第7話 基礎地獄と文化祭
吹奏楽部に入部して二週間が経った。
悠真の部活生活は、野球部時代とはまったく違うものだった。朝練はない。放課後の練習も、日が暮れると同時に終わる。練習試合もないし、泥だらけになることもない。
だが、楽なわけではなかった。
悠真は、今、メトロノームと格闘していた。
小さな電子音が、規則正しく「カッ、カッ、カッ」と鳴り続ける。その音に合わせて、悠真はスティックを上下させる。
「真田、もう少し力を抜いて」
北原の声が飛んだ。
「はい!」
悠真は、力強く返事をするが、体が言うことを聞かない。
力を抜くと、スティックがふらつき、リズムがずれる。力を込めると、音が硬くなり、手首が痛む。
「野球のバットを振るように、スティックを振るんじゃない。手首のスナップで、軽く、叩くんだ」
北原がそう言って、手本を見せてくれた。
スティックの先が、まるで生き物のように、しなやかに動く。その動きに合わせて、スネアドラムから、軽やかで、柔らかい音が響いた。
「すごい……」
悠真は、思わず声を漏らした。北原のスティックさばきは、まるで、魔法のようだった。
「地味な練習だけど、これが一番大事なんだ。基礎ができていないと、どんなに速いリズムでも、正確な音が出せないからな」
北原の言葉に、悠真は、再びメトロノームに向き合った。
野球では、力の限り、ボールを投げることが正義だった。だが、吹奏楽では、力ではなく、正確さが求められる。
「カッ、カッ、カッ」
悠真は、メトロノームの音に、集中した。
手首の力を抜き、指先でスティックを操る。何度も何度も、失敗を繰り返す。
だが、そのたびに、北原が、根気強く、悠真を指導してくれた。
「よし、もう一度だ」
悠真は、額に汗を浮かべながら、再びスティックを構えた。
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その日の夜、悠真は、自室のベッドで、右手に力を込めた。手首がじんじんと痛み、指先には、大きな豆ができていた。
「うう……痛てぇ」
悠真は、呻き声を上げた。
野球部時代も、練習で筋肉痛になることはあった。だが、こんな風に、指先に豆ができることはなかった。
「これも、野球とは違う、新しい証拠だな」
悠真は、そう呟くと、痛む手を、じっと見つめた。その手は、もう、グローブを握ることはない。
だが、その手には、新しい夢を掴むための、新しい努力の跡が刻まれていた。
「よし、明日も、頑張ろう」
悠真は、そう決意し、眠りについた。
翌日。
悠真は、痛む手首と、潰れた豆をかばいながら、練習に励んだ。北原は、悠真の努力を、黙って見ていた。
そして、練習が終わると、悠真に、そっと、テーピングを差し出した。
「これ、貼っておけよ。無理は禁物だ」
北原の言葉に、悠真は、胸が熱くなった。
「ありがとうございます!」
悠真は、そう言って、深々と頭を下げた。
北原は、悠真の肩を、ポンと叩くと、何も言わずに、音楽室を出て行った。
悠真は、テーピングを手に、北原の後ろ姿を見つめた。北原は、悠真の努力を、ちゃんと見てくれている。
そのことが、悠真の心に、大きな勇気をくれた。
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打楽器パートの練習は、基礎練習だけではなかった。文化祭で発表する曲の練習も始まった。
「文化祭では、新入生も、短いけど、出番があるからな。頑張ってくれよ」
北原がそう言うと、悠真は、少し緊張しながらも、ワクワクした。
野球部時代、試合でしか、人前でプレーすることはなかった。だが、文化祭では、たくさんの人の前で、演奏することができる。
「俺、大丈夫かな……」
悠真は、隣に座っていた明日香に、そう尋ねた。
「大丈夫だよ。悠真くん、すごく上手になってるよ」
明日香は、にこっと笑って、そう言ってくれた。
「明日香は、チューバ、どう?」
悠真がそう尋ねると、明日香は、少し顔を曇らせた。
「私、緊張しちゃって。人前で演奏するの、苦手なんだ」
明日香は、中学時代、合唱部だった。
合唱部では、大勢で歌うから、あまり緊張しなかったらしい。
だが、吹奏楽では、一人一人の音が、はっきりと聞こえる。それが、明日香には、大きなプレッシャーになっていた。
「俺も、野球の試合は、緊張するよ。
でも、いざ、マウンドに立つと、不思議と、緊張が、高揚感に変わるんだ」
悠真の言葉に、明日香は、少し目を丸くした。
「そっか。悠真くん、すごいね」
明日香の言葉に、悠真は、少し照れた。
だが、同時に、明日香の気持ちが、痛いほど分かった。自分も、野球部を辞めてから、ずっと、緊張と、孤独と、戦ってきた。だが、今は、新しい仲間がいる。
「一緒に、頑張ろうな」
悠真は、そう言って、明日香の肩を、ポンと叩いた。
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文化祭当日。
悠真は、舞台袖で、心臓が早鐘を打っているのを感じていた。
「悠真、緊張してる?」
美咲が、悠真に声をかけてきた。
「はい……」
悠真が正直に答えると、美咲は、にこっと笑った。
「大丈夫だよ。楽しんで、演奏すればいいんだから」
美咲の言葉に、悠真は、少しだけ、緊張がほぐれた。
そして、いよいよ、吹奏楽部の出番になった。
舞台の幕が開き、まぶしいほどのライトが、悠真たちを照らす。観客席には、たくさんの人が座っている。
「うわ……」
悠真は、思わず、声を漏らした。
野球の試合で、スタンドの観客に、慣れているつもりだった。だが、舞台の上から見る景色は、野球のグラウンドから見る景色とは、全く違っていた。
「さあ、始めようか」
葛城顧問の声が、舞台に響く。
そして、指揮棒が振り下ろされた。
悠真は、メトロノームの音を思い出し、スティックを構えた。
そして、メトロノームの音に合わせて、正確に、そして力強く、スネアドラムを叩いた。
「カッ、カッ、カッ」
悠真の叩く音が、他の楽器の音と、一つになっていく。
トランペットの鋭い音色、クラリネットの軽やかな音色、チューバの重厚な音色。それらが一つになって、一つのハーモニーを奏でていた。
悠真は、演奏に、集中した。周りの音を聴き、自分の音を出す。
その感覚は、野球で、キャッチャーミットに、正確に、そして力強く、ボールを投げる感覚と、似ていた。
そして、曲が終わった。
観客席からは、大きな拍手が、波のように押し寄せてきた。
「うわぁ……」
悠真は、その拍手に、胸が熱くなった。野球の試合で、勝利の拍手を聞いたことはあった。だが、演奏で、拍手をもらうのは、初めてだった。
「すごい……」
悠真は、思わず呟いた。
そ の言葉は、悠真の心から、自然と溢れ出た、正直な気持ちだった。
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演奏が終わり、舞台袖に戻ると、葛城顧問が、悠真の肩を叩いた。
「よくやった。真田。初めての舞台とは思えない、堂々とした演奏だった」
葛城顧問の言葉に、悠真は、胸が熱くなった。
「ありがとうございます!」
悠真は、そう言って、深々と頭を下げた。
「お前は、野球で培った集中力と根性がある。それは、音楽でも、必ず、力になる。
だから、自信を持って、続けてくれ」
葛城顧問の言葉は、悠真の心に、深く突き刺さった。野球を辞めてから、ずっと、自分の努力が無駄だったような気がしていた。
だが、葛城顧問の言葉は、そうではないことを教えてくれた。
「はい!」
悠真は、力強く返事をした。
その日の夜。
悠真は、自室のベッドで、グローブを手に取った。革の匂い、土の匂い、汗の匂い。そのすべてが、悠真の過去を語っているようだった。
だが、悠真は、もう、その過去に、囚われていなかった。
「ありがとう、グローブ。そして、さようなら」
悠真は、そう呟くと、グローブを、机の引き出しにしまった。
そして、悠真は、新しく買った、スティックを手に取った。そのスティックは、もう、悠真の手に、馴染んでいた。
悠真は、スティックを、机の上で、軽く叩いた。
「カッ、カッ、カッ」
その音は、まるで、新しい夢を、奏でているようだった。




