The New Standard
- 1. India
高校二年の夏だった。防音室のドアを開けた途端、乾いた風が肌をさらっていく。
校舎の裏手にある部室棟。軽音部から漏れ聞こえるのは斜に構えたロックバンドのコピーだ。吠えるギター、性急なドラム。
グラウンドからは吹奏楽部の秩序だったマーチが聞こえてくる。軽やかなサックスフォンの音色。
「……どっちも違う」
玄野太陽のホメオスタシスが常に求めよと命じ続けるのは、レコード針の下で泣き叫ぶような呪わしい音楽だった。
「またサボり?」
非常階段に座っていた青年が、文庫本から顔を上げて太陽に声をかける。守藤歩夢だ。
太陽は制服の襟を広げながら歩夢の隣に腰を下ろした。
「サボりじゃねえよ。方向性の違いってやつだ」
「出た出た、バンドマンの常套句」
「俺はああいう、『僕は反抗しています』ってメッセージの垂れ流しみたいなのは苦手なんだよ」
太陽は苛立ち紛れに足元の小石を蹴った。
だからといって己が求めるものをどうすれば満たせるのかは分からない。
***
中学時代の知り合いもおらず、世界ががらりと変わった一年の春、太陽に声をかけてきたのはすでにクラスの中心的グループに陣取っていた男子生徒だった。
『玄野はやっぱ、軽音部だろ。ボーカルいないんだってよ。お前みたいな顔してりゃ、学祭のライブで女子が騒ぐって』
太陽は曖昧に笑った。興味がないわけではなかった。ただ放課後の時間は父が用意した演劇のワークショップに取られていた。
演劇界の重鎮、玄野夏雄の息子。太陽がいずれ舞台に立つことは既定路線だった。
『まあ考えとくよ』
適当に返事をして視線を窓の外に戻すと、前の席から声がした。
『俺たまに聴きに行くけど、結構好きだよ、軽音部のライブ』
歩夢が教科書を読みながら言った。集まりたてのクラスの中では存在感が薄く、太陽もまだまともに話したことがなかった。
太陽に声をかけた男子生徒がおどけてみせる。
『マジ? 守藤、音楽好きなん?』
『うん。聴くの専門だけど』
『評論家じゃーん』
『そうだよ。自分が複雑になっていくのが楽しいんだ』
茶化すような言葉に気を悪くした風でもなく笑って、歩夢は淡々と答える。彼の言葉が妙に太陽の胸に引っかかった。
夕食の席で「軽音部に入る」と告げた時、夏雄は小さく頷いた。
『表現者として幅を広げるのはいい。演劇部よりはマシだ』
それだけだった。父にとって、息子の音楽は演劇のための付属物だったのだろう。
***
軽音部での太陽は、想像通り顔のいい看板として機能した。バンドはロックをやっていたが、特に情熱があったわけではない。
ただ歩夢が毎回ライブを聴きにくることが、太陽の密かな楽しみだった。
華があり、見栄えのする顔立ち。玄野夏雄の息子という血筋。どこへ行っても美しく整えられた道が目の前に敷かれている。
「曲かけていい? 読書の邪魔になるならやめる」
「一回読み終わってるやつだし、いいよ。フィルターかかった環境で読み直すのも面白い」
歩夢の隣に座ったまま、太陽はスマホを手にとってYouTubeでランダムな再生リストを流す。
ピアノ、サックス、ベース、ドラム、言葉を交わすように音が紡がれる。即興の応酬。秩序と混沌の交差。音楽という生き物の呼吸を聞いているみたいだ。
そこにあるのは剥き出しの音と、演者の魂だった。
「親父がさ、うるさいんだよ。卒業したら劇団に入れって」
太陽が吐き捨てると、歩夢は読みかけのページに栞を挟んだ。
「嫌なの?」
「やだ」
駄々をこねるような太陽の短い言葉に歩夢が笑う。鼓動に似た速度のドラムを聴きながら太陽は彼の唇を見つめていた。
「玄野はどうしたいの」
「俺は……アメリカに行きたい。向こうで本場の空気を吸って音楽をやりたい。でも、金もコネもねえ。今家を出ても、結局親父の支配下からは逃げられない気がする」
夏雄は知り合いの音楽プロデューサーを紹介すると言う。父の伝手。父のコネクション。父の名前。
太陽は歯噛みした。自分には何もない。ただの十七歳の高校生で、父の息子というだけの存在だ。
ふぅん、とため息のように頷いて、歩夢はいつも通り何気ない口調で続ける。
「でも、乗り越えるべき壁がはっきり見えてるのって、ある意味幸運じゃないか」
「どういうこと」
「何が敵なのかも分からないまま腐っていくやつのほうが大半だろ。太陽にとっての壁は『玄野夏雄の血と名前』。そこを越えた先に欲しいものがあるって、分かってるんだ」
淡々と感情の起伏が乏しいようでいて、冷徹に現実を見透かしている。太陽の中で何かが音を立てて崩壊し、再構築されてゆく。
「……お前、すごいこと言うな」
「そう? 俺はただ、玄野の歌、好きだから。どんな形でもずっと聴けたらいいなと思うだけ」
歩夢の言葉はどんな甘い称賛よりも深く太陽の胸を掻き乱した。
秋がくる頃、太陽は高校を中退して単身アメリカに旅立った。
夏雄の金で、夏雄の伝手を使って。
――使えるものは使い尽くしてやる。この苦味も悔しさも。
- 2. Up against the wall
ニューヨークの冬は東京よりもずっと厳しい。
太陽はブルックリンの安アパートで凍えるような朝を迎えた。毛布にくるまったままスマホでニュースをチェックする。
夏雄は相変わらず世界中で活躍していた。新作舞台は大成功を収め、若手俳優の育成にも力を入れているという。
記事の中には弟の名前もあった。玄野深雪、十七歳。父の指揮のもとで裏方の仕事を学びながら俳優として舞台に立ち、将来は演出方面に進みたいと記事では語られている。
自分が家を出たせいで深雪が父の期待を一身に背負うことになったのではないか。そんなことを考えつつも引き返すつもりはなかった。
アメリカにきて三年が経っていた。
地下鉄の駅に充満する埃と鉄の匂い、路地裏から漂うゴミとコーヒーの香り。それらが混ざり合った独特の空気を肺いっぱいに抱え込みながら町を行く。
朝は語学学校に通い、昼はレストランで皿洗い、夜はジャズバーやライブハウスを渡り歩く日々だった。
英語は上達したが、音楽の才能は凡庸だった。それは自分でも分かっていた。
セッションに参加するたびに周囲の圧倒的な技術と感性に打ちのめされる。
「お前のプレイは小奇麗で痛みがない」
ある黒人サックス奏者に言われた言葉が、今も耳に残っている。
「日本に帰ってアイドルでもやってな。その顔なら稼げるだろう」
返す言葉もなかった。
部屋に帰ってベッドに倒れ込み、憎悪と憧憬を磨くように髪を掻きむしる。
日本でなら、名前を売ることは容易いに違いなかった。玄野夏雄の息子として華々しいデビューを飾り、マルチタレントじみたアイドル歌手として、片手間に歌とダンスを披露しながらバラエティ番組を渡り歩く。
それでもいい。ジャズは年を食ってからでもやれる。敷かれた道を歩きながらすべてを踏み潰してやればいい。
だが、まだ早い。今それをやれば太陽は玄野二世のまま、メディアの思い描くままに熟してしまう。
このアメリカで玄野太陽は名前を持たない、何者でもない東洋人。いずれ壁をぶち壊す日のために、魂を蝕む痛みこそが必要なのだ。
スマホの画面をスクロールする。
直接連絡を取り合っているわけではないが、歩夢がSNSに投稿する短い文章や、彼がシェアする音楽記事を追うことが、太陽にとっては唯一の休息だった。
歩夢は大学に進学し、音楽サークルに所属しているらしい。相変わらず地味で、一人でも誰かといても、いつも音楽を聴いている。
『今日の新譜レビュー。アイドルポップスに見せかけた極めて高度なファンクネス。ジャンルという箱に囚われているのは、作り手ではなく聴き手のほうかもしれない』
歩夢の言葉はフラットで、太陽の視野を自然に広げた。
彼はジャズも聴けば、アイドルも聴く。メタルも演歌も、そこに興味を惹かれる音があれば分け隔てなく愛でる。
「俺のこの泥臭い足掻きも、いつか音楽として聴こえるか」
壁にぶつかるたびに歩夢の顔が浮かんだ。
――乗り越えるべき壁が見えているのは幸運だ。
あの日、彼がくれた言葉が、ニューヨークの風の中で熱を帯びる。
凡人なら凡人なりの戦い方がある。天才の真似事ではなく、泥水を啜ってでも生き残る強かさを身につけるのだ。
- 3. Impressions
二十四歳の春、アメリカで率直に貶され、揉まれ、切磋琢磨して鍛え上げられた鋼のメンタルを携えて帰国する。
成田空港に降り立った太陽を待っていたのは芸能記者の群れとカメラの放列だった。
“玄野夏雄の息子、極秘留学から帰国!”
“父との確執を超え、ついに芸能界入りか?”
フラッシュの嵐の中で太陽は隙のない笑顔を浮かべてみせる。
父とは連絡を取らなかった。アメリカで知り合った日本人プロデューサーの紹介から急成長中の芸能事務所と契約する。
デビュー曲はJ-POPバラードだ。一転してアップテンポなダンスナンバー、甘いバラード、鮮烈なロックが続く。
事務所の戦略は明快だった。
「君のビジュアルとバックグラウンドは最高の武器だ。若手とは言えないが、だからこそミステリアスな雰囲気も出せる。絶対に売れる」
世界的な演出家の息子という血統書とアメリカ帰りの経歴、そして誰もが認める太陽のビジュアルを最大限に利用する。
かつて予想した通り、メディアは彼を「演劇界のサラブレッドが世に送り出す音楽界のプリンス」と持て囃した。
歌番組で求められるのはキャッチーなサビとカメラ目線の笑顔。超イケメンミュージシャンとして、太陽は順調に売れていった。
ギャップを演出するために体を張ったバラエティのオファーも断らず、どんなインタビューにも真摯に応じた。父との確執を、アメリカでの日々を、世間が求める形で何度も語った。
事務所が作る軽薄で流動的な偶像に、音楽ファンは見向きもしない。しかし太陽は気に留めなかった。
まずは名前を売ることだ。誰にも無視できないほどの支配力を持つ。与えられたステージで思うがままに踊ってやる。
やがてその熱で世界を狂わせるのだ。
深夜、自宅のマンションで一人、太陽はスマホの明かりの中に歩夢の言葉を探した。
堅実な批評の積み重ねが徐々に評価され、フリーライターとして名を上げ始めた彼の署名記事の片隅。
『玄野太陽。話題性に隠れがちだが、彼の歌声には確かな技術と抑制された情熱が見え隠れする。今後、どのような音楽性を見せてくれるのか。注目したい』
お前が俺を見つめている。その視線を焦げつかせたい。
静かに煌めく渇望が、空虚な芸能界を生き抜く太陽の原動力だった。
- 4. After the rain
二十七歳の冬、太陽は小さな劇場の楽屋にいた。弟の深雪がセカンド助監督を務める劇団の公演を見にきたのだ。
今回は深雪が俳優として舞台に立つ。彼もまた「玄野夏雄の息子」を背負ってそこにいた。
「きてくれてありがとう。父さんは相変わらずだけど、あれで兄貴が帰ってきてくれて喜んでるよ」
「べつに。親父の気持ちなんてどうでもいい」
「素直じゃない。似た者同士すぎるんだよな」
屈託のない弟の笑顔。父と絶縁に近い形で家を出た太陽を恨むこともなく、むしろ「兄貴は変に真面目だから」と気遣ってくれる。
「お前、芝居楽しい?」
「うん」
あっさりと頷く弟の無頓着な優しさは、少し歩夢に似ている気がした。
「俺は芝居が好きなんだと思うよ。でも自分からはこの世界にこなかっただろうから、『玄野家の確執』に感謝だね」
「はは……なんだそれ、深雪らしいな」
自分が勝手に抱えていた罪悪感も、弟の前では幻のごとく消えてしまうようだった。
劇場のロビーで太陽は開演時刻を待っていた。マスクとキャップで顔を隠しているが、それでも何人かに気づかれて写真を撮られる。
「玄野太陽だ」
「めっちゃイケメン」
「やば。兄弟並んでほしい」
囁き声が聞こえる。太陽は慣れた様子で軽く会釈して人混みから離れる。
その時、覚えのある横顔が視界を過った。
猫背気味にパンフレットを読み込んでいる。真剣な眼差しに鼓動が高まった。
「……守藤」
呟きは喧騒に掻き消されたはずなのに、彼は振り向いた。十年前と変わらない、少し眠たげな、けれど真摯な瞳が太陽を捉える。
「あ、玄野じゃん。久しぶり」
まるで昨日帰路で別れ、今日当然に再会したかのような、拍子抜けするほど普通のトーン。太陽は周囲の視線を気にすることも忘れて彼に近づいた。
「久しぶり、じゃねえよ。何、取材か?」
「そうだよ。ここの劇団、面白い音作るからさ。玄野こそ、なんで? ……あ、そっか。玄野……弟さんが出てるんだっけ」
「ああ。お前すげえな。ライターやってんのに、玄野夏雄の名前忘れられるとか」
「ごめんって。今日の目当ては音響の木暮さんだったから……忘れてないって」
歩夢に会ったら伝えたいことが山ほどあったはずなのに、喉元で引っかかって声にならなかった。カメラの前はうわべの言葉がすらすら出てくるというのに、太陽は自分に戸惑う。
歩夢はそんな太陽を見つめ、ふと思い出したように言った。
「そういえば、新曲聴いたよ。『ミッドナイト・パレード』。あれ、」
太陽は目を瞠った。アイドル全開のポップソングの中に隠した、モータウンの香りのベースライン。アレンジャーと喧嘩して強引に捻じ込んだニュアンスを歩夢なら嗅ぎ取れるだろう。
「待て! まだ言うな。お前に聴かせたい曲はあれじゃない。……もっと、別の」
「別の?」
「だから、その……連絡先、教えろよ。飯でも食おうぜ」
勢い込んで言うと、歩夢は昔と変わらない笑顔で頷く。
太陽は耳が熱くなるのを感じながらスマホの画面をタップした。
日本に帰ってきた最大のメリットは彼にいつでも会えることだ。
- 5. Dear old Stockholm
三十になる前にアイドル路線を固めたい。俳優業への進出も視野に。そんな戦略が飛び交う事務所での会議。
太陽はどんなジャンルも取り込むつもりだった。
親の七光りとビジュアルで売れた、元子役のジャズシンガー。そんな経歴は他の誰にも真似できない。すべての時間が、いつか自分だけの音楽になる。
春の夜の帰り道、太陽は築三十年の古びたマンションの一室に立ち寄った。
歩夢の部屋はフリーライターとは思えないほど物が少なく、訪ねるたびに以前あった物が消えているので太陽は困惑させられる。
「守藤って、ミニマリスト?」
「そんなおしゃれなもんじゃないけど。物理的に溜め込んでたらパンクしちゃうからさ」
そう言って彼はスマホを示し、“ここ”に全部入れてある、と笑った。
静かで無味無臭の空白の部屋。確かに、何かを吸収するには最適な空間かもしれない。
勝手に持ち込んだ自分用のクッションを膝の上に乗せて寛ぐ太陽のもとに、歩夢がマグカップを二つ持ってきた。
「はいよ、生姜湯」
「えぇ……ばあちゃんみたいなもん出すなあ」
「なんだよ。喉にいいんだぞ、それ。あと体が温まる」
「このクソ暑いのに」
「冷房の効いた部屋で暖まる。最高の贅沢じゃない?」
「なんか、真冬のコタツでアイスほど魅力的じゃないんだよな」
とはいえ太陽は酒もコーヒーも好まない。だから、この生姜湯は嬉しかった。
生姜湯を一口。冷やして炭酸で割ったらしく、ジンジャーエールに似た爽やかな辛味がある。
「俺、絶対売れるよ」
ぽつりと零れた本音。強かな野心と戦略の奥底にある、玄野太陽の渇望だった。
「玄野夏雄の付属品じゃなくなって、おっさんになって、顔じゃ見向きもされなくなったらジャズやんの」
「いいね、老獪で」
「だろ?」
「その諦めが悪いところ、俺は好きだよ」
事もなげに出てきた言葉に手が震える。
歩夢にとってはアーティストに対する敬愛や、友人としての親愛の意味なのだろう。だが、太陽の中にその音は違う響きをもたらした。
十年前、乾いた熱気に支配された部室棟で背中を押されたあの日から、太陽はずっと彼の視線を求めていた。
アメリカの孤独な夜も、日本の虚飾に彩られた栄光も、すべては――。
「お前、結婚するなよ」
「何いきなり? え、まあ、相手いないけど……なんで急に」
太陽はマグカップをテーブルに置き、身を乗り出した。歩夢の襟首を掴んで強引に引き寄せる。
驚きに揺れる黒い瞳が、至近距離で太陽を映している。
互いの唇に生姜の刺激が交差する。抵抗はなかった。あるいは、驚きすぎて動けないだけかもしれない。
「俺のだから」
「……へっ?」
唇が離れると、歩夢は顔を真っ赤にして硬直していた。珍しい表情を前に太陽は不敵に笑う。
思い描くだけの夢など見ない。どうせならこの混沌ごと呑み込む支配者となって、欲しいものは手に入れる。
それが玄野太陽の音楽だ。




