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火花、弾けて

「鉄ちゃんとこって、接着剤作ってる会社だよね」

「まあ、そう。高野文具店さんにも、お世話になってます。それ以上に俺自身が世話になってるけど」

 鉄志は焼いた空豆にわさび醤油をつけながら笑った。

「ぶんちゃんとこのおじさんもおばさんも、俺が店に長く居座ってても、文句ひとつ言わなくて。ようやく買った消しゴムひとつで『毎度ありがとうございます』って。こっちが申し訳なくてさ。俺、高野文具店行くと何か落ち着くんだ。こう整然と、古い木の棚に文房具が並んでるさまがいいんだよなあ」

 鉄志は飲むと饒舌になるらしい。

 彼の実家の鉄工所も、時代を感じさせる機械がいくつも並んでいて、その重厚な雰囲気は独特のものがあった。

 数年前、ふと思いついて新井鉄工所があった場所に行ってみたことがある。

 鉄工所跡はまったくの更地になっていた。衰退した工業団地の跡地に新しく工場を建てる業者もなく、土地はずっとそのままだ。ぽっかりと空いた空間からは、青々と草の生い茂る川の土手がよく見渡せた。鉄工所がなくなって初めて、こんな川縁の場所に建っていたのを知る。

何ともやるせない思いがした。


「鉄ちゃんのとここそ、お父さん元気?」

 ビールを注ぎながら訊くと、鉄志は小さく頷いた。

「おかげさまで。身体は元気みたいだな。まあ、昔みたいな覇気はないけど」

「昔、工場で見つかっておこられたときのこと、覚えてる? 怖かったよね。仁王さまみたいで。でも、やさしかった」

「ああ」

 鉄志はくすぐったそうに微笑んだ。

「鉄ちゃんと見た溶接の火花、きれいだったなあ。今でもときどき思い出す」

「うん、俺も、すげえ好きだった」

 遠い目をしながら素直に頷く鉄志に、胸が詰まる。詩文は慌てて話題を変えた。

「大阪はどう? えっと、たこ焼きとかやっぱ全然違う?」

「何だよ、いきなり、たこ焼きって」

 ぷっと吹き出す鉄志にほっとする。

「だって、大阪って言えば、たこ焼きでしょ」

 詩文は旅行らしい旅行に行ったことがないので、大阪のこともまるで知らない。鉄志は少し考えるように目を上げた。

「たこやきか、うーん」

 顎を扱きながら、降りてきた視線が詩文を捕らえた。


「俺の住んでる沿線の十三ってとこに、めっちゃうまいたこ焼き屋あるで。今度、おいでぇや」


 囁くような声にどきっとした。

 ふざけた似非関西弁の発音は、どことなく秘密めいて甘い。

「なんて、な」

 照れくさかったのか、鉄志は一気にビールを呷る。

 詩文は唖然としてしまった。

 もう鉄志は鉄工所の鉄ちゃんじゃない。

 おそらくそこそこ恋愛も経験している、大人の男で。

『今度、おいでぇや』

 もしかしたら大阪で、こんな台詞をさらりと言って、自分の部屋に彼女を呼んでいるのかも知れない。

(何、深読みしてんの、馬鹿!)

 そこにお調子者の成田屋の太朗が割り込んだ。

「ほなさっそく、メアドと電話番号の交換といきまひょか」

 太朗は携帯を出せ、と言うように、ふたりを両手で煽る。

「気持ち悪いよ、タロちゃん、その関西弁」

 そうは言ってもここで躊躇するのも気まずい。さっさと番号を交換する。


「そうそう。善は急げって言いまっしゃろ。早くしないとたこやき食べ損ねまっせ。もうすぐ鉄ちゃんは、タイに、行くんやさかい」


 いいかげんな関西弁だったから、一瞬、聞き違えたのかと思った。

「タロちゃん、タイ焼きじゃなくてたこ焼きだよ?」

 成田屋の太朗は、はあ? と眉を上げた。

「違うって。タイはタイでも国のタイだよ! タイランド! 鉄の字はしばらく海外へ行くんだよ。だから今日わざわざ呼んだんじゃねえか」

 その声を聞いて、皆がざわめきだした。

「タイ?」

「すごいな。それって栄転だろ?」

 わかったとたん、胸の中がずん、と重くなった。


 ——タイ。

 今までだって、近くにいた訳じゃない。

 数ヶ月に一度、文具店に来るくらいがせいぜいだ。

 海外に行ったからって、そうそう変わる訳じゃないだろう。

 でも。この感じは、いったい何。


「……いつ?」

 

 自分でも情けない声を出していたと思う。 

「え?」

「いつ行くの、タイへ」 

「たぶん、9月ころ」

「そう」

 それ以上何も言えなかった。成田屋の太朗は爆弾を投下したまま、他の席に行ってしまった。隣のみちるもお好み焼き屋の祥子と話し込んでいる。

 ふたりとも黙ってビールを飲むしかなかった。

(だめだ、このままじゃ気まずすぎる。笑って送り出してあげなくっちゃ)

 口の中にいつまでも残るビールの苦みを持て余しながら、話題を探す。

「タイって、どんなとこだか、全然知らないや。食べ物とか何があるんだっけ」

 やっと出てきたのは、また食べ物の話。詩文は自分の無学さを呪った。

「うーんと、俺もまだよく知らないけど、トムヤムクンとか、かな」

「あー……」

 聞いたことはあるが、ちゃんと食べたことはない気がする。辛いんだっけ、酸っぱいんだっけ? 話は全く膨らまない。

「あ、暑いところなのかな、タイって!」

「うん、熱帯だから基本暑いらしい。気候は、暑期、雨期、乾期って3つに分かれてる。今はちょうど向こうも雨期だ」

 鉄志は丁寧に説明してくれた。

「雨期か。鉄ちゃん、雨男だもんね」

「え?」

「ほら、高校の時、よくコピー用紙買いに来て、いつも雨降りだったじゃない」

「ああ」

 覚えていないのか、鉄志は曖昧な返事を返し、タイの話に戻った。 

「向こうの雨期はこっちの梅雨とは違って、スコールみたいなどしゃぶりの雨が降る。向こうに住んでる先輩のメールだと、街が浸水することもあるらしい。俺が行く9月もまだ雨期で、10月くらいから乾期になるんだ。気温も高くて、雨期の平均気温も29度ぐらいだって」

 何だか、まったくぴんとこない。

 そんな見知らぬ国に、鉄志が行ってしまうのか。

「言葉とか、どうするの。タイ語ってどんなの?」

「俺も唯一知ってるのは、『こんにちは』が『サワディカップ』?」 

 そう言って彼はタイ式に手を合掌してにっこりした。

 ああ、そうか、転勤の多い彼は、こうやってすぐいろんな土地に馴染む術を身につけているんだ。

「バンコクは日本人も多くて、暮らしやすいらしいぜ」

 暮らしやすい。その言葉に、もう彼の心が日本にはない気がして、切なくなる。

 行ってしまうんだ。

 スコールのような雨が降る、熱帯の国へ。




 気がついたら会はお開きになっていた。

 鉄志が遅れてきた詫びだと、会計を聞いてきて飲み代を計算している。

「えっと、9人だろ、女性はあんまり飲んでないし人数少ないから3で。俺たちが35出せばいいよな? あと釣りを割れば」

(女性がいる飲み会に、慣れてるんだ)

 自分の知らない鉄志の世界がある。それは当然のことなのに、なぜか重いものが胸に垂れ込めた。

 もごもご礼を言って3000円を払い、外に出る。来たときにはほんの小雨だった雨が、アスファルトを叩くような本降りに変わっていた。

「ゲリラ豪雨じゃん」

「急いで帰らなきゃ。じゃあ、また」

「今度電話するから!」

 皆それぞれの家路に急ぐ中、鉄志はのんびりと店の軒先に立っている。傘がうまく開かないふりで様子を伺っていると、ふう、とため息が聞こえた。

「こんなに降るとはな」

 そう言うなり、頭に鞄を乗せるのでぎょっとする。

「鉄ちゃん、もしかして傘持ってないの?」

「大阪出るときは、降ってなかった」

 詩文は呆れた。大阪だって梅雨だろう。遠出のときに折りたたみ傘くらい持つのは常識だ。相変わらず濡れることに無頓着なのだろうか。鉄志の実家が今も同じ場所ならば、鉄工所の近所で、ここからは結構距離がある。

「鉄ちゃん、傘貸してあげるから、うちまで一緒に」

 詩文は自分の傘を開いて鉄志に差し掛けた。唐傘のように骨の多い赤い傘。ちょっと値は張るが、デパートでひと目惚れして買ったものだ。

「え、大丈夫だよ、これしき」

「せっかく大阪から来た鉄ちゃんに風邪引かせちゃ、後味悪いもん」

 そう言って、さらに近付いてみる。できればもう少し、一緒にいたかった。ここで別れたら、もうしばらく会えない。

「そっか。じゃあ、悪いけど世話になるわ」

 鉄志は傘の柄の上の方に手を伸ばした。

「俺が持つ。濡れるから、悪いけどもう少し俺の方に寄ってくんねえか」

 遠慮がちに少しだけ肩を寄せると、息を合わせるように歩き出す。

 たまに互いの腕が触れ、そのたび鉄志が、ごめん、と言うように身体を離して。傘からはみ出た、反対側のスーツの肩が濡れている。

 ——やさしい、鉄ちゃん。

 暗くてよかった。顔が火照っているのを誤魔化せるから。


 やっとのことで高野文具店の軒先、青いビニール屋根の下に駆け込んだ。ばた、ばた、と屋根を打つ雨音はいまだ大きい。

「はあ、ひどい雨。ごめんね、鉄ちゃん。結局濡れちゃったね」

「ごめんはこっちだ。そっちこそ濡れなかったか」

「私は大丈夫。傘、そんな女物でよければ、そのまま差してって」

「助かる。ありがとう」

 微笑む鉄志の顔に、差したままの傘の赤が映り、やけに艶っぽく見えた。

「何日か、こっちにいるんでしょ?」

「いや、明日の夜には新幹線で戻ろうと思ってる」

 そんなに早く、行っちゃうんだ。

 黙っていると、鉄志が慌てて付け足した。

「明日、緑のボールペン買いがてら、傘返しに行くから。高野文具店、土曜もやってたよな」

「うん」


 明日には、大阪へ帰ってしまう。

 そして秋には、タイへ。


 ずっと離れていたくせに、どうして今になって淋しく思ってしまうのか。


 ——今さら。


 心の中で嘯いた。


 知り合って20年以上、何もなかった。所詮、縁がないんだ、きっと。


「じゃあ、これ、借りてくわ」

 引き留めたくても、もう夜も更けている。家人が寝ている母屋でお茶を振る舞うわけにも行かない。無理に笑みを作った。

「うん、気をつけてね。梅雨時は傘くらい持ってなきゃだめだよ。鉄ちゃんは、雨男なんだから」

 そう軽口を叩いたとたん、ふたりの間を包む空気が変わった気がした。


 鉄志の目が、じっと詩文に向けられている。

 その眼差しはさながら、炉で融かした赤々と輝く鉄のようで。


「……俺は、雨男じゃ、ねえ」


 聞いたこともないような、低い声だった。

 その意味を問う間もなく、鉄志は雨の中に飛び出してゆく。

 街灯に照らされた赤い傘が、大きく揺れながら遠ざかる。

 ——どういう、こと?

 土砂降りの街に消えていくその赤を、詩文はいつまでも見つめていた。




 翌朝、ほとんど眠れないまま目が覚めた。

 赤い傘の残像が踊り、熱い眼差しの鉄志が何度となく夢に現れた。

 ——何だったんだろう。あれは。


「おはよう。ゆうべはどうだった?」

 母に訊かれてどきっとした。

「ああ、うん、楽しかったよ。久しぶりに鉄ちゃんが来て」

 鉄志の名を口にして、改めて思い出す。

(今日、傘を返しに来るんだ)

 とたんに緊張して、朝食はろくに喉を通らなかった。両親には、昨日飲み過ぎたとごまかした。

 土曜は学校が休みなので、小学生が自転車で乗りつけ、シールや消しゴムを眺めている。半ズボンの膝の絆創膏、まだ梅雨も明けないのに刈り上げた首筋は真っ黒に日焼けして。元気な子供たちを見ているのは楽しい。彼らと他愛ない話をしているうちに午後になった。

 昼食を何とか食べて、3時を過ぎて。家族に不審がられない程度に外の様子を見に行くものの、待てど暮らせど鉄志は来ない。徐々に閉店時間が近づいている。

「雨降ってきたぞ」

 近所の学習塾に文具の配達に行っていた父が戻ってきた。

「え、洗濯物、干しっぱなし!」

 狭い階段を昇り、物干しのある2階のベランダに出る。


 天気雨だった。

 さらさらと細かい小糠雨で、雲の間から帯状に西日が差している。これならすぐ止むだろう。洗濯物の被害もほとんどなく胸を撫で下ろした。

 何とか洗濯物を取り込み終わって、ベランダの窓を閉めようとすると、高校と高野文具店前を繋ぐ歩道橋が見えた。雨の日、コピー用紙を持って繰り返しこの橋を渡った鉄志の姿を思い出す。


『俺は、雨男じゃ、ねえ』


 雨の日、何度となく店に来たくせに。どうしてそんなことを言うのか。詩文にとっての鉄志の思い出は、鉄工所の火花と、雨の日に尽きる。忘れてしまったのだろうか。あんな些細なことなんて。


『向こうの雨期はこっちの梅雨とは違って、スコールみたいな雨が降る』


 9月には熱帯の雨期の国に行ってしまう鉄志。

 不安や淋しさはないのだろうか。

 それとも連れて行くひとがいるのだろうか。

 何だか泣きそうになって、窓を閉めたとき、


「詩文ー!」


 階下から母の呼ぶ声がする。

「洗濯物なら、取り込んだよ!」

 と叫び返すと。


「違うの! 鉄ちゃんが来てるのよ!」


 ——来た。

 急いで狭い木の階段を駆け下りる。

 店に戻ると、昨日と同じスーツ姿の鉄志が立っていた。

 相当急いできたらしく、肩で息をして、髪は折りからの霧雨にしっとりと濡れている。手に持った赤い傘は畳んだままだ。

(また濡れて。自分の傘は持ってないの?)

 そう思った瞬間、いきなり鉄志の手が伸びてきて、ぐっと腕を掴まれた。


「詩文さんを、お借りします!」


 あっけにとられる両親にそう吠えると、鉄志は詩文を外に引き摺り出した。とたん霧雨に顔が濡れて、思わず身体が引ける。

「わっ、ちょっと、鉄ちゃん!」

 鉄志は何も言わずに歩を早め、だんだん駆け足になる。エプロン姿で踵のないサンダルの詩文は転びそうだ。掴まれた腕が濡れて滑る。鉄志は一旦手を離してズボンで手を擦ると、今度は詩文の手を握りしめた。

 手を握られたのは、あの鉄工所に忍び込んだとき以来だ。

 あのときとはまるで違う、硬くて、大きな手。

 わけのわからぬまま、手を繋いで一緒に通りを走る。何ごとかと振り返る人にも構わず、鉄志はスピードを落とさず角を曲がった。

「待って、サンダルが」

 さすがの鉄志も足を止めて手を離す。脱げかかったサンダルを履き直しながら辺りを見回すと、そこは見覚えのある場所だった。

 『工場こうば通り』だ。

 錆の浮いたトタンやスレート屋根の古い工場こうばが建ち並ぶ通りは、土曜の夕方とあって、ひっそりと静まりかえっていた。

「履けたか? じゃ、急ぐぞ」

 詩文の足下を確認すると、再び手を握って走り出す。

 キューポラの煙突のある鋳物工場を曲がれば、その先にはあの鉄工所跡の更地があるはずだ。

 もう名を記す看板もない鉄工所の跡地で、鉄志は立ち止まった。


「見て」


 あのときと同じように、鉄志が指差した先を見る。


 鉄工所跡の更地から見える川の土手から、大きな虹が架かっていた。


 光の礫を投げたように、空に向かって放物線が伸びていく。

 七色が数えられるくらい、はっきりとしたアーチだ。

 高く続く弧の先は、厚い雲の中へ溶けるように次第に見えなくなる。

 反対側の端は街の高い建物に阻まれてわからなかった。


 ふわっ、と感嘆の息が漏れる。


「こんな大きな虹、見たことない」


 隣の鉄志が、ふっ、と笑う気配がした。


「俺も」


 ふたりは手を繋いだまま、ぽっかり口を開けて、ただ虹を見上げていた。

 光の色がだんだんに淡くなり、儚く消えていくのを惜しみながら、最後の最後まで見送った。

 霧雨に濡れるのも構わずに。




「あっという間だったね」

「虹はすぐ消えちまうから。急いで連れてきて正解だったろ」

 鉄志は誇らしげに胸を張る。

「うん、ありがとう。すごく、きれいだった」

 満面の笑顔を浮かべた詩文を、鉄志は眩しそうに見つめる。


「見せたかったんだ、ぶんちゃんに」


「え?」


「きれいなものを見ると、ぶんちゃんに見せたくてたまらなくなる。うまいもん食べれば、ぶんちゃんにも食わせてやりたいと思う。小学校のころ、親父の溶接を見られるとっときの場所、教えたろ。兄貴にも、成田屋にも教えなかったことをどうしてぶんちゃんに、って、自分でも不思議だった」


 鉄志ははにかむように唇を噛んだ。


「中学になって親父の鉄工所が閉鎖になって、普通高校に行くことになって。罰当たりなことに、俺はそれがうれしかった。そこでやっとわかったんだ。俺は、ぶんちゃんと同じ高校に行きたかったんだ、って」


 言葉にならなかった。

 ただただ驚いていた。

 ずっとここまで気持ちを隠し通していた彼に。

 

「鉄工所を閉鎖したあと、うちには取引先との借金が残った。いい年した親父と、次期社長のはずだった兄貴が、顎で使われながら必死で借金返してる。なのにふたりとも、『鉄志だけはいい大学出て、いいとこに就職しろ』って」

 鉄志は中学まではぱっとしなかったのに、高校での成績はいつもトップクラスだった。その影には家族の思いがあったのだ。

「俺はふたりの望むように就職して、家に多少なりとも金を入れて、少しでも早く借金を返したかった。ぶんちゃんは、高野文具店の跡取りだろ。文具店のお金を借金返済に充てるわけにはいかない。だから俺と未来は重ならないと思ってた。それでも会いたくて、高校んときは、わざとぶんちゃんのいる雨の日を狙って、コピー用紙を買いに行った」

 ようやくわかった。雨男じゃない、と言った意味が。

「結局、大人になってもぶんちゃんをあきらめきれなかった。どんなに時間がなくても、懐具合が厳しくても、何とか工面して帰ってきた。それだけが楽しみで、つらい仕事もがんばれた。胸ポケットに差した緑色のボールペンが、俺の支えだった」

 そう言って笑う顔が、切なくて胸が痛い。


「おかげさまで、うちの借金、ようやく返済が終わりそうなんだ。たぶん俺のタイの勤務は1年くらいで、俺が帰ってくるころには、返し終わってると思う。だから、ぶんちゃん」


 繋いだ手をぎゅっと握られた。


「日本に帰ってくるまで、俺を、待っててくれるか」


 息を詰めて見上げれば、鉄志はさらに畳み掛けた。


「俺じゃ、高野文具店の若旦那は務まらないか」


 ぽろり。頬を伝ったのは雨粒より大きくて熱い涙。繋いでいない方の手で拭おうとするより早く、鉄志の指が伸びる。その指のあたたかさにまた涙がこぼれる。

 ——どうしよう。何て言ったらいいの。

 返事をできないでいると、焦れたような声がした。

 

「たぶん、俺、どんな客より高野文具店のこと詳しいと思うぞ」


 真面目な顔でそんなことを言うので、思わず笑ってしまった。

「おい、何で笑うんだよ」

「だって」

「こちとら必死なんだ。まあ、笑われたって負けないけどな。鉄志って名前は、鉄を志すんじゃねえ。鉄のこころざしって、意味なんだよ」

 そう言うと、詩文の手を自分の胸に引きつけた。

 すう、と息を吸う音が聞こえた。


「詩文、結婚してくれ。俺と」


 しっかりと目を合わせ、初めて呼び捨てられた名前。

 火花が、弾けた。


「ずっと、好きだったんだ。いいよな?」


 嫌とは言わせない、と気概に満ちた顔がぐっと近づく。

 

「いいよ、な?」


 こくん、と頷くと、鉄志は一瞬ぎゅっと目を瞑った。再び開いた目は喜びに溢れて。


「ありがとう、恩に着る」


 鉄志は空いている手で持っていた詩文の傘を空に向けた。

 唐突に開く赤い傘の花。

 面食らって、鉄志の顔を見上げると、傘に潜り込むようにしてそのまま唇が押しつけられる。


 唇から、火花弾けて。

 口づけは熱く融けて、ふたりをひとつに繋げた。


 細い車輪が雨を轢く音がして、後ろを自転車が通り過ぎる。

 さすがに恥ずかしくて唇を離した。

 傘の中、顔を見合わせて照れ笑いする。


 きっと、これからも、鉄志はいろんなものを見せてくれるんだろう。

 美しいもの、楽しいもの。

 ふたりが触れ合うたび、胸の火花は弾けるのだ。

 何度も、何度も。


「とりあえず、今度、大阪来いよ。うまいたこ焼き、食べさせてやる」

 鉄志は、得意気に、にっと笑った。 




FIN









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