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64GBのあいつ

作者: 楠 海

 ふと口元に手をやる。違和感の原因を探そうとして、一つしか思い当たらないことに顔をしかめる。

 首からぶら下げたイヤホンの右側を耳に押し込んで無言で抗議した。

(あんたまたキスしたでしょ)

「なんでわかんの?」

 私にそんな記憶はない。だが体が覚えていて不意に感覚が再現されるのだ。

(やめろって言ったよね?)

「いいじゃん彼女にキスするくらい」

(体が女だということを忘れないでほしいんだけど)

「問題ない問題ない。お前男装映えするし声ひっくいし」

 くっくと笑うテノールが憎たらしい。男装映えって、あんたが私のストレートロング勝手にばっさり切ったからでしょうが。冗談抜きで泣いたわ。

 軽くなった頭はいまだに慣れない。ベリーショートなんて生まれて初めてだ。

(ええおかげさまでモテモテですが女の子にモテても意味ないし私ノーマルですから)

「モテモテか。やったね」

 全力でうざい。

 朝っぱらから一人で仏頂面になってしまう。

「美音、おはよう」

 そんな凶悪な顔の私に声をかける強者一人。

「出たな元凶」

 と思ったら違和感の元凶が立っていた。

「は? 元凶?」

「彩乃、あいつと付き合うのはいいけどキスはやめてってかこれ私の体なんだけど嫌じゃないの?」

「大丈夫!」

 彩乃は満面の笑顔で力強く親指を立てた。

「中が美音のときはキスなんてごめんだから!」

 そういう問題じゃない。

 反論しようと思ったが折悪しくチャイムが鳴ってしまった。彩乃は話は終わりとばかりにさっさと離れていく。

 ため息をついて数学の教科書を抱え、立ち上がる。

 ポケットに入れたウォークマンのストラップがちりんと音を立てた。

(次数学だから。よろしく)

 返事を待たずに私は体をあいつに明け渡した。意識が薄れ天地がぐるりと回るような感覚は極度に眠いときに似ている。

 次の瞬間私はすべての知覚を失う。純粋な意識、という感覚はやはり少々奇妙なものだ。

 もしあいつが二度とイヤホンを耳に入れなければ、私は永遠にこのウォークマンの中に閉じ込められることになる。私の体はあいつのものになる。

 それは交代する度に思うことで、きっとあいつも同じだ。


 左耳にイヤホンを入れたまま教室へ戻る。でもあいつはあまり話すタチじゃないからホワイトノイズが停滞する。あいつ今日機嫌悪いからそれもあるかも。

 キスくらい、と思うけどまあよく考えれば女同士だしな。外見は。……今だって女子高生ルックだしよ。ミニスカのときに引きこもるなよ、数学嫌いだからって。

 この思考をあいつに伝える気はない。別に俺たちは以心伝心じゃないから伝えようと思わなきゃ伝わらない、たとえイヤホンを挿しっぱなしでも。

 教科書を机に入れて、代わりに弁当箱を手に取る。行き先は決まっている。屋上だ。いつも案外人はいない。ついでに彩乃にメールを入れておく。

 一人で食べているとやっぱり上がってきた。イヤホンを引き抜く。あいつにうるさく言われるのはごめんだ。

「毎度毎度見事だと思うんだけどさ、外見は一緒なのに別人なんだね」

 俺の隣に腰を下ろしながらの第一声がこれだ。

「……それが?」

「仕草も表情も違って見えるなあって」

「当たり前だろ。俺はあいつじゃないしあいつは俺じゃない」

「でも同一人格じゃん。元は」

 正論だ。でもあいつとはいろいろ相容れない。一緒にしないでほしいし一緒にできるわけもない。

 眉間にシワを寄せた俺に、彩乃は笑った。

「美音も吟も別々に好きだよ。でも付き合いたいのは吟」

 彩乃にとっては俺もあいつも別々の人間らしい。一人前の人格を持つと認めてもらえるのはありがたいことだ。うん。てか照れる。面と向かって付き合いたい云々とか照れる。

「そか」

 我ながら素っ気ない返事に彩乃は笑い声を上げた。照れ隠しはバレてますかそうですか。


「ねえヤブさん」

「俺の名前はヤブじゃない」

 彼は私を一顧だにせずパソコンに向かってキーボードを叩いている。ウォークマンはそのパソコンにケーブルで繋がれている。メンテナンス中だ。

 人の部屋に入るのは何度来ても慣れない。周りにあるものは全て他人のものでありその人の内面が見えるようで、無防備さが落ち着かない。

「医師免許持ってないんでしょ」

「医者だと名乗った覚えもないし俺はただの高校生だ」

 指の長い手がウォークマンを取り上げるとまたストラップのビーズが揺れてちりんと鳴った。

 あいつと共同生活になってこのかた、服も持ち物もあいつ好みのものが増えてほとんど倍加する勢いだが、このストラップはとりあえず私の趣味だ。あいつの彼女になる前から私の親友だった彩乃が作ってくれたもの。

「ウォークマンってイカれないんだね」

「だいぶいじったからな。何か不具合は?」

「電池の減りが早い」

「いつも話してるからじゃないのか」

「それもあるけど」

 切れ長の彼の目が私を見る。その視線は冷静で揺らがない。

「中身がただの音楽じゃないからな、消耗するのも当然だ」

 あいつは今は私の中に引き上げている。彼を嫌っているから表には出てこない。

 あいつにしてみれば、彼は自分を体から引き剥がして0と1に分解してウォークマンに叩き込んだ張本人だから嫌うのも当たり前だろう。

「……八神やがみ

 呼んでも彼は返事をしない。けれど私をじっと見つめている。話を聞いてくれるらしい。

「なんで助けてくれるの」

「助けてほしいと連絡を寄越したのは佐川の方だろ」

「そうじゃなくて!」

 一番容量が大きいウォークマン買ってこいと言われたときから気になっていた。

 私が困っているからといって、彼には私を助ける理由はない。

「……中学卒業してから一回も連絡してなかったやつが、こんなときだけ頼ったのに、しかもなんか言ってること常識はずれだしさ」

「だからだ」

 彼の声はさも当然のことを言うように淡々としていた。そして珍しいことに微笑する。

「頼られたことがないから冗談だと思えなかった。だから手助けしようと思っただけだ」

 ……ああ、もう。

 せっかく八神の笑顔なんてレアなものを見られるのに、視界が涙で霞む。

 ずるいやつ。


「iPodにすればよかったのにね」

「そういう問題じゃないし!」

 真面目くさって言う彩乃にツッコミを入れる。実際その方が容量でかいのあるけど。

 このウォークマンは64ギガバイトだ。その中に俺もあいつも収まってしまう。

 あいつは覚えていないだろうけど、俺はあいつと出身校が同じだとかいう八神というやつと話したことがある。

 俺とあいつを電気信号に解体した八神は、人間の自我なんて単純化していけばその程度だと言っていた。特に俺たちは二人に分かれて人格が薄まっているから尚更だと。

 俺たちはたった64ギガバイトの存在だと、突きつけた。

 どんな天才だか知らないけどその言い種が気に入らなかった。だから八神は嫌いだ。

 スクランブル交差点の人混みで彩乃をエスコートする。人目が気にならないと言えば嘘になる。今時流行りの男装女子か綺麗な顔の男子高校生か、周りはきっとそのどちらかで俺を判断しているだろう。

 もう少し身長がほしいところだけど、彩乃よりは辛うじて高いのでよしとしよう。

「なあ彩乃」

「うん?」

 ふと思った。

 俺に告白してくる前から、彩乃はあいつのそばにいたんだ。

「あいつとはいつからの付き合いなんだっけ?」

「あれ、知らないんだ」

「俺が生まれる前からだろ」

「でもさ」

 彩乃は声を抑えた。

「自分が生まれた理由は知ってるんだよね? ……美音は忘れてるけど」

 俺が作られた理由。

 作った本人であるあいつがそれを忘れたのは、その記憶を俺に押し付けたからだ。

「お前を守るために俺は生まれた」

 それが冗談でないことを彩乃は知っている。誰より俺たち二人の近くにいて、客観的にドライにものを見られる稀有な人。

 彩乃は俺から視線を外し微苦笑を浮かべた。

「中一のときからだよ。そんなに長い付き合いじゃないの」

 五、六年くらいか。

「でも美音は昔から友達作るの下手だったから、近づくのに時間はかかったけどすごく慕ってくれて」

「……あれで?」

「最後まで聞いて。……で、べったりの頃に、私が死にかけた」

 覚えている。

 目の前で彩乃が乗用車に撥ね飛ばされた瞬間を鮮明に。

「意識戻ったら吟が出てくるようになっててびっくりした」

「そりゃびっくりするだろ」

 だから俺は、彩乃を失うことがないように、守れるようにと生まれた。のだと思う。

「美音がツンデレになったのも万が一が怖いからかな。私がいなくなったとき再起不能にならないために」

 彩乃はひたすら淡々としている。

 それが逆に不憫で、まあそれは俺とあいつのせいなんだけど寂しく見えて、手を繋いで指を絡めた。


「理由……は、あるんだろうけど覚えてない」

「そうか」

 特に追及することなく、八神はあっさりとした返事を寄越した。その淡白さに拍子抜けしてしまう。いつものことと言えばいつものことだけど。

「追及しないんだ」

「覚えてないものを追及しても無駄だろ」

 出された麦茶はうちとは違う味がした。

 彼の家に上がり込むのはこれで何回目になるだろうか。私も八神もあまり口数が多くないので沈黙になってばかりだが、彼は気にする様子もないからもう沈黙を破る努力は放棄した。今では話題を思い付くまで放置だ。

「八神、あいつがリア充って話したっけ」

「あれが?」

 八神がわずかに表情を歪める。彼もあいつのことをあまりよく思っていないらしい。お互い様だ。

「友達が彼女なんだけど複雑で、デートじゃキスとかしてるみたいだし」

 麦茶を飲んでいた八神がむせた。ひとしきり咳き込んでなんとも形容しがたい微妙な顔で私を見る。

「……彼女って、女子か」

「あいつノーマルだからね」

「それちょっとやめさせた方がいいんじゃないか」

「そうは言ってもあいつも一つの人格だから強要できない」

「でも佐川は女子だろう」

 珍しく彼が語気を強めた。思わず呑まれる。

「嫌なら嫌とはっきり言うべきだ」

「言ってる」

「いや、言ってない。最初から諦めてきちんと拒否していないだろう」

 薄々自覚していたことを、思い切り突かれた。反射的に気持ちが防衛に回る。途端に彼の真意が見えなくなる。

「なんでそんなことわかるの」

「普段の消極的な様子を見てればわかる」

 ささやかな反抗は一発でくじかれた。

「いいか、主人格は佐川美音だ。吟に佐川の気持ちや生活や恋愛が左右されることがあったらいけない、だから俺はウォークマンを……佐川?」

 畳に倒れこんで悶絶していた私は呼ばれてようやく起き上がった。

「どうかしたか」

「……なんでもない」

「……それならいいけど、困ったときは言え。何のために俺がいる」

 八神の口から恋愛なんて言葉が出るとすごい破壊力で今更ながらすごい意識しちゃってもしかしたらもしかするのかもなんて思ってしまったんですがどうすればなんて訊けるはずもなく、私は無言で何度も頷いた。


 話を聞いた彩乃はあっさりと言い放った。

「それその人を好きになったってことじゃないの?」

「よりによって八神――!」

 埃っぽい屋上で青空に向かって絶叫すると首にかけたイヤホンからやめろ馬鹿ああああと微かな悲鳴が上がった。何がどう間違ったか聞こえたらしい。

「女子力の欠片も乙女心の片鱗もないあいつがなんでまた……」

「ちょっと貸してー」

 俺が首にかけていたイヤホンを強奪し、彩乃はそれを両耳に着けた。そうして何やら真剣な顔であいつと交信を始める。やり方に慣れていないらしい。声に出さなくていいってのにもにょもにょと曖昧に呟いている。

 先日あいつが突然泣きついてきたのだが、これは俺の手に余る事態だった。

(恋って何?)

「知らんわ辞書引け」

(リア充のくせに……えーと、特定の異性に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。日本語訳して)

「日本語だろうが! 読んだまんまだよ!」

(無理。理解できない。自分がその定義に適用されるのかが皆目わからない)

「お前理解しようとしてないだろ」

(そもそも恋愛なんて知らないしどんな気持ちが恋愛にあたるかなんてわかんないし恋だと認める勇気なんて私持ってないから!)

 相変わらずの男声ぎりぎりな低音で妙にかわいいことまくし立てやがる、と思った瞬間あいつは自分でイヤホンを引っこ抜き俺はウォークマンに取り残された。

 相談じゃなかったのかよ。

 一度交代したら引きこもるし。

 様子を窺うと彩乃に対してはそれなりに素直に話しているようだ。女子同士だからか。自分の半身に対するより素直ってどういう。

 イヤホンを外した彩乃は俺を見た。

「初恋だって」

「知らんわ!」

「恋に落ちるには勇気がいるとかピュアだね」

「あいつがピュアなんてガラかよ」

「それにしても、さ」

 ふっと彩乃の目が真剣になった。表情は笑顔のままだがその目につられて俺は真顔になる。

「いつかは食い違うだろうと思ってたけど意外と遅かったね」

「……もっと早くこじれると?」

「うん。……ねえ、吟はどうしたい?」

「どうしたい、って」

「今彼女にとって一番邪魔なのは私と吟の関係。でしょ?」

 客観的でドライな彩乃。自分が関わることまでもばっさりと切り捨てる。それでいいのかと言いたくなるけど、実際正論なわけで、基本人格も主人格もあいつだから邪魔するわけにはいかないというかでもそうしたら俺は人を好きになることも許されないのかと思うと悔しいし悲しいし寂しいしひどく怖い、自分の存在がどんどん曖昧になっていくのが。

「……俺は、」

「一つ言うけどね、吟」

 みっともなくかすれた情けない声を遮り、彩乃は俺に指を突きつけた。

「遠慮しちゃ駄目。望むことは望むとちゃんと言いなさい。あなたは立派に個性を持った一人の人間なんだから」

 俺という人格の存在理由である彩乃の言葉は、何より真摯で愛おしかった。


 彩乃に誘われたので時々行くお馴染みの店で一緒に昼食を食べることになった。彼女に薦められてここの生パスタを食べて以来私も贔屓にしている。

「なんていうかさ、複雑だよね私たちの関係」

「私と彩乃の関係はそんな危ないものじゃないと思ってたけど」

「いやほら吟も合わせると」

「それだいぶ今更」

 そうだけど、と彩乃はカルボナーラの半熟卵を崩す。

「美音がリア充になって改めて思うことがあるわけですよ」

「……八神が私の事情知っててかつ人間関係に寛容でよかったですね。てかこれで泥沼にならないなんて八神の神経ほんとわけわかんない」

 ペペロンチーノから唐辛子を取り出し皿の余白に置く。さすがに辛い。

「その人会ったけどあれは寛容というより無関心じゃないの」

「そうかも」

「彼氏のことボロクソ言ってるけどほんとに好きなの?」

「うるさい黙れ変態」

「変態じゃないし友達がたまたま二重人格になってたまたま交代人格の方に惚れちゃっただけだし」

「とりあえず私の体にキスしないで」

「吟が表出してるときは吟の体だから問題ない」

「問題大有りだから」

 私とあいつで決めたことは一つだけ。表出するのを一日交代にした、それだけだ。

あいつが佐川美音を演じることもなくなる。一日中演技を続けてはいられない。これから「私」は一日ごとに相沢吟と名乗るだろう。二重人格だと周りにバレるけれどそれでいい。そうすれば私は八神と、あいつは彩乃と堂々と付き合うことができる、だって中身が別人だから。

根本的な解決にはならないことはわかっている。

でもこんなその場しのぎでもいいから共存しよう。

それが私たちが話し合って出した答えだ。

「で、彼氏とはどうなの?」

「笑えるくらい何も変わらない」

「まずは名前呼びを始めようよ!」

「無理無理無理無理」

 首にかけたイヤホンからは何の物音も聞こえない。あいつにはこの会話が聞こえているのだろうか。聞こえているにしろいないにしろ、彩乃と食事に行ったことを言えば拗ねるにちがいない。後でからかってやろう。

 少し身動きするとズボンのポケットからはみ出したストラップが揺れてちりんと鳴る。鈴ではない。ガラス玉と金属ビーズがぶつかる素朴で小さな音。

 なるべく失わずに。親友も恋人も失わずに、相棒にも失わせずに生きよう。

 その理想を実現するのはきっと難しい。

 でも彩乃も八神もあいつもいてくれるから、きっと大丈夫だ。

 根拠のない自信は妙に清々しかった。

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