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オーラヴ/オーラヴ

作者: 香坂

 偉大なるクヌートがノルウェーの玉座について間もないある冬、私はデーン人のヴァイキングから奴隷を買った。その男奴隷の額には長い年月と辛苦の後が深く刻みこまれていた。だが老いさらばえた中にも高貴な魂の輝きがあった。人生の最初の瞬間から奴隷として生まれ落ちたものに特有の、他人の顔色をうかがって歓心を買うあの眼の光はなかった。この老人はかつては自由人だったのだろう、と私は考えた。

 家に帰ると私は老人に元着ているのよりはまだましな衣服と豆のスープを与えた。それからほんの好奇心でお前はどういう人間なのか、いったいどんな事情でこの境遇に身をやつすことになったのかと訊ねた。「それは命令ですかな、だんな様」

「仕事だよ。私はお前のような老人に骨を折らせる農場での労働や船の修理をあてがうほど無慈悲ではない。だから私の無聊を慰めてくれ」

 老人は黙り込んだ。私は自分の試みがかつて一人前の自由人であった者に恥辱を与えようする行為であることに気がついて、軽い自己嫌悪に陥った。沈黙が炉辺を支配したが私がばつが悪そうに苦い笑みを浮かべると、これは誰にも話したことはないし、驚かれるか、信じられないかもしれませんがと前置きした。

 老人は、自分はかつてノルウェーの王オーラヴ・トリグヴァソンに仕えた奴隷だったのだと言った。自分ほど、と老人は言う。自分ほどオーラヴ・トリグヴァソンのことを知っている人間はいない。あの男のことはこの世の誰よりもよく知っている。あの王が赤ん坊の時にマント一枚の値で奴隷として売り飛ばされた時のことも、農場から救い出されて遙か東のルーシの地でウラディミル大公に仕えた時のことも、バルト海でのヴァイキングも、予言と洗礼によって古きオージンとトールへの信仰を捨て去り白いキリストを崇めるようになった時のことも、卑劣なハーコン・シグルズソンから正統なノルウェーの王位を回復した時のことも、何もかも昨日のことのように語ることができる――いや思い出せるのだ、と。そうして問わず語りに王の流浪と戦いの生涯をよどみなく話し始めた。自分が高貴な生まれであることを知りながら農奴としてこき使われた忍従の日々、ルーシでのウラディミル大公との青春と友情、数々の剣戟の音や冬の嵐、まだ異教の神々を崇拝していたノルウェーの民をキリストの信仰へ導いた話などを委細を尽くして、自分自身の目で見てきたように熱っぽく述べたてた。

 私は初めこの老人は頭がおかしいのではないかと疑ったが、その表情は確かに知性に支えられた者のそれであったので、もしかしたらこの年寄りは本当に王の奴隷であったのかもしれない、あるいは|他ならぬ彼自身がオーラヴ・トリグヴァソンなのかもしれない、とも考えた。オーラヴ王は勇敢で聡明、非常に美しい男であったと言われている。秀でた額や炯々とした瞳、人を惹きつける話術と風采など耄碌してはいるがその名残を感じさせるのに十分なものが備わっていた。私は「あなたがノルウェーの王なのか」と訊ねようとしたが思いとどまった。それは一つにはこの老人はやはり狂気に侵されているのではないという考えを捨てきれなかったからだが、戦いの最中にスヴォルドの海に沈んだオーラヴ王が奴隷になり果て(というか戻り)、今頃になってその素性を主人に打ち明けるという想像がいかにも荒唐無稽で我ながら馬鹿馬鹿しく思われたからもである。今やクヌート大王が三つの王国を統治する時代なのだ。デンマーク王スヴェンの艦隊と戦ったノルウェーの軍隊が全滅したスヴォルドの海戦から三十年近く経っている。行方しれずになったオーラヴ・トリグヴァソンが仮に生きていたとして、何十年も自らが王であることを隠して奴隷として惨めにその後半生を送っていたなんてことが信じられるだろうか? それも並の男ではなく強運と実力で数々の困難を乗り越えてきたオーラヴ・トリグヴァソンが。

「ところでまだ聞いていなかったが、お前の名前は何というのだ?」

 私がその質問を発したのは、己の馬鹿げた妄想を秘めておこうとする理性とわずかな可能性を探ろうとする抑えがたい好奇心とを折衷した結果だった。老人はそれに欠片の躊躇いもなく答えた。

「私の名前はオーラヴです」

 瞬間、私は電撃に打たれたようになった。驚くべきことに自分でも気づかず「陛下」と呟いていた。老人はそれを聞き逃さなかった。

「私は……」

「ノルウェーの王オーラヴ・トリグヴァソンなのでしょう。あなたはスヴォルドの戦いで海に飛び込んでスヴェン王の軍勢から逃れ……」

 私は言いかけたがそこで言葉を切った。老人もまた何も言わなかった。再び沈黙の帳が降りた。

「違うのですか?」

 老人は悲しげな表情をしていたように思うが、実際彼はどういう感情を抱いていたのか私には知ることができない。

「それが、わからないのです。いや、わからないというのは正確ではない。部分的にはまだオーラヴ・トリグヴァソンなのでしょう。しかし確実にわかるのは私がかつて奴隷であり、それから王でもあったということなのです。すべてを理解してもらおうとは思わないし、また誰にも理解できるはずのないことですが(天なる父であっても、と彼は言った)少しでも何が起きたのかをご説明するには王の最後についてお話せねばなりません。ええ、スヴォルドの戦いについてです。なるべく事実だけを語りましょう」 そして以下のようなことを語った。


 オーラヴ・トリグヴァソンはスカンディナビア全土をキリスト教化するという野心を抱いていたが、その活動はデンマーク王スヴェンやスウェーデンのシグリ女王、ヴェンド族の首長らを敵にまわす結果をまねきました。そしてオーラヴの艦隊はスヴォルドの沖合で待ち伏せされ、デンマークやスウェーデンの船に包囲されたのです。

 最初オーラヴは勇敢に指揮を執り手ずから弓を引いたりしていたのですが、戦況はノルウェー軍に非常に不利でした。たちまち王の船にまでデーン人が迫ってきて白兵戦になりました。

 オーラヴはこう考えました。「自分はここで死すべき運命ではない」と。そこでオーラヴは傍らの奴隷に――たまたま、いえ本当に偶然かは知りませんが王と同じオーラヴという名前の奴隷でしたけれども、混乱を避けるために「彼」とか「男」と呼ぶことにします――王の剣と兜と鎧を持たせました。彼は自分の身にまとってた粗末な服をオーラヴに与えると、二つの角の付いた兜をかぶりました。それからオーラヴを見てにやりと笑いました。

 彼はデーン人たちがひしめき合っている方へ駆けていくと、大声でこう叫びました。

「私がノルウェーの王、美髪王の孫、トリグヴィの子、オーラヴだ」(戦の名乗りは神聖なものです。この恐ろしい名乗りがどういう事態を招くのか彼は十分に知っていました。そしてオーラヴにはどうすることもできませんでした)

 白刃が太陽にきらめき、戦いの汗(血)がそこら中に流れて甲板にまともに立っていられないほどになったので、オーラヴは砂をまきました。一方王の武具をまとった彼とノルウェーの戦士たちはオージンの狂戦士のように戦って、多くのデーン人を殺したので恐れて誰も近寄ってこなくなりました。それで持っている限りの槍や弓をデーンの人の船に浴びせかけてさらに多くを殺しました。彼がスヴェン王の旗艦に向かって槍を投げると、それは凄まじい音を立てながら飛んでいって船に穴を開けました。すると勇敢な射手を乗せたがデーン人の船がわらわらと集まってきて、矢をつがえました。オーラヴは自分に向かって矢を引き絞っている男と目があいました。射手の男は哀れむような目つきでオーラヴを見ると、弓を下げてかわりに別の方向を狙いました。オーラヴは矢が低い唸り声をあげながら飛ぶのを、自分に向かってくるかのように聞きました。その矢は王の剣を持った男の傍らにいる兵士の弓にぶつかりました。その時のやりとりは今でも耳に残っています。

「今の音はなんだ。凄まじい音を立てて何かが砕け落ちたが」

 真っ二つに避けた弓を持ったまま兵士が答えました。

「ノルウェーが、陛下。あなたの手から」

 刹那、デーン人の斉射が行われました。ノルウェーの王の兜の下で驚いたように目が見開かれ、男が膝をつくのをオーラヴは見ました。デーン人たちの雄叫びと殺到する足音を聞きました。それでもノルウェーの精強な兵士は敵を退けたが、戦いがそう長くは続かないのは明白でした。王の精鋭が全滅する前にあちらこちらでノルウェーの戦艦は降伏し始めていたが、王の旗艦の長蛇号だけは最後の一人まで戦い抜く覚悟を決めていました。ただオーラヴを含めた奴隷たちは、敵が甲板の大部分を占領すると手を投げ出し戦意のないことを表してデーン人を迎えました。当たり前のことですが奴隷にとっては、ノルウェー人の主人がデーン人に代わったところで何の関係もないのですから。ところが激昂し血に酔ったデーン人たちはそんなことにお構いなしに刃を振り下ろしたので、たちまち凄まじい悲鳴があがりました。武装した男同士が戦うよりももっと激しい騒ぎになり、それが一層凶暴なデーン人を煽りたてました。奴隷たちは甲板を逃げまどい、どうしようもなくなると海に飛び込みました。オーラヴにもデーン人が迫ってきました。

 そしてノルウェーの王の格好をした男は突き刺さった矢を引き抜いて再び戦っていました。親衛隊の最後の生き残りが彼を守りながら後退していき、最終的に船尾まで追いつめられていく様子をオーラヴは見ていました。とうとう後ろは海になり、後退する余地がなくなると彼は兜を上にあげてオーラヴの方を見やりました。再び二人の視線が交差してぶつかっりました。男はオーラヴから王の剣と兜と鎧を受け取った時と同じ、あのにやりとした笑みを浮かべました。瞬間、時が止まったようにデーン人の喧騒も波風の音も聞こえなくなりました。まるでこの世に二人のオーラヴしか存在していないかのように、静かな親しみをもった表情でどちらかがもう一人に微笑んだのですが、いったいどちらがそうしたのか永遠に分からなくなりました。そして水しぶきが二つ上がって、ノルウェーの王の剣も海に浮かぶ無数の船も何もかも見えなくなりました。……


 老人はそこまで語り終えると沈黙したが、どういうことが起きたのか大略理解できた気がした。思うにその奴隷は高貴な生まれだったが王の剣と防具を身につけ、名乗りを上げた瞬間に己がオーラヴ・トリグヴァソンになったのだろう。このような考えは涜聖かもしれないが偉大なる主でも混乱、あるいは錯誤を起こすことはあると私は思う。主が万能者ならば何かについて知る――それは創造することと同じだろうが――と同時に何かについて錯誤を起こしているはずである。被造物である人の子の為す業で主に為せないことがあるのだろうか? 同じ木になる実でも同じものが無いように、この世に一つとして同じものは存在しないよう主は世界を設計されたが、一人の女の腹からは希に同じ人間が二人生まれることがあるという事実がこの推論を裏付ける。これは主が二人を同じ人間だと見なしたからであり、すなわち二人が目を見交わした瞬間にオーラヴ・トリグヴァソンは引き裂かれてしまったのだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  かようなところに同好の士がおられるとは!欣快至極。北欧サガの世界は何故こうも心をくすぐるのか。  王の身代わりの話というと三国志演義の孫堅と祖茂の挿話とかを思い出します。普遍的なテーマ…
[一言] はじめまして、鹿紙と申します。一読して物語に圧倒されました。私は中野美代子さんの『眠る石』等の一連の歴史/幻想小説が大好きなのですが、御作にそれに近い感覚を受けとりました。 こういった物語…
2012/08/29 22:22 退会済み
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[一言] こっそり、新作が投稿されている……! 西洋ものと聞いていましたが、まさか北欧ものとは。 このあたりの歴史は本当に好きものの世界ですよね~。いや、私も好きですがw 「ノルウェーが、陛下。あ…
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