第8話 吹部の日常
文化祭での初舞台を終え、悠真の心は軽やかになっていた。
野球部の頃は、昼休みといえば、自主練習か、三枝たちと野球の話をするのが常だった。だが、吹奏楽部に入ってからの昼休みは、まるで違っていた。
悠真は、北原と一緒に、打楽器室でスティックの手入れをしていた。木製のスティックの表面を、やすりで丁寧に磨く。北原は、悠真の隣で、シンバルを柔らかい布で磨いていた。
「このシンバル、実は、俺が一年生の時に買ったやつなんだ」
北原が、シンバルを手に、そう言った。
「そうなんですか。綺麗ですね」
悠真がそう言うと、北原は、少し照れたように笑った。
「ああ。毎日磨いてると、愛着がわくんだよな。楽器も、グローブと同じだろ?」
北原の言葉に、悠真は、はっとした。
確かに、野球部時代、グローブの手入れは、欠かせなかった。革にオイルを塗り込み、土を落とし、形を整える。そうすることで、グローブは、悠真の手に、少しずつ馴染んでいった。
「そうですね。毎日手入れしてると、自分の分身みたいに思えてきます」
悠真がそう言うと、北原は、満足そうに頷いた。
「だろ? 楽器も同じなんだ。丁寧に扱ってやると、良い音を出してくれる」
北原の言葉は、悠真の心に、深く響いた。野球を辞めてから、グローブを手に取ることはなくなった。だが、今は、スティックと、シンバルと、そして、新しい仲間たちがいた。
「よし、今日は、ここまでにするか」
北原がそう言うと、悠真は、スティックをケースにしまった。
「ありがとうございました」
悠真が礼を言うと、北原は、笑顔で応えた。
「気にするな。これも、大事な練習だからな」
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放課後、練習が終わった後の帰り道。悠真は、明日香、新堂、岡嶋と一緒に、コンビニに立ち寄った。
「あー、疲れた。今日は、部長のソロ、めっちゃ良かったよなー」
新堂が、クラリネットのケースを肩にかけ、そう言った。
「そうですよね。美咲先輩のトランペット、マジでかっけー」
悠真がそう言うと、新堂は、にやにやと笑った。
「悠真、もしかして、美咲のこと、好きなんじゃないのー?」
新堂の言葉に、悠真は、顔を真っ赤にした。
「な、何言ってるんですか!」
「あ、図星だ。顔、真っ赤じゃん」
新堂は、面白そうに、悠真をからかった。
「ち、違うって!」
悠真は、必死に否定したが、新堂は、さらに畳み掛ける。
「だって、いつも、美咲のこと、目で追ってるじゃん。それに、美咲も、悠真のこと、気にしてるみたいだし」
「え、そうなの?」
悠真は、驚いて、新堂の顔を見た。新堂は、ニヤニヤしながら、頷いた。
「当たり前だろ。美咲、悠真が野球部だったこと、知ってるからさ。なんか、憧れてるみたいだよ」
新堂の言葉に、悠真は、胸がざわついた。まさか、美咲が、自分のことを、そんな風に思っているなんて。
「もう、新堂先輩、悠真くんをからかうのは、やめてあげて」
明日香が、新堂を窘めた。
「でも、本当のことだしー」
新堂は、まだからかっていたが、明日香の言葉に、渋々、口を閉じた。
悠真は、明日香に、感謝のまなざしを向けた。明日香は、にこっと笑って、首を横に振った。
悠真は、自分の頬が、まだ熱いことを感じていた。美咲は、悠真にとって、野球を辞めてから、初めてできた、心の支えだった。彼女の音に、救われた。彼女の言葉に、勇気をもらった。
「まさか、そんな……」
悠真は、心の中で、そう呟いた。
だが、その言葉とは裏腹に、悠真の胸は、かすかに、高鳴っていた。
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ある日の練習後。
葛城顧問は、部員たちを集め、ホワイトボードの前に立った。
「来月のコンクールに向けて、練習時間を増やす。覚悟しておけ」
葛城顧問の言葉に、部員たちは、一斉に、ため息をついた。
「うわー、マジかよ」
新堂が、そう漏らした。
「うるさい。コンクールは、甘くないんだぞ。全国大会に出るためには、今のままじゃ、ダメだ」
葛城顧問は、そう言って、部員たちを睨みつけた。部員たちは、一気に、静まり返った。
「だが、心配するな。俺も、お前たちと一緒に、頑張るからな」
葛城顧問は、そう言うと、ポケットから、一本の笛を取り出した。
「お前たちが、音を出すたびに、俺は、この笛を吹く。
お前たちが、音を外すたびに、俺は、この笛を吹く。
お前たちが、集中力を切らすたびに、俺は、この笛を吹く。
だから、俺の笛の音が、聞こえたら、すぐに、立て直せ。いいな?」
葛城顧問の言葉に、部員たちは、再び、ため息をついた。
「監督、それ、冗談ですよね?」
新堂が、そう尋ねると、葛城顧問は、にやりと笑った。
「さて、どうだろうな。
俺は、元々、甲子園の応援団だったんだ。選手たちの背中を押すために、毎日、この笛を吹いていた。だから、お前たちのことも、全力で、応援してやる」
葛城顧問の言葉に、部員たちは、笑った。葛城顧問は、怖いだけではなかった。部員たちを、心から、応援してくれている。そのことが、部員たちには、痛いほど伝わっていた。
「よし、明日から、頑張るぞ!」
葛城顧問の言葉に、部員たちは、一斉に、返事をした。
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悠真は、明日香、新堂、岡嶋と、再び、コンビニに立ち寄った。
「マジで、監督の笛、うるせーよな」
新堂が、そう言って、笑った。
「でも、監督が、昔、応援団だったって、ちょっと、意外でしたね」
悠真がそう言うと、新堂は、ニヤニヤと笑った。
「そうか? 俺は、なんか、納得したけどな。あんなに熱血な人、なかなかいないだろ」
新堂の言葉に、悠真は、頷いた。
確かに、葛城顧問は、熱血で、情に厚い。野球部の堀川監督とは、また違った、熱さを持っていた。
「悠真くんは、野球部だったんだよね?」
岡嶋が、そう尋ねた。
「うん。投手だったんだ」
悠真がそう答えると、岡嶋は、目を丸くした。
「すごい! 私、野球、よく知らないけど、投手の肩って、すごく大事なんだよね?」
岡嶋の言葉に、悠真は、少しだけ、顔を曇らせた。
「まあ、そう、だな」
悠真は、曖昧に答えた。
岡嶋は、悠真の顔を見て、何かを察したようだった。
「ごめんね。変なこと聞いちゃって」
「いや、大丈夫だよ」
悠真は、そう言って、笑った。
「野球を辞めたことは、後悔していない。でも、やっぱり、野球のことは、忘れられないんだ」
悠真がそう言うと、明日香が、悠真の肩に、そっと手を置いた。
「うん。知ってるよ。でも、悠真くんは、吹奏楽でも、輝いてる。だから、大丈夫」
明日香の言葉に、悠真は、胸が熱くなった。
「ありがとう」
悠真は、そう言って、明日香に、にこっと笑った。
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悠真の心の変化は、少しずつ、だが、確実に、進んでいた。
野球部だった頃は、練習が終わると、すぐに家に帰り、野球の動画を見ていた。
だが、今は、練習が終わると、仲間たちと、他愛のない話をして、笑い合う。
野球の傷は、まだ、完全に癒えたわけではない。だが、その傷は、吹奏楽部の仲間たちとの、温かい時間によって、少しずつ、薄れていくような気がした。
悠真は、もう、一人ではなかった。
野球部を辞めてから、ずっと、感じていた孤独感は、吹奏楽部に入ってから、少しずつ、消えていった。
「悠真、今日の練習、どうだった?」
父の健司が、夕食の席で、そう尋ねた。
「楽しかったよ。それに、コンクールに向けて、練習も、厳しくなってきた」
悠真がそう答えると、健司は、少し驚いたような顔をした。
「そうか。お前が、そんなに、熱中できるものが見つかって、父さんは、嬉しいよ」
健司の言葉に、悠真は、少し照れた。
健司は、野球を辞めた悠真に、何も言わなかった。だが、その言葉には、悠真を、心から、応援している気持ちが、こもっていた。
「ありがとう、父さん」
悠真は、そう言って、頭を下げた。
その日の夜。悠真は、自室のベッドで、スマホを手に取った。動画サイトを開き、野球の動画を探す。
だが、その手は、すぐに、止まった。
悠真は、スマホを置き、机の上にあった、スティックを手に取った。そして、机の上で、軽く、スティックを叩いた。
「カッ、カッ、カッ」
その音は軽快で、ただ心に深く響いていた。




