勇者の聖剣が折れそうなのは、オレのせいではありません
カチャリ、と硬質な音が夜の静寂に響く。
オレ、ハルツは焚き火の微かな明かりを頼りに、手元の一振りに意識を集中させていた。
この国に数本しかないと言われる伝説の武器、聖剣『アロンダイト』。
選ばれし勇者のみが扱えるというその剣は、今、オレの膝の上で鈍い光を放っている。
「……あと少しだな」
専用の油を染み込ませた布で、剣身をゆっくりと拭う。
指先に伝わる振動がある。普通の人間には、あるいは持ち主である勇者にすら聞こえない、剣の「悲鳴」だ。
ここ数日の激戦で、魔力の通り道となる中心核に、目に見えないほどの微細な歪みが生じていた。
「ハルツ。まだそんなことをやっているのか」
背後から、呆れたような声がした。
振り返らなくてもわかる。金髪を揺らし、豪華な寝具から身を起こした男。このパーティのリーダーであり、聖剣の主、勇者ゼノスだ。
「ゼノスか。……ああ、こいつの魔力が少し乱れている。このまま放置すれば、明日の一撃で重心がズレるぞ」
オレが淡々と告げると、ゼノスは鼻で笑った。
「ははっ、細かいな! 聖剣だぞ? 神に祝福された無敵の剣だ。そんな些細なことで折れたり、使い勝手が変わったりするものか」
「道具に『絶対』はない。ましてやこいつは、あんたの荒い使い方に悲鳴を上げてる。あと一時間、いや三十分でいい。完全に整えるまで待ってくれ」
オレは砥石を手に取ろうとした。
だが、ゼノスはその手を足で払いのけた。
「もういい。しつこいんだよ、お前は」
ゼノスの瞳には、明らかな蔑みが宿っていた。
「いいかハルツ。俺たちは魔王軍の幹部を倒す選ばれしエリートだ。派手な魔法も使えず、ただ後ろで剣を磨いているだけのお前に払う報酬が、最近もったいなくなってきたんだよ」
「……なんだと?」
「お役御免だ。明日からお前の席はない。荷物をまとめて、今すぐこのキャンプから出て行け」
あまりに突然の宣告だった。
パーティの他のメンバーも、焚き火の向こうで見て見ぬふりをしている。彼らにとっても、オレの「こだわり」は、進行を遅らせるだけの退屈な儀式に過ぎなかったらしい。
オレはしばらく沈黙し、それから膝の上の聖剣を見つめた。
夜露に濡れたようなその刃は、まるで泣いているように見えた。
「……わかった。勝手にするがいい」
オレは静かに立ち上がり、使い古したメンテナンス道具を一つずつ、大切にカバンへ収めた。
怒りよりも、深い失望が胸を占めていた。
道具の声を聞こうとしない、愛そうともしない。そんな奴に、最高の状態の武器を握らせる資格なんてない。
「最後に一つだけ。ゼノス、その剣はもう限界だ。無理をすれば……」
「しつこいと言っただろう! さっさと失せろ、この無能が!」
ゼノスが投げつけた石が、オレの頬をかすめた。
オレは二度と振り返らなかった。
暗い森の中、たった一人の旅が始まる。
手元に残ったのは、長年使い込んだ一組の研磨道具と、職人としての誇りだけだ。
…..
パーティを追放されて三日。
隣国・エルヴァ王国の宿場町で、オレは途方に暮れていた。
この国は今、魔族の侵攻でいつ滅んでもおかしくないと言われている。街を行く人々は顔色が悪く、兵士たちの鎧は手入れが行き届かず、どれもこれも「悲鳴」を上げていた。
職人として、これほど見ていて辛い光景はない。
「ちょっと! そこどいて、どいてーっ!」
突如、甲高い叫び声が響いた。
直後、宿の厨房から飛び出してきた少女が、派手に足をもつれさせてオレの目の前で転んだ。
バッシャァァッ!
「……最悪だ」
オレの唯一の着替えに、真っ赤なイチゴジャムが大量にぶちまけられた。
転んだ少女は、ジャムまみれの顔を上げ、銀色の髪を振り乱しながらオレを睨みつけてきた。
「な、なによ! あなたがそこに立っているのが悪いのよ! ……あいたたた」
「……普通、ぶつかったら先に謝るもんだぞ、嬢ちゃん」
オレはため息をつきながら、彼女の顔についたジャムを自分の布で拭ってやった。
汚れの下から現れたのは、息を呑むほど整った、だがどこか気の強そうな美少女の顔だった。
「なっ、馴れ馴れしく触らないで! ……というか、あなた、その手元のカバン……。メンテナンス職人の道具ね?」
彼女の瞳が、鋭く光った。
先ほどまでの雰囲気は消え、冷徹なまでの観察眼がオレを貫く。
「……だったらなんだ。オレはただの、クビになった研ぎ師だ」
「ふーん、ただの研ぎ師ね。……見せて」
彼女はオレの返事も待たず、カバンから一振りのナイフをひったくった。オレが今朝、暇つぶしに研ぎ上げた安物の果物ナイフだ。
彼女はその刃を太陽に透かし、指先で軽く触れ――驚愕に目を見開いた。
「これ、ミスリルでもないただの鉄よね? なんでこんなに魔力の通りがスムーズなのよ。……嘘、乱れが一切ない。あなた、何者?」
「ハルツだ。……あと、それは売り物じゃないから返せ」
ナイフを取り返そうとしたが、彼女はそれをひらりと避けると、不敵に微笑んだ。
「うふ、見つけたわ!ハルツ、あなたを拉致……いえ、雇用してあげる!」
「は? 断る。オレは自由に暮らしたいんだ」
「拒否権はないわ! この国は今、魔族のせいで武器も防具もガタガタなの。勇者なんて助けに来ないし、他国は私たちが滅びるのを笑って見てる。……でも、私は諦めない」
彼女はオレの腕をギュッと掴んだ。その手は、少しだけ震えていた。
「……別に、あなたが心配だから言うわけじゃないんだからね。でも、そんな腕を持った職人が、こんな寂れた宿場で腐っていくのは世界の損失よ。だから、ついてきなさい!」
「おい、引っ張るな。……あと、あんた誰だよ」
「私はリーシャ・ド・エルヴァ。この国の第三皇女にして、あなたが今日から忠誠を誓うべき主人よ!」
ジャムまみれの姫様に腕を引かれ、オレは引きずられるように王城へと連行された。
オレの指先は、久しぶりの大きな仕事の予感に、かすかに熱くなっていた。
…..
連れてこられた王宮の工房は、ひどい有様だった。
煙突は詰まり、砥石は割れ、まともなオイルすら底をつきかけている。
「……これが一国の工房かよ。ひどすぎる」
「うるさいわね! 腕利きの職人はみんな他国へ逃げちゃったのよ」
リーシャはそう言い放ちながら、山積みにされたボロボロの剣を指差した。
そこへ、疲れ果てた表情の老騎士が一人、折れかけた剣を抱えて入ってきた。
「リーシャ様……もう限界です。魔族の皮膚は鋼より硬い。こんななまくらでは、あいつらの爪一つ傷つけられません……」
老騎士の持つ剣は、刃こぼれだらけで魔力の光も消えかかっていた。まさに「死んでいる」道具だ。
ハルツは無言でその剣をひったくった。
「ちょっと、ハルツ!? 急に何を……」
ハルツはリーシャの言葉を無視し、工房の隅に残っていたわずかな研磨粉と、自前のオイルを取り出した。
「道具ってのはな、主人が諦めた瞬間に本当に死ぬんだ。……まだまだコイツは戦える」
キィィィィィィィン、と高く澄んだ音が工房に響き渡る。
ハルツの指先が動くたび、剣の表面からドブ色の汚れが剥がれ落ち、内側から銀色の輝きが溢れ出した。
ただ研ぐのではない。
魔力の流れを指先で探り、滞っている箇所を叩き、歪みを整える。ハルツが剣の切っ先を指で弾くと、まるで歌うような美しい金属音が響いた。
「……これ、使ってみてくれ」
わずか数分。手渡された剣を受け取った老騎士は、そのあまりの「軽さ」と「鋭さ」に目を見開いた。
試しに近くにあった古びた鉄の盾を振ると、まるで豆腐でも切るかのように、音もなく両断された。
「なっ……なんだ、このキレ味は……!? 私の剣が、まるで聖剣のように……!」
「聖剣? 一緒にするな。こいつはあんたと一緒に戦ってきた相棒だろ。……今は、聖剣よりキレるぞ」
ハルツが不愛想に言うと、老騎士の目に涙が浮かんだ。
それを見ていたリーシャは、顔を真っ赤にしてハルツに詰め寄った。
「す、すごいじゃない! ……あ、あんた、本当にただの研ぎ師なの!? 嘘よ、絶対に何か隠してるわ!」
「隠してない。オレは18年間、ただ道具の声を聞いてきただけだ」
リーシャはふいっと顔をそらし、震える声で呟いた。
「……ふん、まあ、合格よ。……あなたのその腕、信じてあげてもいいわ」
そう言って、彼女はハルツを振り返った。その瞳には、初めて「希望」の光が宿っていた。
「調子に乗らないでよね! さあ、休む暇はないわよ! まだ磨くべき剣は山ほどあるんだから!」
「……わかってるよ。お姫様」
ハルツは苦笑しながら、再び砥石を手に取った。
一方、その頃。
ハルツを追い出した勇者ゼノスたちは、魔族の軍勢を前にして立ち尽くしていた。
「……おかしい。なぜだ、なぜ聖剣が輝かない!?」
手入れを怠り、魔力が詰まりきった聖剣は、ただの重い鉄の棒へと成り果てていた。
…..
数日後、エルヴァ王国の城門前。
魔族の大軍勢が押し寄せ、大地を揺らしていた。対するは、数も装備も劣るはずのエルヴァ騎士団。だが、彼らの手元には、かつてないほど銀色に輝く剣と槍があった。
「……信じられん。体の一部のように、魔力が流れるぞ!」
最前線の兵士が一閃する。
ハルツが夜通し調律した鋼の剣は、魔族の硬い外殻を紙のように切り裂いた。
「すごいじゃん、ハルツ! あなたが磨いた武器、まるで意思を持っているみたいに戦っているわ!」
城壁の上で、リーシャが興奮した様子で叫ぶ。
ハルツは無言で、彼女の腰にある護身用の短剣を最後の仕上げとして拭き上げた。
「……当然だ。道具を愛する奴の期待には、道具も応えてくれる」
エルエヴァ王国が魔族に圧勝した話は国民の希望となった。
その数日後、ボロボロの姿で逃げ込んできた一団があった。
かつてのハルツの仲間――勇者ゼノスたちだ。
「ハ、ハルツ……!」
ゼノスの手にある聖剣『アロンダイト』は、もはや見る影もなく錆びつき、どす黒く変色していた。魔力が詰まりきり、ただの重い鉄棒と化している。
「頼む、ハルツ! この剣を直してくれ! お前がいなくなってから、こいつは一度も光らなくなったんだ! 金ならいくらでも払う、だから……!」
ゼノスが地面に這いつくばり、ハルツの靴を掴もうとする。
だが、ハルツはその手を静かに払いのけた。
「言ったはずだ。……メンテナンスを止めたのはあんただ」
ハルツの瞳には、怒りすら残っていなかった。あるのは、ただの職人としての冷徹な事実だけだ。
「道具の声を聞かない奴に、二度とオレの腕は貸さない。……行けよ。あんたが愛さなかった剣と一緒に」
絶望に顔を歪める勇者を背に、ハルツはリーシャに向き直った。
彼女は少しだけ赤くなった顔を背けながら、ハルツの手をギュッと握りしめた。
「……ねえ。私、さっきの戦いを見て確信したわ」
リーシャは城壁から広がる、希望を持った騎士たちを見下ろした。
「ハルツ、あなたが私の自信になってくれたのね」
彼女はくるりと振り返り、最高の笑顔を浮かべた。
「だから……ずっと、私のそばにいなさい! 王宮専属技師として、私のわがままも、この国の未来も、全部ピカピカに磨き上げてもらうんだからね!」
ハルツは少しだけ照れくさそうに、でも誇らしげに鼻を鳴らした。
「……高くつくぞ、お姫様」
数ヶ月後。
エルヴァ王国の復興の中心には、常に槌の音が響いていた。
史上最年少の王宮専属技師、ハルツ。
彼の打つ一振りが、今日もまた、誰かの明日を輝かせている。
おわり




