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『昨日から諸外国で急増している若者の自殺ですが、その勢いは留まる事を知らず――』
「あらら、なんだか海の向こうは大変そうね」
とその大変さを対岸からちら見だけして、雰囲気だけでこう言っとけばいいんでしょ的な適当さで母さんが喋るのはいつも通りで、いつも通りの朝。朝食に半焦げのトーストの上にバニラアイスを乗せるのものいつも通り。バニラは通常営業。ストロベリーならご機嫌。ノーアイスならイライラ。リビングの扉を開け、皿の上に載せられたマイマザーのご機嫌を確認するのも僕のいつも通り。
「自殺ねー」
と母さんよろしく僕もとりあえずそう口にしてみるも、それがどれだけの大事なのか僕は分からないし、大変だとも思わない。だって毎日どっかで誰か死んでんじゃん。どっかで誰か殺されてんじゃん。朝のニュースで誰も死んでない事の方が不思議な毎日もいつも通りなわけだ。
「なんだかすごいらしいわよー。若者が一気に消えちゃうんじゃないかって」
んなアホな、と僕は思う。そんな人類が壊滅してしまうような自殺ってどんなだ。
これもいつも通りの範疇にすぎない。ただちょっと死に過ぎているだけ。ただそれだけ。いちいちそんな事に全力で心を配って気を取られちゃ僕達は毎日を進めない。生きていけない。
そして生きる為に僕はいい具合にとろけたアイスと共にトーストをかじり、ミルクを喉に流し込む。ぷはっ。うまっ。ミルク×トースト、マジゴールデンコンビ。
胃の中に必要なエネルギーをぶちこみ、しゃかしゃか歯を磨き終えたら、熱いシャワーで髪の毛をずぶずぶに濡らす。あちこち飛び跳ねていた寝癖は一瞬でダウンし、全ての毛髪が地面に向かってお辞儀する。
タオルでがっしゃがっしゃ髪の毛の水分を吸い取り、勢いよくドライヤーで乾かしていく。これで下準備完了。手の平に適度なワックスを広げ、勢いをなくした毛髪共に活気をあたえる。手の平で全体的に馴染ませ、エアリーになってきたら小まめに部分部分をつまんだりひねったりで躍動感を与えていく。
鏡を確認しながら微調整を繰り返し、最後にもう一度全ての角度からスタイルを確認する。
よし、でけた。
「髪型が決まらないと、今日の私は始まらない」とかなんとか言ってたCMをいつもこのタイミングで思い出すのは、その言葉に深く納得したからだ。まさにその通り。ここで今日一日の全てが決まると言っても過言ではない。今日にかける気持ちが全く違ってくる大事な時間。それはもう闘いとも呼べる一切妥協の許せない集中の時間。そして今日もその闘いに無事勝利し、鏡の自分に向かってうんと頷いて見せる。
今日もいい感じじゃないですか。
仕上がりに納得した所で、通学用バッグを右肩に背負い、玄関に向かいズっとスニーカーに足を突っ込む。
「いってきやす」
「いってらっさい」
スニーカーに収まる足を見ていたその時は、当たり前が当たり前じゃなくなるなんて、もちろん想像もしてなかった。
*
教室に入った瞬間に何かがおかしいとは思ったのだ。
人の感覚ってのは基本的に鋭利で、ほんの僅かな空気の違いとかを察知出来るように創られている。だってそうじゃなきゃ生きていけない。生きていく上で何が大事かって言えばそりゃもちろん空気だ。酸素とか二酸化炭素とかっていう物理的な意味だけじゃなくって、雰囲気って意味で。
例えば葬式なんかで、皆が静かにしくしく泣いて故人を悼んでいる時に、
「うぇーい! 昨日のドラマ最高だったよなー。ってああ死んでっから見れてないのか」
なんて微塵も空気を読めない奴なんかと人は一緒に過ごしたいなんて思わない。
なんでお前みたいな奴が生きてんだ、お前が代わりに黙って死んでろって話になる。いや、こんな奴の場合空気とか以前の脳みそてらてら人間だからちょっと違うか。
何にしてもその場の空気を読めない人間ってのは致命的だ。そういう意味で僕の感覚ってのはちゃんと空気を察知出来てる。
この教室を包み込む空気がおかしいって事を。
「どしたん?」
僕は真剣な口調で静かにマツタケに話しかける。
松浦武彦、通称マツタケ。マツタケって呼んでほしいが為にしてるとしか思えないマッシュルームヘッドのさら毛が僕の方になびく。
「ケイ」
「マツタケ、おはよ」
「おはよう」
「で、どしたん?」
「ちか」
「ちか? ちかって、蓮井千佳の事?」
「うん」
「で、ちかが?」
「死んだ」
「は?」
「自殺」
「自殺?」
「そう」
「ああ、そう」
マツタケは空気が読めないタイプなのかもしれないと思った。マツタケは単語で話す癖というかそれを強いているけど、蓮井千佳が自殺で死んだって時にまでこんなふうにまるで単語クイズのように話すのはどうかと思う。別に普通に話す事だって出来るはずなのだから、今ぐらいはそれに戻すべきなんじゃないかと思う。
「なんで?」
「……」
「そっか」
蓮井千佳と言われて連想する単語。僕の頭の中に愛されビッチというワードがスピーディーに浮かび上がった。
「そっか」
僕はもう一度そう呟き、そのまま自分の席へと着いた。
そして考えると、マツタケがいつもの口調を崩さなかった理由を、勝手に少しだけ分かった気がした。きっと認めたくなかったのだ、千佳が死んだという全てを。悲しさを露わにすれば、千佳が死んだ事が現実に近付くから。
だからいつも通りを崩さなかったのだ。あんな分かりにくい単語くぎりで話したのだ。
千佳が生きているいつも通りの世界に、自分はいるんだって。
担任で現代文担当の壇ノ浦が教室に入ってきてからも、教室の空気はざわついていた。まだ各々がその事実を受けいれていない事を象徴しているようだった。
けど、壇ノ浦の言葉で認めざるを得なくなった。
「ひょっとしたら、もう皆も知っているかもしれないが」
若くていつもはへらへらしている壇ノ浦の表情が、今日はガチガチに硬かった。
――ああ、駄目だ。
僕は早速泣きそうになる。というか既に少し泣いている。
その次に続く言葉は、どう足掻いても悪いものでしかない。そう感じさせる言葉と表情と空気が揃っていた。
「僕達のクラスメイトである、蓮井千佳さんが、亡くなられたそうだ」
いつも通りが、いつも通りじゃなくなった瞬間だった。