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3代目同士

 秘密の扉が、開いたみたいに。

 鉄工所の溶接の光は、突然辺りを明るくして青白く弾ける。

 みかん色の火花が吹き出して、跳ねて、散って。

 近くで見ると目に悪い、って言われていたから、どきどきしながら遠巻きに見てた。

 目を瞑れば、ぱちぱちと残像が甦る。

 あれは、私たちだけの花火だった。

 私たち、だけの。




「そろそろ揃ったかな」

 皆にビールが行き渡ったのを確認すると、豆腐屋を営む成田屋の太朗が立ち上がった。

「梅雨のお足元の悪い中、どちらさんもご苦労さんでござんす」

 芝居がかった台詞に『よ、成田屋』の声がかかる。

「今宵また、この『かたつむりの会』を開催することができましたのも、ひとえに皆々様のおかげと」

「要するに、みんな元気で、どの店もつぶれなくてよかったね、ってことでしょ?」

 長くなりそうな話に茶々を入れるのは、同級生だった詩文しふみの仕事だ。

「ぶんちゃん、やめろよ! 縁起でもねえ!」

「いや、ぶんちゃん、グッジョブ。こいつの話はなげえんだ」

「ま、とりあえず、乾杯しようぜ」

「おい、俺の挨拶はまだ」

「乾杯!」

「かんぱーい!」

「おーい!」


 ここは地元の居酒屋。タオルをガテン巻きにした恰幅のいい大将も幼なじみだ。意外と小技の聞いた料理を出すので評判がいい。

 数ヶ月に一度、気心の知れた幼なじみがここに集う。座敷席に置かれる座布団の数は、多くても10くらい。酒の肴は、仲間の消息や地元の噂、暮らし向きや仕事の愚痴、思い出話。

 古い町は徐々に寂れ、商店街や飲み屋通りも歯抜けにシャッターが閉まっている。アラサーにもなれば、地元に残っている仲間は圧倒的に長男長女だ。豆腐屋の太朗、文具屋の詩文、八百初の透、同級生同士で結婚したみちると俊介、お好み焼き屋の祥子、寺の息子の顕生、などなど。

 実家暮らし、家業を営むメンバーがほとんどのその会を、誰が呼んだか「かたつむりの会」。

 ヤドカリのように殻を捨てることのない、かたつむり。


 詩文しふみは、高野文具店のひとり娘だ。郊外の大型店の台頭やネット通販のあおりで客足は減ったが、近所の小、中、高の学校御用達になっているので、何とか食いっぱぐれずに済んでいる。

 物心ついたときから店を手伝わされていた文具屋3代目の詩文。

 ついたあだ名が「文具屋のぶんちゃん」。

 大学も実家から通い、卒業した今、就職せずに両親と家業を切り盛りしている。


「ぶんちゃん、取ったげる」

 右隣に座るみちるが、牛すじの煮込みやプチトマトのベーコン巻きなどを小皿に取り分けてくれた。

「あ、ありがと。みちるも、この会に来るのしばらくぶりだね。小さい子がいちゃ、なかなか来れないか」

「うん、俊介が『たまにはみちるもみんなに会っておいで』って、今日は陽介の面倒見てくれてるの」 

「相変わらずらぶらぶだねえ、ごちそうさま。陽ちゃん、いくつになった?」

「もう4歳。これが俊介に似ててさあ、自分のおもちゃを絶対人に貸さないんだ」

「うわ、小学校のころの俊介そのもの」

 みちると俊介の結婚式で再会した幼なじみたちが盛り上がり、結成した「かたつむりの会」は今年で6年目。

 その間みちるは出産を期に仕事を辞めて、専業主婦になった。夫の俊介に愛され、子育てに明け暮れながらの毎日は、本当に幸せそうに見える。


 一方、詩文の日常はといえば、文具屋のぶんちゃんのまんま。大学のころはそれなりに恋愛も経験したが、卒業してからはさっぱり。店の跡取り娘という肩書きは、結婚へのハードルをいたずらに高くしているのだった。

 古ぼけた店舗は祖父の時代に建てられたものだ。店先に突き出ている青いビニールの屋根には、万年筆の宣伝と一緒に『高野文具店』の名が書かれている。木製の棚に並んだノートや日記帳、ガラスケースに入った習字の筆、画用紙、小学校の名札。至るところに昭和の匂いがする。


 文具店の仕事は好きだ。消しゴムやペン、シールなど、ひとつひとつ宝物を見るように目を輝かす子供たち。朝になって使い切ったノートに気付いたと泣きつく小学生に、開店前にシャッターを開けて売ってあげたこともある。昔ながらのインク壺や俳句帳を求める近所のお年寄りに、『やっぱり高野文具店ならあると思ったよ』と言われるのもまた誇らしかった。

 ただ最近、文具屋を訪ねてきた子供たちが大人になってゆくのを見ていると、少し複雑な気持ちにもなる。自分だけがずっとこのまま、古めかしい文具店と一緒に取り残されていくようで。


 ふと、店の文房具をじっと見て回る少年の姿が脳裏に浮かんだ。

 穏やかそうな奥二重の細い目、さらっとした黒い髪。

 大人になってからも、その印象は小学校のころとあまり変わらない。実家を離れ会社員になった今も、帰省するたび高野文具店に寄ってくれる彼。

 同級生だった鉄ちゃんこと、新井鉄志あらいてつし


 左隣に座る成田屋の太朗が、目の前の鶏手羽の柚子胡椒焼きにかぶりつきながら、あ、と言った。 

「そうだ、実は今日、鉄の字が帰って来る、ってんで声掛けたんだけどよ、少し遅れるらしい」

 鉄の字。今まさに思い浮かべていたその人の名前が出てきて、どきっとする。みちるが、へえ、と声を上げた。

「鉄ちゃんかー。高校卒業してから、全然会ってないよ」

 向かいに座る八百初の透も頷く。

「この会に呼ぶの自体初めてじゃね?」

「今、奴は浪花の男だからな」

「へえ、大阪。道理で見ないと思った。あいつの兄ちゃんはもう結婚したんだよなあ?」

 仲間たちの話に適当に相槌を打ちながら、詩文しふみはひとり違和感を覚えていた。


 転勤の多い鉄志だったが、数ヶ月に1回ほどは帰省して高野文具店に顔を出している。彼の目的は緑色のインクの油性ボールペンで、0.5mmボール。近所に売っている店がなかなかないのだと、何本もまとめ買いしていく。何でも溶剤を攪拌する機械の回転数を記録する仕事らしく、細かいマス目のノートにデータを記入するのに、細いボールペン、しかも他と区別するため緑がいいのだという。大阪の前は富山、いや群馬が先だったろうか。とにかくどこへ転勤になろうと、帰省しては詩文からボールペンを買っていくのだった。最近では彼のためだけに緑の0.5mmボールを用意しているほどだ。


(鉄ちゃん、5月の連休に店に来たよね。皆は会ってないの?)

 首をひねっていると、がらがら、と居酒屋の格子戸が開いた。

「らっしゃい!」

 藍染めの暖簾を分けて、ひとりの男が入って来た。

 紺色のスーツに几帳面なレジメンタルのネクタイ。髪や袖に掛かった雨粒を手で払うと、目を細めて店内を見回す。

「おう、鉄の字!」

 成田屋の太朗が手を挙げた。

 鉄志はほっとしたような顔をして『かたつむりの会』のテーブルに近づく。靴を脱いで座敷に上がる前に、遠慮がちに頭を下げた。

「ご無沙汰、してます。遅れてすみません」

「何だよ、かしこまってんな。会社から直接来たのか? すましたカッコしやがって似合わねー」

 成田屋がスーツの肩をばんばんと叩くと、まるでかんなの刃の頭でも叩いたように昔の地金が現れる。

「うっせえな、午前中お偉いさんとこ回って、下げたくもない頭下げてたんだっつーの。てめえがどうしても来いって言うから、そのまま新幹線乗って来てやったんだろ」

「来られたんだから、つべこべ言うなってんだ。ほらここ、特別にぶんちゃんの隣、空けてやらあ!」

 詩文の隣に座っていた成田屋は席を空け、自分はもうひとつ隣に移る。鉄志は詩文にぺこりと頭を下げると、素直に隣の座布団に腰を下ろした。狭い席で肩を縮めるようにして上着を脱ぐと、暑かったのだろう、ネクタイを緩めワイシャツの袖をまくった。

「鉄ちゃん、駆けつけ1杯」

 詩文がグラスを差し出すと、鉄志は慌てておしぼりで手を拭きグラスを受け取った。

「あ、ども」

「遠いとこ、お疲れ様」

 労いながらビールを差し向ければ、鉄志の捲った袖から、筋の張った二の腕が伸びてくる。小学校のころとはまるで違う、グラスを握った手の、ごつごつした指の付け根。長い指。

 最近は店で商品やおつりを渡すときも、つい彼の腕や手に目が行ってしまう。

 ああ、もう彼は大人の男なのだと、実感する。

 動揺を隠して顔を上げると、鉄志は穏やかな眼差しで詩文を見ていた。


「ぶんちゃん、おじさんやおばさんは元気?」


 その柔らかい響きに、ふっと笑みがこぼれた。

「ん? 何かおかしなこと言ったか、俺」

「ううん。元気だよ。ありがとう」

 詩文のことより先に両親のことを聞く鉄志に、らしいなあ、と思う。

 

 


 鉄志は、祖父の代から続く小さな鉄工所の次男坊だった。

 長男が一鉄で、次男が鉄志。兄弟で鉄工所を継いで行くのだと、誰もが思う名前だ。

 そんな鉄志と詩文は小学校1年から4年まで同じクラスだった。

 ——文具屋のぶんちゃんと、鉄工所の鉄ちゃん。

 ふたりはペアのようにそう呼ばれ、自らの運命が決まった3代目同士、何となく連帯感のようなものを持っていた。


 子供は文具が好きなものだが、とりわけ鉄志は暇さえあれば詩文の文具屋に顔を出した。

 鉄志の実家は鉄工所なので町外れにあり、詩文の家からは少し距離がある。それでも鉄志の自転車はよく文具屋の店先に停まっていた。青に銀色の線が入った自転車はいかにも兄のお下がりで、マジックで書かれた「一鉄」を消して「鉄志」に直してある。ミラーは1度もげてしまったのだろう、父親が溶接でつけてくれたとおぼしき盛り上がった跡があった。

「こんちはーっす」

 ちょっとぶっきらぼうに挨拶して店に入ると、鉄志はくまなく店を見て回る。

 ノートを並べた回転式の棚を何回も回してその冊数を数えたり、バラの絵の具の入った小引き出しを開けては在庫を確認したり。定規や接着剤、鉛筆も、手に取ってはその形や書いてある文字をじっと見つめる。取り出した文具はきちんと元の位置に戻し、最後にため息を吐いて消しゴムを一個、もしくは鉛筆を1本買って帰っていく。その姿を見た詩文の母は、

「さすが、鉄工所の息子さんだね。文房具を見る目も職人みたいだ」

 と笑った。


 同じクラスだった小学校3年のときのことだ。

 毎年開かれる夏祭りの日、詩文は熱を出した。

 最終日は花火大会も開かれ、夏休み期間中の子供にとってはちょっとしたイベントになっていた。しばらく会えなかった友達に会えることもあり、とても心待ちにしていたのに、その音だけをベッドで聞く羽目になってしまった。その1日がふいになっただけで、今年の夏休みのすべてが、台無しになった気さえした。

 祭りの数日後、小学校のプール開放日に出かけた詩文は、散々皆から祭りや花火の楽しそうな話を聞いて、さらに機嫌が悪くなった。わざと祭りの話をしてからかう男の子に八つ当たりして、口喧嘩になり、監督役の先生に怒られて。

(行きたかった、行きたかった。何でよりによってお祭りの日に熱なんか出しちゃったんだろう)

 ふてくされてプールバックを蹴飛ばしながらの帰り道、後ろから近づいた自転車がきいっとブレーキの音を立てて止まった。

「ぶんちゃん」

 例のお下がりの自転車に乗った鉄志だった。

 こんなみじめな気持ちで、知り合いになんか会いたくなかった。

 普段なら鉄志が黙っていてもべらべらと喋る詩文が、久しぶりに会ったのにプールバックを蹴飛ばすばかりで、何も話さない。鉄志もその異変に気付いたようだった。

「どした?」

 普段は口数の少ないぶっきらぼうな彼に、やさしく顔を覗き込まれ、抑えていた涙がぶわっと湧き上がった。

「あの……ねっ、私……っ、お祭りの日、熱出してっ、花火大会、行きたかったけど、っ、い、行けなかった……っ!」

 泣きじゃくりながら、喧嘩になった子がこれ見よがしに新作花火や金魚を何匹も掬った話をしたとか、先生に怒られたとか、八つ当たりの愚痴をとりとめもなく話した。鉄志は自転車を跨いだまま、根気強く、その話につきあってくれた。しばらく話して、詩文がティッシュを出して盛大に鼻をかんでいると、鉄志はきゅっと自転車を方向転換させた。


「ついてきな」


 鉄志はそれ以上言わず、詩文のプールバッグを取り上げた。それを前籠に突っ込むと、自転車を押し始める。じりじりとアスファルトから熱気が上がり、蝉時雨が降り注ぐ。鉄志の日に焼けた項には汗が浮き出ていた。角を曲がると道はだんだん細くなってくるが、それでも鉄志はどんどん歩いて行く。あまり遅くなると、母親が心配するだろう。少し心細くなって、鉄志の後ろ姿に声をかけようとすると、自転車はさらに路地に折れた。

(あれ)

 急に目の前の道が開けた。

 昔からの工場こうばが立ち並ぶ、通称『工場こうば通り』だ。

 以前、社会科の見学で見に来たことがあった。川の土手に沿って自動車の修理工場や部品工場、機械の製作所などが並んでいる工業団地だったが、海外の安い製品や労働力に押されて、シャッターが閉まっている工場も少なくない。けたたましいモーターや、がちゃんがちゃん、と物を下ろすクレーン、フォークリフトがバックする警告音などが混じり合って聞こえている。1番目立つのは角に立つ古い鋳物工場で、タンクのような形の煙突がスレート屋根から突き出している。キューポラと言われる昔ながらの溶解炉専用の、煤を取る煙突なのだと聞いた。

「こっち」

 その鋳物工場を曲がり少し行ったところで、鉄志は自転車をとめた。錆の浮いた看板に、『新井鉄工所』という文字が読める。

「ここ、鉄ちゃんち?」

 鉄志はうん、と言うように頷いて、裏手の方へと歩いて行く。その間も、何かを削るような音や、がこんがこんと重い物を転がす音が響く。鉄工所の裏口は鉄の重い扉になっていて、鉄志が足を踏ん張って開けると20cmくらいの隙間が開いた。それ以上はチェーンが巻き付いていて開かないようになっているらしい。鉄志は慣れた様子でその隙間をすり抜けた。

「ええっ、ここ、入っていいの?」

 慌てて詩文が尋ねると、口に人出し指を当てて、しーっ、と制する。手招きされるまま、そっと扉の中に入った。鉄志が再び扉を閉める。中はむっとするような暑さだった。すすけた戦車みたいな機械がいくつも並んでいて、天井にはクレーンのついた鉄骨の梁が走っている。無骨な工場こうばの中は鉄錆や油の匂いで充満していて、のぼせそうだ。

 鉄志は機械の影を縫うようにして、奥に進んで行く。詩文も泥棒の子分よろしく後に続いた。

「あれはフライス盤。あのハンドルみたいなレバーを回すと、すっごい正確に溝を掘れるんだ。あっちはセーパー、鉄を削る機械。その向こうがシャーリング、鉄板を切る機械」

 隠れているくせに、小声で解説をしながら機器ひとつひとつに熱のこもった眼差しを送る。

(鉄ちゃん、鉄工所が好きなんだなあ)

 幸い機械の音が大きいので、鉄志の声は大人には聞こえていないようだ。さらに進もうとする機械の向こうから、ばちばちばちっ、と音がした。

「屈んで。見つかるなよ」

 詩文の頭を押しつけるようにして座らせる。しゃがんだ状態のまま、よちよち進む鉄志を、詩文もカルガモの子供のように追いかける。

 ふたりが潜む機械の向こうからは、フラッシュのような光と、ばちばちと弾けるような音。見つかったら、あの「ばちばち」で電気ショックの罰でも食らうんじゃないだろうか。小心者の詩文は鉄志の背中を恨めしそうに睨む。それでも、ここでは彼がリーダーで、唯一信頼できる案内人だ。

「……あの作業台の下に潜るからな」

 鉄志は半ズボンで手を擦ると、詩文の手を取った。汗ばんだ、熱い手だった。

「せーの!」

 小声でかけた号令と共に、手を引っ張られて作業台の下に滑り込む。


「見て」


 鉄志の指差す先に、小窓のついた黒っぽい面のようなもので顔を覆った男が見えた。青い作業着を着て、手には棒のような物を持っている。

 次の瞬間。


 ——ばち、ばちばちばちばち。


 辺りの空気を震わせるような破裂音と共に、稲妻のような閃光が走る。

 男の手元から、青白い炎が浮かび上がった。同時にオレンジ色の火花が四方へ飛び散る。

 大きな音が弾けるたびに、びく、びく、と肩を振るわせながらも、詩文の目はその火花に釘付けだった。


 細い棒のさきから生まれ出る、青白い火。

 男の手がその棒をわずかに動かしながら、注意深く火を操る。

 オレンジ色の火花は、にわか雨のようにざあっと降ったり、濡れた犬が水滴を払うみたいに、ぱらぱらと奔放に飛び散ったりした。


 ——花火みたい。

 

 そう思って気がついた。

(そっか、鉄ちゃんは、花火の代わりにここに連れてきてくれたんだ)


 ふと横目で見ると、鉄志の横顔は、青白い光に照らされて彫像のように凛々しく映る。

 明るい火花が、夜空みたいだった詩文の胸にもぱっと飛び散った。


「鉄ちゃん、きれいだね!」


 思わず大きな声を出したとき、ちょうど手を休めている作業服の男の耳に届いた。


「……こら! 何だ、お前!」


 かぱ、とキャッチャーマスクのように黒い面を上げ、口に当てていたマスクを取ると、赤銅色に焼けた仁王のような顔が現れた。詩文を認めると、革の前掛けをつけたがっしりとした身体が、のしのしと近づいてくる。

「ひゃあ!」

 悲鳴を上げて逃げようとすると、長い革手袋を嵌めた手にむんずと腕を掴まれた。

「あ、あ、ごめんなさ」


「お父さん、ごめん! 俺が連れてきた!」


 鉄志が雄々しく物陰から飛び出して、詩文を引っ張る。

(お父さん……ってことは)

 仁王の顔全体の印象は、細面の鉄志とは似ても似つかないが、よくよく見ると、奥二重の細い目元は鉄志と同じだ。 

「この子、同じクラスのぶんちゃん! ほら、高野文具店の!」

 仁王は目をぱちくりした。腕を掴まれたままの詩文は、正体を明かされて、涙目で頭を下げる。商人の悲しい性である。

「その文鳥だかぶんちゃんだかとお前が、どうしてうちの仕事場に入ってきやがった」

「俺が連れてきた! こないだの花火を見損ねたって泣いてたから!」

「花火だあ?」

「熱が出て、お祭り行けなくて、花火見られなかったんだって。だから、俺」

 仁王は詩文を鉄志を交互に眺めた。

「っ、てめえ、溶接を花火代わりに見せようってのか、ああ?」

(まずい。鉄ちゃんが怒られる!)

 革の長手袋や脚絆、前掛けはまるで仁王の鎧だ。殴られたらひとたまりもない。ぶるぶる震えていると、仁王は詩文を掴んでいた手を離し、のしのしと歩きだした。何かを手に持って、また戻ってくる。

「いつも言ってんだろ。溶接の光は直接見るもんじゃねえ。目ん玉が焼ける」

 差し出されたのは、取っ手のついた赤茶色の面がふたつ。目に当てる部分に黒っぽいガラス窓がついている、いわゆる「溶接面」だ。信じられない気持ちで顔を上げると、仁王の口元はわずかに緩んでいた。再びマスクをして黒い溶接面を被ると、子供たちにもマスクを着けてくれた。

「細けえ鉄粉が飛ぶから、なるべく下がってろよ。ここは冷房も効かねえ。長い間見てんじゃねえぞ。きっかり10分だ、いいな」

 そう言って工場の壁に掛かった時計を指差すと、仁王はまた作業に入った。

 ばちばち、ばち、ばちばち。

 盛大な音と共に火花が散る。

 溶接面から見る世界は少し緑がかっていて、火花は裸眼で見るほどの迫力はなかったものの、めったにできない特別な体験に胸が躍った。

 真夏の作業場の熱気に汗が吹き出し、Tシャツはびっしょり濡れて、背中が張り付いたが、そんなことは構わなかった。

 いつまでも、見ていたかった。

 ——私たちだけの、花火を。


 それから、何度か鉄志に頼んで、溶接を見に工場へ行った。鉄志の父は黙って溶接面を貸してくれて、たまに缶ジュースやアイスをおごってくれることもあった。高学年になると、だんだん女子と男子が一緒に遊ぶこともなくなって、クラスも変わったので、何となく工場には行きにくくなった。それでも会えばお互い挨拶をするし、中学に上がっても鉄志は高野文具店にやって来た。自転車や着るものは変わっても、じっくりと文具を見る姿は変わらなかった。


 鉄志の実家の鉄工所が閉鎖したのは、詩文たちが中3になったころだった。


 社長だった彼の祖父が亡くなり、祖父の縁者だった取引先が手を引いたのがきっかけだった。さらに不況の煽りで製品の納め先が倒産し、不渡りを出してその回収が難しくなったのだ。

 鉄志の父は、工場の機械や土地を売り、溶接や金属加工をする1職人となって、他の工場に勤め始めた。工業高校を卒業した鉄志の兄も、どこかの工場に就職したらしい。当然工業高校に進むと思っていた鉄志は、詩文と同じ普通高校に入学した。


 高校時代の鉄志は新聞部に入部して、高野文具店によくコピー用紙を買いに来た。

 詩文はテニス部に入っていたが、雨の日は練習が休みになる。早く帰ると、夕餉の支度をしたいという母によく店番をまかされた。そんなときにコピー用紙を買いにくる鉄志に会うのだった。

「A3のコピー用紙、4冊。領収書も」

 封筒から代金を出す鉄志はひょろりと背も伸び、物静かな文系青年のような風貌になっていた。髪や学ランの肩に付いた水滴を手で払う。

「あれ、鉄ちゃん、傘は?」

「小降りだし、どうせ両手塞がっちまうから。学校までそんなに距離ねえだろ」

 確かにA3のコピー用紙500枚の束が4冊は重く、両手にしっかり抱えなければ歩けず、傘は差せない。高校は高野文具店と道を挟んだ向かい側だが、交通量が激しかった。学生は歩道橋を使え、と言われていて当然荷台は役に立たない。

 なぜわざわざこんな雨の日に、とも思うが、新聞部にとって紙は命だ。濡らすわけにはいかない。

 詩文は文具のダンボールに入っていた梱包用のビニールをコピー用紙に被せ、素早くテープで止めた。 

「雨で手元が滑るかもしれないけど、濡れるよりはましでしょ」

「ありがとう、助かる」

 鉄志は口元を上げるようにわずかに微笑むと、ぺこりと礼をして両手にビニール包みを抱えた。煙るような小雨の中、濡れるのも構わず、慎重に雨の中を歩いて行く。いつしかその姿は雨に溶けたように見えなくなった。

 鉄志は結局3年間新聞部に在籍し、雨の日によくコピー用紙を買いに来た。

「鉄ちゃん、雨男でしょ。レインコートでも常備しとけばいいのに」

 両親の話だと他の部員が買いに来る日もあるらしいが、なぜか詩文の店番の日、つまりは雨で部活が中止の日には必ずと言っていいほど鉄志が買いにくる。鉄志も慣れたもので、前回詩文が包んだビニールを持参してくる。詩文はそれを受け取ってコピー用紙を包んで鉄志に渡す。

 しとしとと小雨が降る中、両手に荷物を抱えて歩いて行く鉄志の姿を、詩文は何度見送っただろう。

 ゆっくりと歩道橋を上る白いスニーカー。

 階段を上がりきって、その後ろ姿が見えなくなるまで。

 

 高校を卒業し、ふたりの進路は初めて別れた。詩文は私立の文学部への進学を決めていたが、鉄志はまだ工場の借金を抱えている父を気遣い、当初就職を希望していた。

『俺のようにはさせたくねえ』

 3者面談のとき、あの仁王のような父親がそう言って大学進学を強く勧めた、と彼と仲のいい成田屋の太朗から聞かされた。


 工場で溶接を見せてもらった、あの日。

 彼の父親は、ふたりにとって火花を操る魔法使い、もしくは勇敢なヒーローだった。

 他ならぬ本人にその存在を否定され、鉄志はどんな思いだったのだろう。

 鉄を志すという名前を与えられた、彼は。


 奨学金で国立大学に通い卒業した鉄志は、有名な化学系の一流企業に就職した。









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