所だが、時間の流れが穏やかな田園風景は傷ついた私の神経にとっては何よりの薬だった。
親戚がいるわけでもないし、職を持っているでもない私を村の人々は冷ややかに見ていたものだ。ただ何をするでもなく、景色を眺めながら散歩をしていると彼らは噂話をしていたように思える。しかし、それも最初だけのことで毎日決まった時間に散歩を続けていると私は彼らにとって風景の一つとなったらしく、私を見かけても誰も何も言わなくなった。
そのうち、きっかけは忘れてしまったがいつからか農作業の手伝いをするようになった。老人しかいない村である、若い労働力を求めていたようで村中の農家から引っ張りだことなってしまった。そうなると小遣い程度ではあったが収入も得られるようになり、弱った神経もすっかり回復したのだし、本格的に農家をやるのも悪くないかもしれない。
そんなことを思い始めていたある日に農作業をしていた時のこと、馴染みとなった一人の老人が私の住処について尋ねて来た。小さな村のことなので、てっきり皆に知られているものだとばかり思っていた私は驚いてしまった。
「あそこの斜面に立っている家が私の家ですよ」
額の汗をタオルで拭いながら自宅を指差した。私の家は村からほんの僅かばかり離れたところにぽつんと立っている、他の家よりも高台にあるため庭からは村を一望できる家なのだ。その庭から見える光景が私は大好きだった。
「あそこすんどったんかいな……明かりがついとるから変だと思いはしとったけど、お前さんだったんかい」
「えぇそうなんですよ。古い家ですけれど、中はリフォームされてましたし景色は良いしで気に入ってます」
「そうかそうか、けど引っ越す気はねぇか? あんた良い人だし、住む家なら都合してやれると思うんだ。あの家はちょっと離れてるしよ、もっと村に近いところに住んでみねぇか?」
老人は私の家は腕組みしながら眺めた後、そんなことを言ってきた。彼に好意を持たれていることが明らかなのが私には嬉しく、日々やっていることが認められたような気がして誇らしくも感じる。しかし、引越しを勧められると好い気はしない。
「お気持ちは嬉しいですけれど、一括で土地ごと購入してしまいましたし、私はあそこが気に入ってるんですよ」
強い言葉は使わないように努めはしたのだが、気持ちというのは表情に出てしまうものらしい。老人がややたじろいだように見えて、申し訳なさそうに頭を下げられてしまった。そんなつもりが無かった私は恐縮してしまい、謝罪を行うとまた老人が謝ってくるという謝罪合戦が始まってしまう。
「そんな理由で引越しする気はありません。けどどうしてあなたは引越ししろ、なんて言うんです?」
どこまでの続いて終わりの見えない謝罪合戦を終わらせるために私が訪ねると、老人は眉間に皺を寄せて私から視線を逸らしてしまう。それが何かを隠しているように感じられた。若干とはいえ気分を害した私が詰め寄ると、老人は渋々といった様子で口を動かし始める。
「何かあるっていうわけじゃあないよ。田舎暮らしってのが最近流行ってるだろ? 俺らもそれで移住してくれる人をな、大々的に募集してたことあるんだわ。けど誰も居ついてくれなくってなぁ……俺らは何かやっちまった覚えはねぇしなぁ……」
ふむふむ、と相槌を打ちながらじっと話を聞きながら、私は自宅へと目を向けた。
「移住しようとして来てくれた人らはよ、みーんな今あんたが住んでるところに居たんだわ。ただ、なーんでか知らないけど長くて一年だったかなぁ……そんぐらいで出て行っちまうんだ。お前さんはここ来てどんぐらいなるんだっけか」
「えーと、八ヶ月ぐらいだったかなと思いますね。皆さん一年で出て行ってしまった、っていうのが何か気になるところではありますけれど、理由とか言ってらしたんですかね?」
「一年きっかりで出て行ってるわけじゃねぇよ、一年以内ってなだけだ。早い奴は一ヶ月もしねーうちに出て行ったのもいるわ。理由はどうだったかなー……何か言ってたっけかなぁ」
自宅に向けていた視線を老人へと戻すと、彼は腕組みをしたままうんうんと唸っていた。出て行った理由を思い出そうとしているのだが、出てこないらしい。
「わりぃなぁ……思い出せねぇわ、ってことはあれだ大した理由らしい理由を言ってなかったんだろな。ちゃあんとした理由を聞いてたらよ、思い出せるもんよ。俺は今年で八八になるんだけど、頭はしっかりしてんだぜぇ」
そう言う老人は歯並びは良いけれども煙草のヤニで黄ばんだ歯を見せながら笑い、こめかみを人差し指の先っぽでつついてみせた。彼は背筋も伸びているし、言葉に詰まるところも無い。なので彼の年齢を知った私は驚くしかなかった。そのために会話は途切れてしまい、話もここで終わった。
後は日が暮れるまで雑談を交えながら農作業を終え、報酬代わりの野菜をダンボール箱一杯に貰って帰宅する。野菜の詰まった箱を玄関に置いた私が真っ先にやった事は、家の探検だった。
引っ越してきた当初もやったことのだが、昼に聞いた話が気になってもう一度やろう、という気になったのだ。現実と物語を混同するわけではないのだが、何人もすぐ引っ越した家には秘密が隠されている、というのは小説の定番である。ここに来てすぐは体調が悪かったこともあり、見落としたものがあるかもしれない。
幼い日の少年時代のように、胸を躍らせながら一人で住むには広い家の中を、懐中電灯を片手に持って天井裏から床下まで隅々まで探検した。結果からいってしまえば、何も無かった。着ている服に汗と土だけでなく、埃の汚れが追加されたぐらいだ。
天井裏に骨があったのを見つけたときは飛び上がりそうになったのだが、落ち着いて明かりに照らしてみればそれは鼠か何かの骨だとすぐに分かった。ここに来るまで都会で暮らしていた私にとって、動物のものとはいえ白骨はおっかないものではあるが、山の中に建つ家のことだ。入り込んだ小動物の死骸があることはなんらおかしなことではない。
秘匿されたおどろおどろしい謎の発見が無かった事は喜ばしいことではあるが、落胆している私がいたのもまた事実。村長ならば前の住人達から理由を聞いているかもしれないし、顔を合わせたときに尋ねてみることにしよう。
そしていつものように、野菜たっぷりの食事を摂り、熱い風呂で一日の疲労を洗い流した。寝る前に裏手の雨戸を閉めようとしたとき、シトシトと雨が降り始めていることに気づいた。雲がどのぐらい出ているのだろうかと、窓から身を乗り出して空を見上げてみたが、張り出した枝葉で空が隠されているために見えない。私の家の裏手はすぐ山の中になっているのだ。
酷い雨にならなければ良いのだが、そんなことを思いながら雨戸に手を掛けたのだが、私は雨戸を閉めようとしなかった。何かが聞こえた気がしたので目を凝らし、暗い山の中をじっと見つめる。目を細めてみたが、山中に明かりは無い見える範囲は窓から精々数メートルといったところで、その先は暗闇だ。
気のせいだろうかと首をかしげながらも、両手を耳に当てて神経を集中させる。確かに、音が聞こえた。いや、音だろうか。動物の鳴き声のようではあるが、どこか違う気がする。その音を形容するのに一番近いのは、歌かもしれない。窓から半身を乗り出してみるが、歌らしきものの発生源は分からない。山が歌っているような錯覚を覚える。
憂いを帯びた歌声が山の奥から聞こえている。ここで暮らし始めて八ヶ月経っているが、こんな音を聞いたのは初めてのことだ。昼間に聞いた話のこともある、この音が謎の正体なのかもしれない。好奇心を刺激された私は慌てて懐中電灯を取りに行き、裏手の窓に再びやってくるや否やその明かりで山の中を照らした。
懐中電灯の光の円の中に浮かび上がるのは植物ばかりで、動物の姿は無い。何とかして正体を見てやろうとして至る所を照らしてみたが、音を出したり声を発したりしそうな動物は見つからなかった。歌声が止まなかったことから考えると、もっと山奥にいるのかもしれない。躍起になっているうちに雨が本格的に降り始め、そのザーザーいう音にかき消されて歌声は聞こえなくなってしまった。
仕方なく懐中電灯の明かりを落とした私は、心臓の高鳴りを感じていた。恐怖からではない、屋敷を探検したときと同じ少年の好奇心が、私を沸き立たせた。雨戸を閉めた私は、既に敷いてある布団に入る事をせずにパソコンを立ち上げ、この盆地について調べ始めた。
文化的なことを調べるつもりは無い、この一帯に生息している生物が知りたかったのだ。歌うような鳴き声を出す動物がこの辺りにいるのだろう、だとしたらそれはどんな動物なのだろうか。胸を躍らせながらテキストボックスに単語を打ち込み、マウスを操りリンクを辿る。それらしい動物が見つかれば、今度は動画サイトで鳴き声を聞いてみた。
一通り調べ終えた私は、うぅむと唸り声を上げる。納得の行く答えは得られなかった、この付近に生息しているとされる動物の鳴き声を聞いてみたが、先ほど聞いた歌のような鳴き方をする動物はいなかった。そんな動物がいても、この辺りに生息しているわけではなかった。
◇◇◇
朝になると雨は止んでいた。晴れてはいなかったが、雲の切れ目からは真っ青な空が覗いていた。そんな空模様の中、私は早速、連絡もなしに村長の家へと向かっていた。失礼なのは承知していたが、昨日に老人から聞いた話、そして昨晩の出来事があるために私はいてもたってもいられなかった。幸いなことに村長は特に用事もなかったらしく、突然の来訪だというのに快く私を迎え入れてくれただけでなく茶菓子まで出してくれた。
いきなり本題に入りたくはあったのだが、暖かな対応をしてくれる村長を前にしてしまうと躊躇われてしまい、どうしても世間話になってしまう。談笑しながらも私は早く尋ねたくて仕方なく、どこか浮ついてしまい村長の話を聞き逃してしまうことも多かった。
そんなものだから村長も私の様子がおかしいことに気づき、神妙な面持ちを浮かべると細君に買い物を頼んだ。
「これで家の中は私と君だけになった、どうしたんだい? 随分と上手くやってくれていて私は嬉しく思っているんだ。村の生活で困ったことがあるのなら、力になれることなら力になるから、話して欲しいところだが……」
「あ、いえ……そんな困ったわけではないのです。ただ昨日、気になる話を聞きまして……今、私が住んでいる家のことなのですが、それまで暮らしていた方は一年もせずにみんな出て行ってしまってると聞いたのです。自分が住んでるところをそんな風に言われたもんですから、何かあるのかと気になってしまいまして」
前の住人が出て行った理由に関して言えば、私はそれほど気にしているわけではない。ただ、村長は大層気になっていたことらしく質問を投げかけた途端に苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。
「まさか出て行きたいとか思っているんじゃないだろうね?」
「いえいえ滅相も無い! 私はここの暮らしを気に入っていますし、出来ることならここで田畑を耕してこれからも暮らして行きたいと思ってます。ただやっぱり、あんな風な話を聞いてしまいますと、どうにも居心地が悪くなってしまうもので……」
「あー、そうだな。いやそれが、あの家に住んでいた人達から出て行った理由というのは皆聞いているんだよ。ただねぇ、それを誰も教えてはくれなかったのだな。この村は君も知っての通り、年寄りばかりだからね若い人間がくるとつい頼ってしまう。それが負担になって出て行ってしまったんだろう、と思っている」
村長の言うことも、昨日の老人と同じだ。嘘を吐いていないだろうかと考えてしまった私は、じぃっと村長の顔を見た。そんな視線を向けられて居心地の悪くならない人間はいない。村長は苦笑いを浮かべてはいるものの、顔を背けようとも視線を逸らそうともしなかった。
なので嘘は吐いていないし、隠し事もしていないのだろう。
「聞きたい事というのはそれだけかな? 私は君に永く住んで欲しいからね、悩みがあるなら些細なことでもいいんだから教えて欲しい」
「悩みというほど大きなものではないのですけれど、昨日の夜に山のほうから歌声みたいな……たぶん動物の鳴き声だとは思うんですけど、なんの動物なんだろうかと気になりまして」
「歌声みたいな鳴き声を出す動物なんてこの辺にはいないけどねぇ……それ虫じゃないのかな、ほらスズムシとかコオロギとかっているだろう?」
「いえいえ、私は都会で育ちましたけれどスズムシやコオロギの鳴き声は知っています。けど昨日聞こえてきたのはですね、そんな昆虫の歌声ではありませんでした」
「ふぅむ……そうか、ではなんだろうね」
村長も知らないとなると、あの音はなんだろうか。益々疑問が膨れ上がってきたのだが、何かを思い出したらしく村長は唐突に立ち上がり私に待つように言うと部屋を出て行ってしまう。何か手がかりになるようなものでもあるのだろうか、そんな期待を抱きながら出された茶菓子に舌鼓を打っていると、一〇分程度で村長は部屋に戻ってきた。
彼の手にはハードカバーの本があり、村長は座りなおすと眼鏡をかけて本を開く。
「それは何の本ですか?」
「これはね、この村についてまとめた本だよ。移住者を募集しようとなった時に有志が集まって作ったのさ。本当は歴史をまとめた本にしようとしたのだけど、そんな本に出来るほど歴史のある村ではないからね。この辺にある動物や植物についてもまとめてあるんだ。お、あったあった」
私に話しかけている間も村長はページを繰り続けていた、そして目当ての記述が見つかったらしい。満足げに頷くと、本に額がくっ付けてしまいそうなほどに顔を近づけた。
「ほー……なるほどね、君が聞いたっていう音は木の音らしいぞ」
「木の音……ですか?」
「あぁそうだ。この本によるとだな、君の家がある辺りに生えている木は雨が降ると歌うような音を出すそうだ。雨を吸い上げようとする木の動きがそんな音を出す、と本に書いてあるね」
「そんな不思議な木があるんですね、一体なんていう木なんですか?」
村長は本からゆっくりを顔をあげると肩をすくめた。書いていないらしい。歌っているような音を発する木なんていうものは見たことも聞いたことも無いが、自然とは縁遠い生活をしていた私が知らないだけの可能性も高い。
だからといって、はいそうですかと納得できない。私が知らないだけとは思いつつも、音を出す木なんてものが本当に存在するのなら知られていない筈が無いと思うのだ。水を吸い上げる木の動きにより音を出す、なんて尤もらしい説明があったところで信じられるものではない。
「どうしたんだい、険しそうな顔をしているじゃないか」
「本に書いてあるといっても、そんな木があると言われても俄かには信じられません。せめて、何ていう木なのか書いてあれば信じられるのですけれどね」
「そうだねぇ……けれど世の中には変わったものなんてのは幾らでもある、そんな木があったっておかしくないだろうと私なんかは思うんだよ。それにほら、君は若いしパソコンでなんだったかな……あー、そうだ。インターネットだ、そいつを使って調べれば分かるんじゃないかな。都会に出てしまった孫が、インターネットで調べられないことは無い、なんて言ったりするからね。私なんかはもう歳だし、パソコンのことなんてわからんのだけど、どうだい? 君、調べてみてくれないかな。なんの木か分かったら私にも教えておくれよ」
ウェブ上にはあらゆる情報がある、調べたらすぐに出てくるだろう。けれど私はそれで見つかるとは思っていない、そもそも音を出す木なんてものがあると思えない。どんな情報でも手に入れられるインターネットであっても、世の中に存在しないものの情報があるわけがない。
見つかるはずなんて無い、そんなことを口にしたかったのだが村長の期待に満ちた眼差しを向けられているとおくびにも出せない。もしかしたら本当にそんな植物があるのかもしれない、前向きに考えることにした私は村長の頼みを聞き入れることにした。
用件が済んだのなら長居するのも邪魔になってしまうだけなので、お礼を述べて村長の家を出た。ここに来るときは晴れそうな気配を見せていた空だったが、今はどんよりとした灰色の雲が立ち込めている。風の中に水の匂いが含まれていた、これは一雨きそうだ。
空を仰ぎ見ながら歩いていたところで、私はポンッと手を叩いた。ポケットから取り出したスマホで天気予報を調べてみると、一時間後に雨が降るらしい。
これはチャンスかもしれないと考えた私は、足早に自宅に戻ると押入れの中に眠っていたリュックを引き出し、懐中電灯や飲み水を詰め込んだ。万が一の事を考えて、非常食に置いていた乾板と発炎筒等も中に入れてリュックを背負う。腰には草木を切り払うための鉈を吊り下げた。
大急ぎではあるものの、私は冒険の準備を整えると裏手の窓へとやって来た。窓を開けて、じっと山の中に顔を向けて耳を澄ませる。雨が降り始めたら、また昨晩の歌声が聞こえてくるかもしれない。村長の本にあったように、本当に木が水を吸い上げるときに出す音だというのなら聞こえるはずだ。
少年の心がまた私の胸を躍らせると、雨が待ち遠しくてしかたがない。いてもたってもいられなくなり、窓の前を何度も何度も往復して雨が降るのを待った。空にはさらに濃い色をした雲が立ち込め始めて、小粒の雨を降らし始める。私は窓から身を乗り出し、山の奥へと意識を傾けた。
雨の音に混じって聞き取りづらいが、確かに山の奥から音が聞こえた。昨晩に聞いたのと同じ、悲しみを帯びているかのような歌声らしきが音が風に乗って届いてきた。用意していたリュックを引っつかみ、玄関で靴を履きほどけてしまわないようにしっかりと紐を結び、家を飛び出した。
向かう先は山奥だ、どこまで行くことになるかは分からない。道なんてあるわけがないが、遭難する心配はしていない。山を登っていっても、背後には必ず村が見えるはずだ。だったら迷うことなんてないのだし、この山の勾配はきついものではない。音のするほうに向かっていけば、すぐにたどり着けるはずだ。
しかしそれが素人のあまりにも楽観的過ぎる考えだったことを、五分もしないうちに思い知らされた。道が無い事は覚悟していたことだったが、歩く分には問題が無いだろうと考えていた。これは間違いで、生い茂った低木や草は私を阻むかのようであり、鉈を振るいながら進むしかない。
そのために歩みは遅々として進まないし、昨晩も降った雨のために土は柔らかく、踏みしめようとすると沈み込む。夏はまだ先の時期だったが、あっという間に全身から汗が噴出し始めもって来たタオルはあっという間に湿ってしまう。三〇分も歩かないうちに呼吸はゼイゼイ言い始めた、背中を振り返って村を見下ろす。具体的な距離は分からなかったが、大して進めていないことが分かった。
雨足が強くなって来た、戻ろうかとも考えたが私の好奇心は強かった。音の発生源はそう遠くないはずなのだから進んでしまえ、内から湧き上がる衝動に身を任せて私は音のするほうに、するほうにと進んでいく。歌声のような音のする場所に大分近づいてきたらしく、自宅にいたときよりもはっきりと聞こえる。
言葉のようにも聞こえた、何かの文句を朗々と歌い上げているようだ。日本語に近い音ではない、中国語のようでもない。英語でもないし、ドイツ語でもない。私が知っているどの言語とも違うようだったが、それは言葉だと思いたくなるほど法則性があるような歌声なのだ。
背後を振り返る、村々の家はかなり小さくなっており山頂付近までやってきたことを私に教えてくれた。この辺りに生えている木は前後左右目一杯に枝葉を伸ばしているものだから、日光が遮られている。加えて今は雨空のためにかなり暗い、明かりを必要とするような時間ではないのだが私は懐中電灯に明かりをともし、行く先を照らしながら進み始めた。
鉈を振るいながら、一歩また一歩と進みながら周りの木に注目する。もし本に書いてあるような特別な木があるのなら、きっと見た目で分かるだろうと考え、木に注目したのだが山頂近くとはいえ生えている木は麓にあるものと同じように思えた。
歌声は近い、進む先から聞こえているのだが、どういうわけだが地面からも聞こえてくる気がする。休憩も取らず、歩き続けたせで疲れ、耳がおかしくなってしまったのか。一息入れるタイミングが来たのかもしれない、歌声は止む気配を見せないし五分程度の小休止を入れたほうがいいだろう。
水筒の水で喉を潤し、息を吐き出しながら手近にあった木に手をついた。ぐにょり、手が沈み込んだ。人間、本当に予期しないことが起きると動けなくなってしまうものらしい。呆気に取られ、水筒を地面に落としながら手を突いた木を見た。そこに木は無かった。
木の形をした黒い、スライムと例えたほうがいいのだろうか、それともゼリーの方がいいだろうか。ともかく、木の形をした黒い煮凝りのようなもに私は手を突いていた。そんなものはつい先ほどまでは無かった、これは何だと、呆然としながらも手で押し込むと柔らかな弾力が返ってくる。冷たくは無い、生物的な暖かさを手の平に感じていた。
歌声が止んでいることに気づき、木の形をしたゼリーの質感をしたものから手を離す。私の手の跡がくっきりと、そこに残る。粘菌の一種なのだろうか、おそるおそる手の跡に顔を近づける。
突如、眼球がそこに現れた。その目はぐるぐる回転し、辺りを見回したかと思うと黒い瞳が私の目と合う。
「テケリ・リ」
鳴き声が、木だったものから発せられた。その声には、歓喜の色が含まれている。歯の根が合わず音が鳴る、後ずさる。
「テケリ・リ」
今度の鳴き声は木からではない、足の下から聞こえた。顔を引きつらせながら足元を見れば、そこに地面は無い。人間の眼球が浮かんだ不定形がそこにあり、私はその上に立っていた。私の口が大きく開いた、叫ぼうとしたが引きつった筋肉のために声は出なかった。
振り返る、そこには変わらず村があった。頭の中は真っ白だったが、とにかく村に、自宅に向けて駆け出した。
「テケリ・リ」
喜びの声が背後から聞こえる、生暖かく腐った匂いのする息が首筋に吹きかかる。逃げなければ、これには敵うはずが無い。逃げて、逃げて、逃げ続けるのだと本能が訴えかけてくる。そして本能のままに私は逃げた、足をもつれさせ転がり落ちる。
枝が引っかかり、服が破れ肌が裂けて血が流れる。その痛みは非現実な光景を目にした私に、現実を思い出させてくれた。痛みを嬉しいと思ったのは初めてだった、背後からは鳴き声がやってくる。とにかく逃げた、走った、転がった。頭の中はそればっかりで、気づいたら私は手ぶらで玄関に座り込んでいた。
背負っていたリュックはいつの間にか無くなっていた、鉈も落としたらしい。腰のベルトに下げた鞘の中に鉈は納まっていなかった。何だったのか、自問するが答えは出ない。頭の中に浮かんできたのは、幾つもの眼球が浮かんだ黒く濁ったスライムの姿だった。
喉から笑い声が漏れる、何を馬鹿な。そんなものがいるはずなんてないだろう。けれど布団の中で夢を見ていたわけではないのだ、私の体は至る所に引っかき傷が出来ていたし、全身に泥がついていた。山の中を歩いて、そこで転がり落ちたのは間違いない。
昨晩聞こえた音の正体を求めるため山に登ったのは確かだ、そしてあの名状しがたい不定形を目の当たりにした。しかし、それは本当にあった出来事なのか。あんなものが現実にいるはずなんてないのだ、もしかすると、もしかするとなのだけれども、私は山を登って転んで頭を打ったのではないか。
そして意識を失い、眠りに近い状態になったのではなかろうか。そんな状態になったのだけれども、身体は休める場所を求めて本能のままに自宅へと戻ってきた。そして玄関に座ったところで気づいたのではないだろうか。そうだ、きっとそうに違いない。
私の住む山の奥に、あんな悪夢めいたものがあるわけはないのだ。大きく息を吐き出すと、それと共に疲労がやってくる。外はすっかり日が暮れていた。腹は空いていたが料理をする気力はない、レトルト食品の買い置きもない。なら食事は諦めて、寝てしまおう。そうすれば、料理をする気力も湧くだろう。
熱いシャワーを浴びて体の汚れを落とし、寝巻きに着替える。早い時間だが、家の雨戸を閉めて回る。そうして裏手の窓へとやってきた時、私は耳を澄ました。あの歌声は聞こえない、雨はまだ降っている。昨晩聞いたあの歌声も、農作業で疲れた神経が生み出した幻聴だったかもしれない。
ふと思い出された悪夢を振り払う。窓の下の地面が蠢いた気がした、何かいるのだろうか。窓から顔を出す、そこには眼球の浮かぶ黒い不定形がいた。
「テケリ・リ」
歓喜の声がした。