風を纏い、空を飛べ
――最悪だ。
炎天下の夏空の下。蝉の声が喧しい公園のベンチで、汗を流しながら心底不快な表情を浮かべた。
思わず舌打ちを打つ。携帯を持つ手は、徐々に力が込められていった。
――このまま握り壊してやろうか。
けれど、そんなことできるはずもなく、ただ睨みつけることが精一杯だった。
夏の暑さで、ふわふわと不快感を覚えていた程度の私の気分は、一気にどん底に落とされた、そんな感じ。
こんなことで一喜一憂している時点で己の器の小ささを思い知るが、それは後回し。
――爆ぜろ、リア充。
心の内で、今まで誰にも聞かせたこともないようなドスのきいた声で言う。
携帯画面に映し出されているのは、某SNSサイト。そこには、高校時代の友人が昨日投稿したものが載っていた。
『彼氏と花火大会に行ってきました』
顔文字やらなんやらを巧みに使った文面だけでも、幸せを十分感じる。それはもう、吐き気を催すくらい。だが、それだけでは飽き足らないのか、さらに己の幸福を主張するかのように、写真も載せられていた。
浴衣姿の男女が、カメラに向かって笑顔を振りまいている。
――ふざけるな。
真っ黒なスーツに身を包み、私は汗だくになって這いずり回っているというのに。何なんだ? この女は。
周囲の友人たちは、すでに内定をもらい、学生生活最後の夏休みをエンジョイしている。
――それに比べ、私はどうだ?
未だに内定先を得ることができず、こんな暑い日に公園のベンチに座って時間をやり過ごしている。これから面接だというのに、やる気が起きない。
暑さのせい、だけではないだろう。
――もう、やんなってきた。
見上げた空は、どこまでも青い。そんな青の中を自由に飛ぶ鳥を見て、思わず手を伸ばした。
届くわけないことは、わかっている。
それでも、伸ばさずにはいられない。
――私も、人間じゃなくて鳥だったらよかったな。
ばさり、ばさりと風を切り、時には風に乗って空から地上を眺めたらどんなに気分がいいだろう。きっと、人間なんて蟻みたいに小さいはずだ。地上から見れば、空に突き刺すかのようにそびえ立つ高層ビルも、空からじゃあ、ちっぽけな存在だろう。
「私も、飛べたらなあ」
私の小さな呟きは、うるさいくらいの蝉の大合唱によって掻き消された。
人間の住む社会というのは、こんなにも息苦しい場所なのか、と思い知ったのはつい最近。それまでは、親を始めとする周囲の人間たちが、私たち人の住む社会がどれだけ過酷で残酷か、私の目に映らないよう隠していたのだろう。
だが、それも終わり。社会人になるということは、そういうこと……なのか? この現実を受け入れ、生きろということなのか?
――それじゃあ、あんまりだ。
明日なんか、来なければいい。
一生子供のままでいい。
けれど、それはどうあがいても叶わない。
人という生き物は本当に面倒だ。世間体という奴をどうしても気にしてしまう。
就職できなかったらどうしよう……。その思いから、強烈な不安が私を襲う。
「鳥だったら、よかったのに」
もう一度、ぽつりと呟いた。
腕時計で時間を確認した私は、刺すような太陽の下、ゆっくりと立ち上がった。すでに全身汗だらけで、一刻も早く家に帰ってシャワーを浴びたかった。
そのとき、あの方角の空を見上げたことは、偶然だったかもしれない。いや、もしかしたら必然ということもあるだろう。
ちらりと見た方には、この辺りでは一番高いビル。高いといっても都心にあるビルよりは、ずっと低い。そんな小さな世界で高さを誇っているビルの屋上に、人影が見えたのだ。黒くて男か女かはわからない。
初めこそは清掃員か休憩中の社員だろうと思ったが、どうも様子がおかしい。どうおかしいのかと問われても上手い説明ができない。とにかくおかしいのだ。生き物ではなく、幽霊がそこにいるかのような感覚、とでもいえばいいのだろうか。「生」を感じさせないその影を見て、私は慌てて飛び出した。
この後に面接が控えていたことなんて、すっかり忘れて――。
「ちょ、な、何やって、んの、よッ」
階段を一気に駆け上がった私は、汗だくで息も切れ切れになりながら、かすれた声で叫んだ。
網目のフェンスの向こう側、黒い人影は足を投げ出す形で座っていた。
――ま、間に合った。
ほっと胸をなでおろす暇もなく、早くこちらに来るよう説得する。
だが、何を言っても黒い人影は、微動だにしなかった。
……いい加減にしなさいよ。
こっちは、人生がかかっているかもしれない面接を蹴ってまでここにいるのに。
……もしかして、この人初めから飛び降りるつもりなんかなかったんじゃ――。私の、勘違い?
一気に肩の力が抜けた。もう、座ってもいいかな……。
そんなときだ。
「どうもこうも暑くてね。太陽はオレに何か恨みでもあるのかな?」
声は、フェンスの向こう側から聞こえてきた。声音からして男のようだ。
「……全身真っ黒だからじゃないですか?」
長袖の真っ黒なパーカーに、真っ黒なズボン。しまいには、パーカーについているフードを頭まですっぽり被っているのだから、暑いに決まっている。
まあ、黒いスーツ姿の私も同じようなものだけど。
「どうして?」
「はい?」
「どうして真っ黒だと暑いんだ?」
この人、常識を知らないのだろうか? 小学校の理科の授業で習ったはずだ。
黒は熱を吸収しやすいということを。
そのことを説明すれば、その人は空を見上げた。
「そうか。ならやっぱり太陽は、オレに恨みがあるんだなあ」
いや、恨み云々は関係ないでしょ。
「あの、その黒い服装を白とか、他の色に変えればいいだけだと思いますよ?」
そう言ったら、ため息をつかれた。
「わかってないな。この色で、『オレ』なんだから、変えられるはずないだろ?」
何言ってるんだ? この人。
「今日は、風が吹かないなあ」
間の抜けた声に、少々苛立ちを覚えながらも、私は屋上を後にしようと背を向けた。
飛び降りるつもりがないことがわかった時点で、私がここにいる必要もない。
早く家に帰ってシャワーを浴びよう。そう思いながら、ドアノブに手を伸ばした。
そのときだった。
「君は飛ばないのかい?」
男が唐突に問うてきた。
私はとっさに返事をすることができなかったばかりか、ゆっくりと再び男の方を振り向いてしまった。無視してさっさと階段を下りればいいだけなのに。
自分の行動が理解できない。
「立派な翼を持っているのに……。もったいない」
立派な翼? じゃあなんだ、私は鳥なのか? だからこんなに苦労しているのか?
――ってそんな話、信じる方もどうかしてる。
私は髪を縛っていたゴムを取った。途端、長い黒髪が宙を流れる。
髪をまとめ、面接に挑むつもりだったが、今じゃその必要もない。
「なんて素晴らしい黒だ」
「はあ?」
思わず言葉が口から飛び出た。
さっきから、この男、何か変だ。
胡散臭そうな視線を投げれば、男が初めて私の方を見ていることに気が付いた。フードで隠している顔だから、さぞ不細工なんだろうなと思っていたが、意外と整った顔立ちをしている。ただ、黒髪に黒い瞳、そして全身黒で身を包んでいるためか、肌の白さが際立った。
歳は、私より何歳か上くらいだろう。
いい大人がこんなところで何やってんだか、と思って考え直した。大人だから身を粉にして働くという考え方は良くない。
もしかしたら、私だってこうなっているかもしれないのだから……。考えたくもないけど。
「闇夜に紛れてしまいそうなほどの漆黒の髪と美しく立派な翼を持っているのに、君はそのままにしておくつもりかい?」
さっきからこの人は何が言いたいんだ? 私には理解できない。誰か通訳できる人がいたら呼びたいくらいだ。
黙っていても、男はひたすらしゃべり続けた。
「ああ、もしかして翼を使って飛んだことがないのかな? 君は雛鳥かあ」
きりっと男を睨んだ。
雛鳥――。
その表現は、今の私を的確に表していて、胸の奥に鋭い痛みを走らせた。
「それなら、オレが飛び方のコツを教えてあげるよ」
男は睨みに怯むことなく、楽しそうに笑顔を向けてきた。
ちょっとおかしいんじゃないの? この人。
「まず、翼を大きく広げる。そしたら、ばさばさと力いっぱい動かす。そのとき、風を作ってそれを掴むことをイメージしてやってごらん」
両手を翼に見立てて、男は動いた。園児のお遊戯会を彷彿させる。
「そして、最後のアドバイス。実はこれが一番の要と言っても過言じゃない。飛べるか飛べないかは、ここで分かれるんじゃないかな?」
私は息をのんだ。
「自分を信じること」
自分を、信じる……?
「人を羨ましがったり、妬んだり、憧れても、最終的には自分を信じる。羨ましいのなら、自分も努力すればいいことだし、そしたら妬んでいる暇も惜しくなる。そうしていれば、次第に憧れは自分の方に向く」
「……勘違いしているようだけど。私は鳥じゃないから翼なんて持ってない」
そう、私は人間。空に憧れても飛ぶことも叶わない、地に縛られた人間だ。
心の内で嘲笑する。
翼だ、自分を信じるだ、所詮は綺麗事でしかない。
――うんざりだ。
「私はどうあがいても飛べないのよッ」
まったく、初対面の人間相手に熱くなって……らしくない。
こんなの、私らしくない。
「飛ぶ前はみなそう思うんだよ。でも、一回飛ぶことを知れば、世界はさらに広がる。まあ、飛べると信じなければ、飛べるものも飛べない。ここが正念場、かな?」
「じゃあ、今の状況は私がいけないってこと?」
そんなの、納得できるわけがない。
「人は、いろいろと面倒な生き物だなあ。いろんなものに縛られる。まあ、それが楽でいいという人もいるけど。でもやっぱり持って生まれた羽があるのなら、飛ぶべきだとオレは思うけどね」
そう言って、男は空を見上げた。
つられて私も視線を上げる。
どこまでも広がる、青。限界を感じさせない空は、やはり自由の象徴に見える。
飛ぶことができれば、世界が広がる――。
「さっきも言ったけど、貴方は立派な翼を持っている。ただ、少々飛ぶ意思が弱いというか、自嘲気味だ。もっと自分らしく堂々としていればいい。周囲に後れを取ったからといって恥じる必要はまったくない。だからといって、何もしなくてもいいというわけでもない。世の中は厳しい。この太陽のように、ね」
黒づくめの男は、空に向かって指をさした。
「少々、説教くさくなったかな」
そう言って男は笑った。何がおかしいのだろう?
「貴方のような、空に憧れているくせに飛ぶことを恐れ、かつ周囲より不器用な雛鳥は放っておけない性分なんだよな、オレ」
私は口を挟まず、じっと男の言葉に耳を傾けていた。何を言えばいいのかわからなくなっていた、こともある。
「飛ぶことは、何もシューショクカツドー? を満足いく結果で終わらせることでも、ましてやつがいを見つけ、戯れることでもない。もっと、素晴らしいことなんだよ」
一歩間違えれば、真っ逆さまな場所で、男は今でも小躍りでも始めそうなほど揚々としている。
「説明するのは、難しいなあ。強いて言うのなら、自分自身の大きな成長?」
そう問われても、私にはわからない。
「だから、自分を取り巻くもの全てを風にすればいい」
――苦しいことも、辛いことも、悲しいことも、全部。
「そうして、風を纏って、空を飛べばいいんですよ。風がないときなんかは特に。……こんな風にね」
そう言い終わったと同時に、男はビルから飛び降りた。
「ちょっ!」
慌てて駆け寄るが、助けられないことは一目瞭然だ。
――馬鹿じゃないの。
死んでしまっては、飛ぶこともできないじゃないか。
一気に力が抜けて私は座り込んだ。
「……やっぱり飛ぶことなんてできないんだ」
呆然とフェンス越しの町を見た。
檻に閉じ込められている、そう思った。
どのくらい座りこんでいたのだろう。一時間近くかもしれないし、もしかしたら数十秒だったかもしれない。
そういえば、あの人が飛び降りたのなら、もっと騒ぎになってもおかしくないはずなのに、やけに静かだ。
意を決して立ち上がると、フェンス越しからビルの真下を眺めた。
――どういうこと?
そこには、人だかりどころか誰もいなかった。
私が混乱しているのを余所に、ぶわっと、突風がビルの下から湧き上がるように吹いた。黒髪が翼のようになびく。
顔を上げれば、先程の風に乗ったのか、一羽のカラスが青い空を飛んでいた。
風を纏い、空を飛べ――か。
太陽云々言っていた理由がわかった気がした。
「そんなに真っ黒な体じゃあ、暑いに決まってる」
太陽の日差しが痛いビルの屋上。そこには、飛ぶことを決心した一羽の雛鳥が、優しい顔で笑っていた。