第6話 先輩たちの音
新しい部活生活が始まって一週間。
悠真は、放課後になると、迷うことなく音楽室に向かっていた。
右肩の鈍い痛みは相変わらずだが、心の空虚感は、少しずつ満たされていくのを感じていた。
今日の練習は、合同合奏ではなく、パートごとの練習だ。
打楽器パートは、悠真と北原、そして同期の明日香と梨花、それに2年生の翔太の5人だった。
悠真は、北原から教わった基礎練習を黙々とこなしていた。スティックの持ち方、手首の使い方、メトロノームに合わせる練習。どれも地味な練習だが、悠真は集中して取り組んでいた。
「よし、今日の基礎練習はここまでだ」
北原の声に、悠真はスティックを置いた。
「真田、明日香、梨花。今日は、上級生の演奏を見学してみよう」
北原がそう言うと、悠真は、少し緊張しながらも、頷いた。
音楽室の隅には、上級生たちが集まって、パートごとの練習をしていた。悠真は、金管楽器パートの練習を見学することにした。
金管楽器パートの練習は、活気に満ちていた。トランペットの鋭い音色、トロンボーンの力強い響き、ホルンの温かい音色。
それらが一つになって、重厚なハーモニーを奏でていた。
「うわ……すごい」
悠真は、思わず声を漏らした。野球のグラウンドで、応援歌の主役だった、あの音だ。
「この音を、俺も、いつか、奏でたい」
悠真の心の中で、熱い感情が湧き上がった。
野球を辞めてから、ずっと、目標を失っていた。だが、今、新しい目標が、悠真の目の前に現れた。
悠真は、トランペットパートの練習に目を向けた。そこには、トランペットのエース、高瀬美咲が立っていた。
彼女は、目を閉じ、集中した顔つきで、楽器を構えている。そして、ひと際、力強く、そして美しい音が、音楽室に響き渡った。
その音は、まるで、夏の太陽のように、まぶしく、そして温かかった。
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悠真は、美咲のソロ演奏に、心を奪われた。
彼女の音は、野球のグラウンドで聞いた、あの応援歌の音色とは、全く違った。それは、一つの楽器が奏でる、たった一つの音だった。だが、その音は、悠真の心に、真っ直ぐに届いた。
「すごい……」
悠真は、思わず呟いた。
野球を辞めてから、ずっと、心が冷え切っていたような気がしていた。だが、美咲の音は、その冷え切った心に、温かい光を灯してくれた。
「美咲先輩の音、すごいですね」
明日香が、悠真の横で、そう言った。
「うん。
俺も、いつか、あんな風に、人に感動を与えられるような音を、奏でてみたい」
悠真がそう言うと、明日香は、にこっと微笑んだ。
「大丈夫だよ。悠真くんなら、きっと、できるようになるよ」
明日香の言葉は、悠真の心に、温かく響いた。
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練習が終わり、悠真は、美咲に声をかけた。
「美咲先輩、さっきのソロ、すごく良かったです!」
悠真がそう言うと、美咲は、少し驚いたような顔をした。
「ありがとう。でも、まだまだだよ」
美咲は、そう言って、少し恥ずかしそうに笑った。
「先輩は、どうして、トランペットを始めたんですか?」
悠真が尋ねると、美咲は、少し遠い目をした。
「……私の兄が、野球部だったんだ。
甲子園に行ったんだけど、スタンドで、吹奏楽部の応援を聞いて、感動したって言ってた」
美咲の言葉に、悠真は、ハッとした。
「そして、私は、その兄を、スタンドで応援していた。その時に、吹奏楽部の音が、兄の背中を押してくれているように見えたんだ。
だから、私も、いつか、甲子園のスタンドで、兄のように、誰かの背中を押してあげられるような音を、奏でてみたいって思ったんだ」
美咲の言葉は、悠真の胸に、深く突き刺さった。
美咲の夢は、悠真の夢と同じだった。野球のグラウンドで、誰かの背中を押してあげられるような、力強い音を、奏でること。
「……俺も、同じです。俺も、甲子園のスタンドで、あの音を、奏でてみたい」
悠真がそう言うと、美咲は、少し驚いたような顔をした。
「そっか。じゃあ、一緒に、頑張ろうね」
美咲の言葉に、悠真は、力強く頷いた。
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悠真は、美咲との会話を終え、帰り道を歩いていた。
心の中には、熱い感情が渦巻いていた。
野球を辞めてから、ずっと、目標を失っていた。
だが、今、新しい目標ができた。
甲子園のスタンドで、この吹奏楽部員たちと共に、あの力強い音を奏でること。それは、野球を辞めた悠真にとって、新しい夢だった。
「俺も行くんだ……」
悠真は、空を見上げ、そう呟いた。
空には、星が瞬いている。その星の光は、悠真の新しい夢を、優しく照らしてくれているようだった。
悠真は、ポケットに突っ込んでいた右手を出し、掌を開いた。グローブを握るためにあったその手は、今は、何もない。
だが、その指先は、何かを掴み取ろうと、わずかに震えているようだった。
「よし、明日から、もっと、練習に打ち込もう」
悠真は、そう決意し、家路を急いだ。
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翌日。
悠真は、練習に、いつも以上に熱心に取り組んでいた。
メトロノームのリズムに、スティックの音を合わせる。その音は、もう、硬く、不自然な音ではなかった。
「真田、ずいぶん、集中しているな」
北原が、悠真に声をかけた。
「はい。俺、甲子園のスタンドで、演奏したいんです」
悠真がそう言うと、北原は、にこっと笑った。
「そうか。その気持ち、すごく分かるよ」
北原は、そう言って、悠真の肩に手を置いた。
「俺も、最初は、お前と同じだった。
バンドのドラムを叩いていたから、吹奏楽の打楽器は、全然違って。何度も、やめようと思った」
北原の言葉に、悠真は、驚いた。
北原は、悠真の目には、完璧な打楽器リーダーに見えていた。
「でも、続ければ、必ず変わる。
お前が、野球で培ってきた集中力と根性があれば、必ず、できるようになる。だから、諦めずに、続けてくれよ」
北原の言葉は、悠真の心に、深く突き刺さった。
野球を辞めてから、ずっと、自分の努力が無駄だったような気がしていた。だが、北原の言葉は、そうではないことを教えてくれた。
「はい。ありがとうございます」
悠真は、北原に、深く頭を下げた。
「よし、じゃあ、今日は、もう一つ、新しいことを教えてやる。
シンバルの持ち方だ」
北原がそう言うと、悠真は、目を輝かせた。シンバルは、野球の応援歌で、最も力強く、そしてまぶしい音を奏でる楽器だ。
「野球で、バットを振るように、シンバルを叩くんだ。遠心力を使って、力強く」
北原の指示に、悠真は、スティックを握りしめた。そして、力強く、シンバルを打ち鳴らした。
シャーン!
と、まぶしく、そして力強い音が、音楽室に響き渡る。
その音は、まるで、夏の太陽のように、悠真の心に、温かい光を灯してくれた。
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