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玉の緒

作者: 金原 紅

 明華皇国(めいかおうこく)の都、光京(こうきょう)の最奥。

 帝のおわす宮城(きゅうじょう)よりさらに奥にある、祭祀を司る斎の宮(いつきのみや)の祭祀場に一人の少女がいた。

 千早(ちはや)(まと)い、目元に朱を差した少女は緊張した面持ちで入り口を見つめている。

 そこに初老の宮司が祭祀場に入ってきて、恭しく頭を下げながら少女に耳打ちをした。


斎宮(さいぐう)様。間もなくいらっしゃいます」


 斎宮、と呼ばれた少女は小さく頷き、一度目を閉じる。

 斎宮とは斎の宮を取り仕切る最高位の巫女のことで、この少女はつい1月前に斎宮になったばかりだった。そのため、少女が祭祀を執り行うのは初めてなのだ。

 小さく息を吐き、目を開けるのとほぼ同時にシャァァン、という涼やかな音が聞こえてくる。

 先導の巫女が鳴らす鈴の音だ。

 それから程なくして、二人の巫女に導かれて渡り廊下を渡る一団が見えてくる。物々しい雰囲気と、やって来る人数の多さが今日の儀式の重大さを物語る。


 今日は、この明華皇国の皇太子の成人を守護神である太陽神に報告し、加護を願う儀式。

 国の安寧と繁栄のため、とても重要な儀式なのだ。先導の巫女の後ろにいる皇太子も、その後ろに続く大臣達も、緊張した面持ちでいる。

 シャァァン、シャァァンとゆっくりと何度も鳴らされる鈴の音が近づくごとに、斎宮の緊張も高まっていく。

 やがて一団は祭祀場に入り、先導の巫女達は他の巫女や宮司が居並ぶ壁際、大臣達は入り口のすぐ前に並んで座る。

 そしてただ一人、祭祀場の奥へと進んだ皇太子は斎宮の目の前で歩みを止める。

 今日で十八歳になった皇太子と、()しくも同じ歳の斎宮。

 二人が向かい合った時、儀式の始まりを告げる鈴の音が高々と鳴らされた。


   § § § § §


 半時(はんとき)ほどで儀式を終え、普段着ている白の小袖と朱の切袴の巫女装束に着替え、目元の朱も落とした斎宮は斎の宮の裏手にいた。小さな草原になっているそこは、すぐ先に深い森が広がっているために滅多に人の来ない、斎宮のお気に入りの場所だった。

 紐で一つに束ねた長い黒髪をゆらす、ひんやりとした風に斎宮は気持ちよさそうに目を細める。

 今日の儀式は、初めて取り仕切る祭祀としてはあまりにも責任が重すぎた。その重責から開放され、彼女はほっとしているのだ。

 小さく息をついたとき、ざりっと砂を踏む音が聞こえてきた。

 珍しく人が来たことに驚いた斎宮は、音の元へ目を向けてさらなる驚きに目を大きく見開いた。

 こんな人気の無い所にやってきたのは、今日の儀式の主役であった皇太子だったのだ。


「どう、なさったのです? こんな所にお一人で」


 驚きを隠せない声で問い掛ければ、先客がいたことに驚いていた皇太子は一つ小さく頷く。おそらく、誰だかわからなかったのだろう。

 声を聞いて斎宮だと気付いた皇太子は、歩み寄りながら問いに答える。


「斎宮殿、だな? 儀式のあと、別室で休むように言われたが、大臣達と一緒ではなかなかくつろげなくてな。一人で歩いているうちにこのような場所に出てしまった」


 斎宮のすぐそばで立ち止まった皇太子は気さくに笑いかける。すると、斎宮はかすかに頬を赤らめた。

 皇太子は都中の娘達が恋焦がれている人物なのだ。いくら斎宮という巫女達の頂点に立つ地位についていようが、年ごろの娘である彼女が精悍な整った顔の皇太子に微笑まれればときめかぬはずも無い。


「え、ええと……。いいのですか?こんな場所にいらっしゃっても。大臣方が心配なさりませんか?」


 しどろもどろに質問を投げかけると、皇太子は少し首をかしげて答える。


「構わないだろう。斎の宮では何事も起こりはしないだろう?」


 神に仕えるための神聖な斎の宮で何事かを起こせば神の機嫌を害するやもしれない。

 そんなこと、明華皇国の民ならば誰でもわかっていることだ。だから斎の宮では何事も起こりはしない。


「それにしても、ここは空気が澄んでいるな。心が洗われるようだ」


 そう言って皇太子は大きく息を吸う。冷たく澄んだ空気が肺を満たす。


「ええ。この森の先に『神の足元』がありますから」


 少し落ち着いた斎宮も息を吸う。そして少し考え、皇太子に微笑みかけた。


「奥の方へ、行ってみますか?」

「……いいのか?」


 『神の足元』といえば、この国で1番の聖域だ。その近くへ行くかと聞かれ、皇太子が驚くのも無理は無い。

 斎宮はゆっくりと頷く。


「『神の足元』は聖域ですが、禁域ではありません。皇太子様が近づかれても問題ありませんよ」


 しかし、そう言われて皇太子はきょとんとした。そして斎宮の勘違いに気付いて声を立てて笑い、訂正する。


「違う、そのことではないんだ。斎宮殿は、宮から離れてていいのか?」


 まだ微かに喉の奥で笑っている皇太子を見て、斎宮は羞恥で頬を真っ赤に染めた。


「だ、大丈夫です。今日の私の仕事は終わりましたから……」


 俯き、小さな声で答えると、ついと手を取られる。それに驚き、顔を上げると皇太子は真摯な表情をしていた。


「すまない、笑いすぎた。案内してもらって、いいか?」

「……ええ」


 心底すまなそうな顔をしている皇太子ににっこりと笑い、森へと誘う。


「足元、気をつけてください。ほとんど使わない道なので、あまり手入れしていないんです」


 そう言って斎宮が進んでいく道は、獣道と言っても差し支えの無いような細い道だった。

 一応下草は刈ってある。しかし、それだけなのだ。いたるところから木の根が顔を出していて足をかけそうになるし、気を抜けば低い位置にある枝に顔を打ちそうになる。

 そのために二人とも無言になるが、しばらくして沈黙に耐え切れなくなった皇太子が口を開いた。


「斎宮殿も十八歳なんだろう?」

「ええ」

「十八で斎宮になるというのは、すごいことではないのか?」

「……そう、ですね。次期斎宮候補筆頭は確か、三十ほどの方ですし」


 しばし考えてから、斎宮は答えた。


「でも、斎宮になるのに年齢は関係ありません。巫女としての能力に長けている者が斎宮になるんです」


 斎宮はそう言うが、皇太子は尊敬するようなまなざしで見る。


「だが斎宮殿は、あれほどたくさんいる巫女達の誰よりも能力が優れているのだろう? やはりすごいことだ」


 そう言われて斎宮は苦笑を浮かべる。

 そしてしばらく歩き続けると突然、薄暗い森が途切れ、視界が開けた。『神の足元』、と呼ばれる場所に出たのだ。


 他のどこよりも眩しく、明るいそこには小さな草原が広がり、その先は崖になっている。

 崖は広く、深い。底に川が流れているらしいが、上からは見えない。また、向こう岸も遠すぎて人間が立っていても見えないだろう。

 しかし、こちら側と同じように森が広がっている対岸には川があり、その水が大きな滝となって崖に流れ落ちているのはよく見えた。

 飛び散る飛沫が光に照らされ、キラキラと輝く。そして時折、七色の虹が架かっては消える。

 その、ものすごい迫力と神秘さを持った光景に、皇太子は言葉を忘れて見入っていた。


「とても、きれいでしょう?」

「ああ……。『神の足元』が、これほどまで美しい場所とは思いもしなかった。しかし……」


 そこで言葉を切り、斎宮を見つめる。

 斎宮も皇太子の真剣なまなざしに気付き、皇太子を見つめ返す。


「ここは、今まで幾人もの斎宮が身を奉じてきた場所でもあるのだろう?」

「ええ……。だからこそ、『神の足元』なんです。天変地異が起こったとき、斎宮は神の元へ行き、加護を請います。そのために身を奉じるこの崖は、まさに『神の足元』」

「だが……。貴女も、天変地異が起きた場合、身を奉じなくてはならないのだろう? 怖くは、ないのか?」


 斎宮は一度目を伏せ、息をつく。そして再び目を開いた時、その黒曜石のような瞳には強い光が宿っていた。


「怖くないといえば、嘘になるでしょう。でも、覚悟は、巫女になったときから決めています」


 そして斎宮は、ふわりと笑う。


「それに、私の命が国の役に立つというのは、とても嬉しいことです」


 きっぱりと言い切った斎宮に、皇太子は言葉を失った。そして俯き、両手を固く握る。


「国のために、そこまで……」


 押し出すように呟く皇太子に、斎宮はそっと近寄る。そして、固く握られた左の拳を両手で包み込んだ。


「皇太子様は、将来国を背負われるお方。そして私は国の危機に役立つためにいる者。元々、決める覚悟は違います」

「だが……!!」

「皇太子様が気になさることではありません。それに、先代のように身を奉じることなく、天寿を全うされた方のほうが多いのですよ」


 そう言ってにっこりと笑う斎宮を、皇太子は思いつめたような顔で見つめた。

 二人とも何も言わず、流れ落ちる滝の音だけが響いている。長い間、そうしていた。

 皇太子は目を閉じ、息をついた。


「…………名を、教えてくれぬか?」

「……? 水桐(みぎり)、です」

「水桐、か。私の名は、伊冴(いざや)

「伊冴様……?」

「そうだ」


 未だに不思議そうな顔をしている水桐の手を、空いている右手で包み込む。


「名で、呼んでくれぬか?」


 切なそうに両の眉を寄せた伊冴を見て、水桐は頬を薄く染めた。


「はい……」


   § § § § §


 夕餉(ゆうげ)も終わり、夜の祈りまでの時間を水桐(みぎり)は自室で過ごしていた。

 もちろん、斎宮であるから個室である。

 夜のひっそりとした空気の中一人で本を読んでいた水桐は、一応は周りを(おもんぱか)って音を立てないようにしているけれど、完全には消しきれていない速めの足音に顔を上げた。


「水桐、入ってもいい?」


 小さくかけられた声は予想通りのもので、水桐は本を閉じる。そしてそっと扉を開け、客人を部屋へ通した。


「どうしたの? 栞菜(かんな)


 客人――栞菜は水桐と同じ時に斎の宮に入った巫女で、さらに歳も同じだったために水桐が斎宮になった今でも唯一気兼ねなく話す相手であった。


「あのさ……」


 そこで言葉を切った栞菜はフフフ、と不気味な笑いをもらす。


「見ちゃった!!」

「……? 何を見たの?」


 小さく首を傾げる水桐に、栞菜はにやりと笑う。そしてズズイと近寄り、水桐に(ささや)いた。


「水桐と皇太子様が手を取り合って、森へと入っていくのを!」

「っ!?」


 バッと勢い良く栞菜から離れた水桐の顔は、真っ赤に染まっていた。


「ど、どうして……!?」

「ふっふっふ~。水桐がなかなか戻ってこないから、いつもの所にいるかなって見に行ったら偶然!ねぇ、あの後どうしたの?」


 完全に面白がっている栞菜に、水桐はさらに顔を赤く染める。そして体を小さく丸め、俯いてしまう。

 しかし、そんなことで退く栞菜ではなく、さらに近付いて水桐を追い詰める。


「森の中には何もないから、『神の足元』に行ったんでしょ?皇太子様、何て言ってた?」

「……とてもきれいだって……」


 小さな小さな声を聞き、栞菜はにんまりと笑う。


「そうよね~。で? それだけじゃないでしょ?」

「……恐ろしくはないかって……」

「ま、そうよね。それから?」


 ふむふむと(うなず)いた栞菜はさらに先を促す。

 水桐を見やる様は、まるで獲物を見つけた獣のようであった。


「…………。名前で呼んで欲しいって」

「えっ!?」


 突然上がった驚きの声に、ずっと俯いていた水桐は不思議げに顔を上げる。

 すると、栞菜はしばし驚きで目を見開いていたが、すぐににやけ顔に変わった。


「ふ~ん、へ~。そうなの~!!」


 なぜかやけに嬉しそうな栞菜の様子に、水桐は不安を覚えた。


「ねぇ、栞菜。何なの一体?」

「ううん、何でも。しかし、へ~。そうなのか~」


 ニコニコと笑いながら、延々とそうなのかと一人で頷き続ける。

 しかし栞菜のその様子を見て、水桐の不安は深まっていくばかりであった。


「ねぇ! 一体何なの!?」


 少し強めに言って栞菜に詰め寄れば、するりと逃げられる。


「あ、もう夜の祈りの時間よ! ほら、祭祀場に行かなきゃ!!」


 やけに演技めいた声でそう言い、栞菜は立ち上がる。

 そしてそのまま、さっさと部屋から出ようとするので、水桐は急いで栞菜の袖を掴んだ。


「ねぇ、栞菜のそう言う態度、すごく不安になるの。だから、教えて?」


 栞菜の目をじっと見つめ、真剣に頼む。

 すると栞菜は、「水桐のその目に弱いのよね、あたし」と呟いてため息をつく。


「あのね、年ごろの男女は普通、名前で呼び合わないじゃない。特に皇太子様なんて」


 そういうこと、と栞菜はさっさと部屋から出ていってしまった。


「え……。えっ!?」


 栞菜が何を言いたいのか、数瞬の後水桐は理解する。

 互いに名前で呼び合う年ごろの男女は恋人か夫婦しかいない、ということを。

 そして、伊冴(いざや)が名で呼んで欲しいと言った意味を理解し、真っ赤になってへたり込んでしまった。


   § § § § §


 翌日の夕刻(ゆうこく)

 日中の仕事を終え、水桐(みぎり)斎の宮(いつきのみや)の裏手の草原にいた。夕餉(ゆうげ)までの時間をこの場所で過ごすのは、斎宮になってから水桐の日課になっていた。


 『神の足元』の方へ沈んでいく夕陽は森を真っ赤に染め上げ、見る者全てに美しさと太陽の化身(けしん)である太陽神への畏怖(いふ)の念を与える。

 その中で水桐は目を閉じ一切の雑念を捨て、純粋な気持ちで太陽神に祈りを捧げるのだ。

 そして祈りを捧げ終わり、目を開くと丁度見計らったかのように声をかけられた。


「水桐は仕事熱心なのだな」

「こ、皇太子様!?」


 慌てて声の方を見ると、伊冴(いざや)が微かに眉間に皺を寄せていた。


「名で呼んではくれぬのか?」

「えっ!? いえ、その……」


 昨夜の栞菜(かんな)との話を思い出し、水桐は顔を真っ赤にする。そしてすぐに両手を頬に当てて赤くなった顔を隠し、俯いてしまった。


「どうかしたのか?」


 あまりの慌てふためき様に伊冴は水桐の顔を覗き込む。

 しかし、その心底心配そうな伊冴と目が合った水桐は勢い良く顔をあげて否定した。


「いいえ! なんでもありません!!そ、それより、い……伊冴様は、どうしてこちらに?」


 はぐらかされたことに顔を(しか)めながらも、名前で呼ばれたことに喜びを隠せない伊冴は正直な答えが口から滑り出す。


「水桐がここにいるような気がしたから」

「えっ……!?」

「いや……、私も仕事が終わって一息つきたかったからな。ここは空気が澄んでいて、落ち着くから……」


 伊冴は自分が言ったことに慌てながら言葉を継ぐ。しかしどう言っても取り繕えなさそうだと思い、盛大に顔を顰めて息をついた。


「驚かせてしまって申し訳ない。しかし、水桐にもう一度会いたいと思ったのは事実なんだ」

「!?」


 先ほどから驚きで目を見開いたまま硬直している水桐を見て、伊冴は困ったように笑う。


「毎日、ここで祈りを捧げているのか?」

「……ええ。ここで夕陽を見ていると、太陽神様を最も身近に感じられるので」


 話が変わったことにホッと息をついた水桐は、目を細めて森とその先にある夕陽をみつめた。そしてその横顔を見つめる伊冴には気付かず、目を閉じる。


「こうやって、目を閉じていると太陽神様に包まれている感じがするんです。だからここで祈りを捧げると一番、太陽神様に届くような気がして」


 再び目を開いた水桐はふわりと微笑む。


「そうか……。水桐は本当に、仕事熱心だな」

「そうですか?」

「ああ。身も心も、太陽神様に捧げているようだ」


 そう言って森へと目を向けた伊冴につられ、水桐も森を見る。

 すでに太陽はほとんど沈んだらしく、空は赤いものの、森は暗闇に飲み込まれようとしていた。


「いけない! もうそろそろ宮に戻らないと!!」

「ん?ああ、夕餉の時間か……」

「ええ。それでは、お先に失礼します。伊冴様もお気をつけて」


 慌ててお辞儀をして、水桐は斎の宮へと早足で戻っていった。


 一人残された伊冴はしばらく斎の宮の方を見つめていたが、ふっと息をついて天を仰ぐ。


「太陽神様に嫉妬(しっと)してしまいそうだ……」


   § § § § §


 夕暮れ時に斎の宮(いつきのみや)の裏手で会うのは、いつしか日課となっていた。

 水桐(みぎり)がそこへ行くと、すでに伊冴(いざや)がいるのだ。

はじめのうちは驚き、戸惑っていた水桐も、一月も続くとそれが当たり前となっていた。


 そして一年が経ったある日。

 水桐が斎の宮の裏手へ行くと、いつものように伊冴はすでにいた。

 その日はたまたま仕事が早く終わり、陽が沈むには時間があったのでまだ伊冴は来ていないだろうと思っていたのにだ。

 驚きのあまり、伊冴を見つけた場所で立ち止まって見つめてしまっていた。すると丁度辺りを見回した伊冴と目が合ってしまった。


「水桐、どうかしたのか?」


 笑いかけながら聞く伊冴に首を横に振る。そして落ち着くようにとゆっくり歩いて伊冴の隣へ行く。


「なんでもないんです。ただ、伊冴様が先にいて驚いたもので。いつもこんなに早くからいるんですか?」

「いや、いつもはこんなに早くは来れない。今日は偶然仕事が少なかったから早く来てみたのだが、来て正解だったようだ」


 嬉しそうに笑う顔に、つい見惚れてしまう。

一年も毎日会って話しているのに、伊冴の端整な顔に笑みが浮かぶとドキリとしてしまう。きっと、慣れることなんて無いのだろう。


「本当に、偶然ですね。私もたまたま、今日は早く仕事が終わったので」


 水桐もふわりと微笑んで伊冴を見上げる。すると伊冴の顔が赤く見えたのは、きっと夕陽のせいだけではないだろう。

 伊冴はさり気なく顔を背け、森を見つめた。


「……『神の足元』へ行かぬか?」

「『神の足元』へ、ですか?」

「ああ。今日は時間があるからな。……だめか?」


 伊冴は水桐を見つめ、かすかに首を傾(かし)げる。その真剣な瞳には、なぜか不安そうな光が宿っていた。

 水桐は伊冴の手をとり、微笑む。


「いいえ、構いません。行きましょう?」


 そう言って伊冴の手を引き、森へと向かう。

 途中、振り返って見ると、伊冴の瞳に宿っていた不安げな光は消えていた。それどころか、先ほどの不安げな光は見間違えだったのではないかと思うくらい、嬉しそうな顔をしている。

 薄暗い森の中を進む間、絶えることなく話をしていた。

 しかし森を抜け、『神の足元』に着いた途端自然と会話が途切れた。


 沈みゆく夕陽に赤く照らされた対岸の森と川。

 轟音(ごうおん)を立てて流れ落ちる、巨大な滝。

 一年前、初めて二人で『神の足元』を訪れた時と変わらぬ物凄い迫力と神秘さを持っている光景に、しばし見入ってしまう。


「相変わらず、ここは美しいな」


 伊冴はそう呟いて、目を伏せる。


「ええ。…………太陽神様は常にここにいらっしゃるから。だから変わることのない恩恵を、私たちもいつも受けられるんです」

「そう、か……」


 目を開いた伊冴はしばし『神の足元』の景色を眺め、そして何か決意を秘めたような、強い眼差しで水桐を見つめた。


「水桐」

「はい?」


 真剣な表情の伊冴に水桐も向き合い、かすかに首を傾げる。

 そして僅かな沈黙の後に伊冴が口を開こうとした、その瞬間――。


 ゴウ、と崖の下から強い風が吹き上がり、伊冴と水桐をも巻き込んでいく。


「っ!!」

「きゃあ!」


 長い黒髪を強風になぶられて足元をふらつかせた水桐を伊冴はしっかりと抱き留め、そのまま風が去るのを待つ。


「大丈夫か?」

「ええ。ありがとうございます」


 風が収まってから声を掛けると、俯いていた水桐は顔を上げ、微笑を浮かべた。しかし、すぐに今の体勢に気付いて頬を赤らめ、伊冴から離れる。

 そして、束ねていた髪がほどけていることに気が付く。


「あ、髪紐が……」

「風のせいで切れてしまったようだな」

「ええ……」


 周囲を見渡すが、先ほどの強風でどこかに飛ばされてしまったらしい。髪紐は見つかりそうもなかった。


「…………これを、髪紐に使うといい」


 そう言いながら、伊冴は腰帯につけていた紐飾りの一つを差し出す。

 その紐飾りは、白と浅葱色の組紐で、両端には翠色の玉が付いている。組紐自体も美しく、その上両端についた玉はどうやら翡翠のようである。


「そんな……。いただけませんわ」

「気にすることは何もない。使ってくれ」

「でも……」


 なかなか手を伸ばそうとしない水桐に、伊冴は小さく息を吐く。そしてそっと水桐の手を取って紐飾りを渡し、じっと見つめる。


「贈り物、として受け取ってもらえぬか? そのくらいはさせて欲しい」

「あ……、ありがとうございます。大切に、しますね」


 顔どころか首まで赤く染めた水桐は、紐飾りを握り締めてはにかんだ。

 しかし、伊冴はそれを見てため息混じりに呟く。


「本当は、もっとちゃんとした物を用意して贈りたかったんだが……」

「そんな!! 私、この紐を頂けただけで、とてもうれしいです」


 そして手早く紐飾りで髪を束ねると、満面の笑みを浮かべる。


「伊冴様の腰帯の飾りとおそろいです」


 伊冴の腰帯にはもう一つ、同じ紐飾りが付いていたのだ。

 水桐の言葉でそれを伊冴も思い出し、笑みを浮かべる。


「そうだな。この紐は、大切にしよう」


 自分の腰帯に付いた紐飾りを握り締める。

 そしてかなり傾いてしまった夕陽を見やり、再び吹き付けてきた強い風に目を細める。


「風が強いな……。日もかなり落ちてしまったし、そろそろ帰ろう」

「ええ、そうですね」


 そして二人は手を取り合って、『神の足元』を後にした。


   § § § § §


 その日の夜。

 夜の祈りまでの時間を自室で本を読んでいた水桐は、強い風にゆれる木々の音に混じって聞こえてくる足音に顔を上げた。

 そしてその足音の主であろう人の顔を思い浮かべ、小さなため息をつく。 無意識に、手は伊冴から貰った髪紐を触っていた。


「水桐、入ってもいい?」


 予想通り、栞菜(かんな)がいつもと同じように声を掛けてくる。水桐もいつも通り、そっと扉を開けて栞菜を迎え入れる。


「どうしたの……?」


 嫌な予感に眉を寄せる水桐に、栞菜は不気味な笑みを顔一面に浮かべる。


「フフフ~。どうしちゃったのよ、その髪紐!」


 か、み、ひ、も、とわざわざ一音ずつ区切ってはっきりと発音し、じっと水桐を見つめる。その瞳は、まるで獲物を見つけた獣のように、爛々と輝いていた。


「風で切れちゃったから」

「から?」


 予想していた問に、用意しておいた答えを返すが、栞菜はやはり甘くなかった。あっさりと続きを促される。


「……新しいのを使っているのよ」

「うん、そうね~。でも、その髪紐、裏の草原に行ってる間に変わったよね~?」

「えっ!? なんでっ、それ……!!」

「あ、やっぱりそうなんだ~!!」


 ニパッと笑う栞菜に、水桐は言葉を失う。


「…………騙したのね?」

「騙しただなんて、人聞きの悪い! 鎌をかけただけよ~。それに、その髪紐とても綺麗なんだもん。わざわざ水桐が髪紐にそんな綺麗な紐を用意するとは思わないからさ」

「…………」


 斎の宮(いつきのみや)の巫女たちでも年頃の娘達であるから、髪紐や櫛などの好きな物が使える物は、皆それぞれ意匠を凝らしたこだわりの物を使っているのだ。

 しかし、水桐は華美な物を好まず、全て簡素な物を使っている。そのため、この部屋も殺風景といえるくらい、無駄な物や装飾がない。

 そんな水桐が両端に玉の付いた美しい組紐を髪紐に使っていれば、誰かからの贈り物であろう事は一目瞭然なのであった。


「それで? やっぱり??」

「…………伊、じゃなくて、皇太子様から頂いたの……」


 消え入りそうなほど小さな声でそう言う水桐は、首まで真っ赤になっていた。


「やっぱりぃ~!! その翠色の玉、翡翠よね? さっすが皇太子様~!!」


 まるで我が事の様に、栞菜は嬉しそうに言う。


「確か、三代前の斎宮様って当時の皇太子様とご結婚なっさったのよね~。もっと昔にも、斎宮様が皇族とご結婚なさったこともあったわね」

「え、うん……。なんで急に?」

「何で急にって、もう! 水桐は相変わらずこういうことに疎いんだから」


 パシリと軽く水桐の肩を叩き、栞菜はため息をつく。


「男性が、想い人である女性に贈り物をするのは、求婚をする時じゃない! それに、その髪紐って玉付きの紐、玉の緒じゃない。玉の緒を渡すって、命を渡すって比喩に取れるし」

「求っ!? 命っ!?」

「そ。玉の緒には命って意味もあるから。皇太子様ったら、粋なお方っ!」


 うらやましいわ~と栞菜が一人悶絶する傍ら、水桐はあたふたと手を振ったり栞菜を叩いたりしていた。


「で、で、でも! 私の髪紐が切れたのは偶然だし、この紐も偶然伊冴様が持っていただけだし……」

「まっ、伊冴様? 名前で呼び合ってるなんてやっぱり仲睦まじいのね~。まぁ、ここまで深い意図は無かったのかもしれないけど、水桐程なにも思い付きもしない人はなかなかいないわよ」

「う……」


 栞菜の口撃(こうげき)に返す術も無い水桐は、硬直してしまう。

 確かに、伊冴は贈り物をするつもりだったというようなこと言っていた。水桐程なにも考えていない訳がない。


「どうしよう……」


 何の考えもなしに伊冴から髪紐を受け取ったことが、悪いことのように思えてきた。


「どうして? 水桐はその紐を頂いて、嬉しかったんでしょ? 夕餉(ゆうげ)の間中、とっても幸せそうだったし」

「……うん」

「なら大丈夫でしょう? 水桐と皇太子様は斎の宮の人間全員が知ってるくらい、仲睦まじいんだから」


 ポンと優しく肩を叩きながら栞菜が掛けた言葉は、水桐に安心と共に強烈な衝撃を与えた。


「ええっ!? 知ってるって、ええっ!?」

「知らないわけ無いじゃん。毎日皇太子様が宮の裏にいらっしゃるんだもの」


 ニヤリと笑った後、栞菜は水桐をぎゅっと抱きしめる。


「皆応援してるよ、水桐のこと」

「…………ありがとう」

「うん。じゃ、もうそろそろ祭祀場に行かなきゃね。夜の祈りに遅れちゃう」


 最後に水桐の背中を優しく叩くと、栞菜は立ち上がる。そして座ったままの水桐を見つめ、尋ねる。


「幸せ?」

「うん、幸せ」


 満面の笑みの水桐に目を細め、栞菜は部屋から出て行った。

 そしてそれを見送った水桐は、独り小さく呟く。


「幸せだよ」



 しかしそのわずか後、幸せは打ち壊されることになる。


   § § § § §


 翌朝、光京(こうきょう)は未曾有の嵐に襲われた。

 その嵐は斎の宮(いつきのみや)での祈りもむなしく、五日経っても衰えることは無かった。

 激しい風雨により、家屋や農地は大きな被害を被り、さらに川の水位も日々上昇していた。いつ川が氾濫してもおかしくない状態にあり、このままであれば光京のみならず、明華皇国(めいかおうこく)全土に被害が広まるのは避けられない状況であった。

 そして帝は嵐に襲われて五日目の昼過ぎ、ついにある(めい)を下した。



斎宮(さいぐう)様」


 斎の宮の祭祀場で一人、太陽神に祈りを捧げていた水桐(みぎり)は、背後から掛けられた声に振り返る。

 声を掛けた初老の宮司は、水桐の前で恭しく頭を下げ、(ひざまず)く。


「どうしましたか?」


 国の大事である。水桐は緊張した、硬い声で問うた。

 すると宮司は顔を上げ、水桐に書状を差し出す。そして水桐とは目を合わさずに、淡々と告げた。


「帝より、命が下されました。ご準備を」


 その言葉に、水桐は一度目を伏せ、小さく息をつく。そして目を開くと共に、小さく頷く。


「……わかりました」


 そう答えた水桐の両手は、きつく握りしめられていた。


   § § § § §


 光京を襲った嵐は、未だ衰える気配すらない。

 木々をもなぎ倒す激しい風と、横殴りの雨。そして間断なく轟く(いかずち)

 その中に一歩足を踏み出せば、打ち付ける冷たい雨にたちまち全身の感覚が失われる。その上、渦巻く風で息を吸うことすら儘ならなくなる。

 しかし、栞菜(かんな)はそのようなことにも構わず、斎の宮から宮城へと続く道を駆けていた。

 風雨が遮り、思うように前に進めなくともただひたすら、必死に手足を動かしていた。


 今、自分がしている行動は、掟破りであることはわかっていた。

 国のためには、多くの人を救うためには、してはならないことだとわかっていた。

 そして、水桐が望んでいないであろうことも、わかっていた。

 でも。

 それでも。

 水桐には幸せになってほしいのだ。

 例え自分が罰せられようとも、国中の人に身勝手だと罵られようとも。

 幸せになってほしいのだ。

 あんなに幸せそうに笑っていたから。

 あんな、幸せそうな笑顔は初めて見たから。

 だから、栞菜は走り続ける。

 宮城に入り、衛士(えじ)の制止も振り切って走り続ける。

 そして探し求める人、伊冴(いざや)を見つけた瞬間、叫んでいた。


「水桐がっ……!!」


   § § § § §


 斎の宮の中にある水場で(みそぎ)を終えた水桐は、静かに衣装を改める。

 身に(まと)うのは穢れなき、真白の着物。そして太陽神を表す色である金色(こんじき)の帯を締める。

 さらに、金糸を編んだ組紐で髪を結い、金で作られた耳飾りと首飾りと指環を身に付ける。

 身支度を整える間に、心も静めていった。

 しかし、先ほどまで身に付けていた巫女装束の上に置いた、翡翠の玉が両端に付いた白と浅葱色の組紐が目に入って動きが止まる。

 本来ならば、定められた衣装と装身具以外身につけることは許されない。 私物は俗世への未練であり、神への冒涜になるからだ。

 水桐はしばし考え、そして組紐を手に取る。


「これだけは……」


 小さく呟き、そっと胸元に仕舞い込んだ。

 身支度を終えた水桐は、しばらく瞳を閉じて己を静める。

 もう、心は決めた。揺らいではいけない。

 そして瞳を開けた、その時。


「斎宮様っ」


 震える声で水桐を呼び、一人の巫女が入ってきた。


伊代(いよ)さん……?」


 入ってきた巫女は、次期斎宮候補筆頭である、伊代であった。

 本来であれば、祭祀場で他の巫女たちの指揮を執っていなくてはならないはずだ。それなのに、水桐を訪れてくるなどと。


「一体、どうしたのですか?」


 何事かと驚き、水桐は問う。しかし伊代はその問には答えず、水桐の両手を握る。

 そして、しっかり水桐の瞳を見つめ、懇願する。その瞳は、強い光を宿しながらも、揺れていた。


「どうか、斎宮位を、わたくしにお譲りください」

「えっ……?」

「今すぐ、わたくしに斎宮位を。そのお役目を、お譲りください」

「…………」


 伊代の申し出に、思わず心が揺れる。

 この役目を伊代に譲れたら――。


 しかし、そこで伊代の瞳を思い出す。

 決死の覚悟を決めた、強い光を宿した瞳。しかし、恐怖や不安にも揺れる瞳。

 そして、両手を握る伊代の手が、がくがくと震えていることにも気づいてしまった。手だけでなく、全身が震えていることにも。

 そのことに気づき、心の揺れは治まった。

 そして静かな声が出る。


「それはできません」

「そんなっ!? わたくしがお役目をっ……」


 目を見開き、言いつのる伊代を、静かに首を横に振って遮る。


「斎宮は、私です」

「でもっ!」

「正式な代替わりの儀式も行っていないのに、斎宮位を譲るなど、許されません」

「でも、斎宮様には皇太子様が……」


 掠れた声で、さらに言いつのる伊代に、自然と水桐は笑みが浮かぶ。


「ありがとうございます。…………でも、だからといって、貴女に命を捨てろなど、言えません。それに……」


 そこで言葉を切り、目を伏せる。


「きっと、この嵐は斎宮である私が、太陽神様に身も心も捧げなくてはならない私が、伊冴様に恋をしたからっ……!!」


 つぅ、と一筋、涙が零れた。


「……私は、この国を護りたいのです」


 小さく息をつき、心を落ち着ける。

 そして、黙り込んでしまった伊代を、しっかりと見つめる。その瞳は、強い決意を秘めた、揺らぎないものであった。


「だから、私は行きます。あとのことは、よろしくお願いします」


 伊代の手を握り返し、微笑みを浮かべる。

 そして、伊代を残して水桐は向かう。



 『神の足元』へ。


   § § § § §


 斎の宮の裏手で大勢の巫女や宮司に見送られ、水桐は一人、森へと入っていった。

 鬱蒼(うっそう)と生い茂る木々のおかげで、激しい風雨からは免れることができている。

 しかし常よりもさらに暗い上、森全体が風に揺らされて起こる音に、視覚や聴覚が麻痺する。時間感覚も麻痺し、もうかなり長いこと森の中を彷徨っているように感じていた。

 そのため、視界が開けた途端、ほっと安堵の息をつく。


 『神の足元』も雨にけぶり、いつもなら見える対岸の森や滝が全く見えなかった。

 しかし、なぜか風雨は弱く、雷の音も遠い。うっすらと光も射しているようで、とても嵐の中とは思えない。


「さすが太陽神様の足元だわ……」


 改めて畏敬の念を抱き、明華皇国の加護を祈る。

 そして一度都の方向を振り返り、相変わらずの嵐に顔を歪ませる。


 この国を、あの方の居る、この国を護りたい。


 ただ、その想いだけを胸に、水桐は『神の足元』へと向き直る。そして、崖の方へと足を踏み出したその時――。


「水桐っ!!」


 名を呼ぶ声と共に、背後から抱き締められた。


「なっ!? 伊冴、様……?」


 思いがけない人の声に、瞳を見開く。そして体をきつく抱き締める、雨に濡れて冷え切った腕を感じ、思わず涙が溢れ出す。

 しかし振り返りはせず、涙で震える声を押さえこんできつく問う。


「なぜ、ここに、いらしたのです。今は、儀式中です」

「栞菜殿が教えてくれた。水桐が、身を、奉じると……」

「それを知っているならば、なぜいらしたのです!?」

「そんなことっ……!!」


 拒絶するかのように頑なに振り返ろうともしない水桐に焦れ、伊冴は無理やり水桐を振り向かせる。そしてその細い両肩を掴む。


「水桐を失いたくないからっ! 水桐を愛しているからっ!! だからっ……!!」


 そこで一度言葉を切り、俯いて未だに伊冴を見ようとしない水桐の頬を両手で挟み込む。そしてそっと顔を上げさせ、瞳を合わせる。


「だから、どうか、行かないでくれ……」

「…………」


 伊冴の真摯な瞳に見つめられ、水桐の瞳も大きく揺れる。

 絶えず、涙はこぼれ続けていた。

 しかし、断ち切るように瞳を閉じ、首を横に振る。


「私は、行かなくてはならないのです」

「行くなっ!! どうか、私と共に生きてくれ」


 伊冴は再び水桐を強く抱き締め、懇願するように耳元で囁く。

 水桐は、一瞬迷った後、伊冴の背に腕を回す。

 しかし、一度強く抱き返すと、そっと伊冴の胸を押して体を離す。そしてしっかりと、瞳を合わせる。


「そのお言葉、とても嬉しいです。……でも、それでは、国はどうなるのです?」

「それはっ………………」


 何か言葉を紡ごうとしたが何も出て来ず、伊冴は言葉を失った。

 苦しそうに眉をよせ、言葉を探す伊冴に、水桐はふわりと微笑む。


「それで良いのです。伊冴様は、この国の未来を背負っていらっしゃるのですから」


 水桐は胸元から翡翠の玉が付いた組紐を取り出すと、伊冴の手に握らせる。そしてその組紐ごと、伊冴の手を握りこむ。


「私も伊冴様を愛しています。そして、この国も」


 しっかりと伊冴を見つめ、語りかける。


「だからこの国……、貴方が居る、この国を護れることを、この国の礎になれることを、嬉しく思います…………」


 そっと伊冴の頬に手を伸ばし、先ほど伊冴がしてくれたように優しく両手で挟み込む。そしてさらに背伸びをし、自分の唇を伊冴の唇に重ねる。

 ほんの短い間、ただ触れるだけの口付け。

 しかし、全ての想いを込めて。

 静かに離れると、思いがけない水桐の行動に固まっている伊冴に、とびきりの笑顔を向ける。


「私は、伊冴様に出逢えて、とても幸せです」


 そしてそのまま、水桐は崖へと身を投げる。


「っ! みぎりっっ!!」


 慌てて伊冴は手を伸ばすが、その手は空を切っただけであった。


「そ、んな…………」


 がくりとその場で膝をつき、呆然と水桐が消えた崖を見つめる。

 そして、握りしめた翡翠の玉の付いた組紐を胸に抱く。


「水桐…………。水桐……、水桐、みぎりぃっ!!」



 慟哭(どうこく)する伊冴に、いつの間にか一筋の光が降り注いでいた。



   § § § § §



 月日は流れ、新しい帝が即位した。

 新帝の名は、伊冴帝。

 彼の王は即位して間もなく、ある祭りを行った。

 その祭りは、この明華皇国のために太陽神へと身を奉じた斎宮たちを祭ったものであった。

 そしてその祭りの最後に、伊冴帝は自らの手で、『神の足元』と呼ばれる崖へと、翡翠の玉の付いた組紐を奉じた。


 かつて、彼の手から容易くこぼれ落ちてしまった玉の緒(いのち)を忘れぬため――。

まずは、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

そして、あんな最後でごめんなさい。

気に入らない方もいるでしょうが、はじめから、あの最後に向かって書いていたので、というかはっきり言ってしまえば、あの最後を書きたいがために書いていた小説なんで。

だから途中展開が異様に早いのも仕様です、としか言えないです。。。

たぶん、突然飛んだあの間はラブラブしてたんですよ!きっと。


一応、伊冴は水桐の覚悟に惚れて、水桐は伊冴の熱意に負けて愛が育ったって感じです。ここで書いちゃってるあたり、もうダメダメですが。

弁解ついでに、伊冴とか水桐とか、読めねぇよっ!てな漢字なのは、本当に意味ありません。


では、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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